夜の事件
夕飯時になり、家へ帰宅する。今日中にはスマホが返ってくるかと思ったが、学校でスマホを返却してもらうイベントは発生せず、僕は姉の古いスマホを握りしめながら帰路に立つ。
自分のスマホではないという気持ち悪さはありつつも、古いスマホでも日常で使うには不自由ない。あくまでも一時的に使用する目的だし、無線ネットワークが繋がっていなければ使い物にならないため、必要最低限のアプリだけを入れている。
「ただいまー」
「お、お帰り……」
昨日残ったみそ汁の匂いが家の中に漂うが、姉が様子が明らかにおかしかった。
いつも充電満タンなぐらい元気なのに、今日は少し落ち込んでいるように見えた。
「姉ちゃん、どうかした?」
僕は自分の部屋に行く前にリビングに赴き、姉の様子を心配するように声をかける。親がほぼ家にいない現在、なんだかんだ一番僕が孝行しないといけないのは姉であり、自然と心配になってしまう。
「そ、それがね……さっき夕方スマホの件で学校に電話したんだけど……」
姉は言いづらそうにしていたが、深呼吸をして何とか気持ちを落ち着かせているようだ。
「一旦、部屋に荷物置いてきなよ、その後に話しようか」
「あ、うん。わかった」
誰が見ても作りものであることは明らかな人形のような笑顔を浮かべ、姉は時間稼ぎをするかのように僕を自室へ行くように促した。僕の心がそれに対して何も感じなかったかといえばウソになるが、特に反抗する理由もない僕は一旦部屋に戻り、バッグを置き、いつもの普段着に着替える。
……ピンポーン
あたかも僕がリビングにいないところを狙い撃ちしてきたかのように、ドアベルの音が鳴る。もちろん考えすぎなのだろうが、姉が挙動不審さだったり、サルに憧れの神崎のネガティブキャンペーンを受けたり、今日一日がいつもの日常の中でツキがない部類であることには違いなかったので、このドアベルもどこか無礼な悪魔がいたずらで鳴らしているのではないかと錯覚してしまう。
一日を終える制服である部屋着に着替えた僕は、自室を出て、リビングに向かおうとする。
だが、よれよれのスーツを着た男性二人が玄関で姉と話していることに気づき、ふとそちらに向かう。
「あなたが杉内竜馬くんですか?」
「はい、そうですが……」
見知らぬ二人の男性中でひときわ大柄な男性が僕の名を呼ぶ。もちろん十数年生きた中で彼に名乗ったことはなく、有名人でもない僕は他人の名前を一方通行で覚えることがあっても、決して覚えられる側ではないのだが、彼の身なりからなぜ彼が僕の名前を知っているのかは察しがついていた。
「私、署のものですが、少し中でお話をさせてもらってもよいですか? 保護者の方もいらっしゃるようですし、丁度いい」
「はい、どうぞ……」
彼はドラマでしか見たことがなかった黒革の警察手帳を僕たちの目の前で開き、彼が正真正銘の警察であることを僕たちに証明して見せた。姉は弱弱しいトーンで警察をリビングに通す。警察とはいえ、見知らぬ誰かを家の中に入れるというのは緊張するものだが、国家権力は初見の人の家に入り込むことになれているようで、堂々と家の中を歩いていく。
みそ汁の匂いが漂うリビングのテーブルに警察の二人を座らせると、僕たちも向かい側に座った。
「単刀直入に言いましょう……神崎渚さんはあなたのストーカー行為を受けていると相談を受けました。本日は最初の警告に来たのです」
雷に打たれたかのような衝撃が僕の全身を駆け巡る。
この警察は何を言っているのだろうか。
「僕が、ストーカー? そんな、何かの間違いでしょう。そんなこと、僕はしていません!」
神崎渚とは一度も話したことがないし、接点があるわけでもない。
大体、彼女はこの学校に引っ越してきて、まだ一か月ほどしか経っていないし、神崎渚が仮にストーカー被害を受けていると感じているのであれば、引っ越す前に関係があった人物から洗うべきだ。何かの間違いに違いない。
「一応証拠もそろっています」
そういうと、小柄な警察はバッグから見覚えのある携帯を大柄な警察に手渡す。
体格の大きさが、そのままどうやら上下関係と比例しているようだが、そんなことはどうでもよい。
なんで。
なんでそれがこんなところにあるのだ。
「それは、僕のスマホ……ですか!?」
「ええ、そうです。担任の先生と校長先生から既に許可はもらっています」
「そ、そんなの権利乱用だ! プライバシーの侵害じゃないか! 姉ちゃんもなんか言ってやってくれよ!」
僕に落ち度があったので担任にスマホを没収されることには納得もできるが、警察に横流ししても良いという許可を僕が出した覚えはない。それとも何なのか、国家権力であれば一般市民の持ち物を強奪しても良いとでもいうのだろうか。傲慢極まりない、酷いルールだ。
「一応事情を説明したうえで、あなたのお姉さまにも許可はもらっています」
「ねえ……ちゃん?」
「……ごめんね……竜馬……」
それは警察が僕のスマホを持っていたという事実よりも暴力的で、僕は後頭部を思い切りバットで殴られたかのような感覚だった。姉は常に自分の味方でいると思っていたし、常に僕を守るように動いてくれるのだと、ずっと思い込んでいた。残念ながら、それらは全て僕の思い込みであり、僕が見ている世界の中で動く妄想に過ぎなかった。
警察は恐らく担任に聞いたであろう、僕のスマホのパスワードを打ち込んで、ロックを解除する。
そして軽快に画面をタッチしていくと、僕のデータフォルダを開く。
「こちらの中には神崎さんの写真が多く入っていました。ほとんどが盗撮したようにピントがぼけていますが、いくつかは鮮明に撮られています。こちらを神崎さんにもこの写真に関しては撮られた覚えがないと。これは竜馬くん、君が撮ったもので間違いないかな?」
「はい。そうですが」
「うっ……!」
姉は、僕のスマホの中に保存されている数百数千とある神崎渚の写真を見つめながら、口を塞いで涙ぐむ。
一体僕のやったことの何が悪いというのだろうか。姉が悲しんでいる理由がこれっぽっちも理解できなかった。
「でも、何が悪いんでしょうか? きれいな風景があったら写真に収めたいと思うし、美しい花が道端に咲いていたらデータに収めたいと思うじゃないですか。僕は何も悪いことはしていません」
「いや、これはれっきとしたストーカー行為だよ。人の写真を無断で撮る、しかも付きまとうように一人の写真を撮り続けるのはストーカーがやることだ」
なんなんだ、こいつらは。写真部の連中といい、なんで僕の考え方が分からないんだ。
僕は単に美しいものをずっと残しておきたいだけなのに、なぜそれを咎められなければならないのか。
僕は間違っていない。僕が正しい。
この美しさを理解できない社会が悪いのだ。
それもこれも全部はあの教師のせいだ。
あいつが僕のスマホを没収なんてしなければ、変なストーカーなんて疑惑かけられなかったのに。僕がスマホをずっといじっていたのが気に食わなかったから、僕を学校に行きにくくしているのだ。全部あいつのせいだ、あいつのせいだ。
「神崎渚さんはあなたを避けるために毎日通学路を変えていたようだ。とはいっても電車の車両と時刻をずらすということしかできなかったようですが、あなたはいつも毎朝彼女が乗っている車両を探しては近くで立っていたとか。背景を見るといくつかの写真は電車内だね」
登校したばかりの神崎渚はまだ眠気も漂わせ、それはかすかに儚さを感じさせていた。
何よりもサラリーマンという量産型の人間の中にひときわ輝く光であり、彼女の何気ない一つのシーンが美しかった。
「授業中や下校している姿も映っている写真もあった。これら全部を見て、警察は動いたんだ」
「竜馬……あんた、最近帰りが遅いと思ったら……」
授業中に見える彼女の端正な横顔も、下校時の夕暮れ時に映る彼女のシルエットも。
それだけで完結した存在だった。芸術だった。
「僕はストーカーじゃない、ストーカーじゃない! 僕はただ、ただ、神崎さんを見ていたかっただけだ! 神崎さんを呼んでくれ、説明すればきっと分かってくれる!」
芸術を、美しいものを愛でることに、なぜこれほどまでの批判を受けなければならないのだ。
姉も僕を守ってくれなかったし、警察も僕を犯人扱いしてやまない。サルも僕を神崎渚から遠ざけようとしたし、もうこの社会全体に僕を理解してくれる人がいないように感じた。
せめて。
せめて神崎渚にこの誤解を解いてもらえれば、自分はまだ社会に認められる余地があると救いを求めていた。
「杉内くん、神崎さんは君に会いたくないと言っている。彼女はクラス替えをしたし、極力君との接触は避ける形で対応する予定だ。君もまだ若いし、君の悪評を立てる気も一切ない。彼女との接触は避けるんだ。次に彼女に変な真似をしたら警告だけではすまなくなってしまうからね」
神崎渚すら、僕を見捨てた。
もう同じ空間で、美しいものを眺めることすらできない。ちっぽけな社会分子の一員でしかない僕は、警察の脅しに頷くしかなかった。逆上したくても、もう意味がない。僕は決して間違ったことをしていないが、僕の言葉に耳を傾けない人は、一生傾けることはない。
「……お姉さん。少し調べ刺させてもらいましたが、彼はまだ療養中でしょう。まだ情緒が安定しないときは通学を控えさせてください。一番かわいそうなのは被害者ですから」
警察はぼそりと姉にそう呟く。
教師から聞いたのだろうか、どうやら僕の素性もいくらか調査されているらしい。
「……はい……大変ご迷惑をおかけしました……」
姉はテーブルに額がくっつくのではないかと思うほど深々と頭を下げる。
僕もそれに習って浅く頭を下げる。
仕事を終わらせた警察の二人は何事もなかったかのような顔で帰っていった。
今日は酷く、醜い非日常だった。
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