昼の休み時間

「なあ、サル。最近ちょっと気になってることがあるんだけどさ」


「ん……? あん、どうした、杉内?」


 学校での唯一の自由時間ともいえる昼休みに、僕は前の席に座っているクラスメイトに声をかける。

 中々スパルタな運動系の部活に入っているそのクラスメイトは、俺が電車に乗っている時間には朝練という苦行の名のもとに既に校庭を走り回っていたらしく、昼休みは机に突っ伏していた。


 彼のことをサルと呼んではいるが、高校に通えるほどの知性を持ったオランウータンはまだこの世には存在しておらず、坊主頭で背が小さく、フットワークが軽くてちょこまかと動き回っていることから、周囲からそう呼ばれている。

 中学生からの付き合いであり、中学から僕がサルのことをサルと呼んでいたら周囲にそれが広まったというのが正確で、僕はいわゆるサルの名付け親ということになる。


 僕が呼びかけると眠気の影響で重力が数十倍になっていたであろう上半身を持ち上げ、僕の方を向く。


「お前って電車乗るとき、乗る車両を変えたりするか?」


「突然声かけられたと思ったら、そんなことかよ」


 僕はここ最近疑問に思っていたことを彼にヒアリングしてみることにした。


 サルは夢の世界から現実に引っ張られた理由がちっぽけなことを知り、落胆した顔を隠せていない。

 彼が朝練で疲労困憊なのは知っているが、午前の授業から睡魔と格闘しているのを後ろから眺めるのは毎日のことだし、なんだかんだ話に付き合ってくれるので、僕はこれっぽっちも申し訳ない気持ちを抱いていない。


「俺は変えないな。いつも降りる駅の出口階段に一番近い車両に乗る。そっちのほうが下りる時スムーズだしな。階段でおっさんともみくちゃになるのは気持ち悪いし。真っ先に出口に出るようにしてるぜ」


「まあ、そうだよな……」


 普通に考えたら車両を変える必要もないし、毎日同じ車両に乗っていたほうが楽に違いないのだ。人間は一日当たり六万回選択をしていると言われており、物事を選択する回数が多ければ多いほど疲れてしまうという。いわゆる選択疲れというものなのだが、それを回避するためにも、同じ時刻に、同じ車両に乗車したほうが良いに決まっている。


「っていうかさ、なんでそんなこと聞くんだ?」


「ああ、実はさ……」


 僕は朝の出来事をサルに話した。転校生である神崎渚と同じ電車に乗っていること、毎朝鉢合わせに電車の中で鉢合わせになること、そして彼女が毎日異なる車両に乗っていて、僕がそれを不自然に感じていること。

 サルは決して頭の良いタイプの人間ではないが、長い付き合いということもありよく僕の相談相手になってくれる。何より悩み事を相談しているときに、茶化さないという安心感だ。平たく言ってしまえば聞き上手なのだろう。


「確かに不自然だとは思うが……あれだろ? 神崎ってここ最近転校してきたばっかなんだろ?」


「多分転校して一か月ぐらい経つ頃だと思う」


 一か月という期間が長いか短いかは人それぞれの基準によって判断が分かれると思うが、学校生活の波に乗るには十分すぎる長さであり、神崎渚はいわゆるスクールカーストの上位グループに属していた。メイクが濃く、香水の匂いよりも男の匂いのほうが強い色欲にまみれたグループではなく、その透き通った見た目の通り、生徒会役員や風紀員などを任される優等生が集まったグループで学校生活を満喫しているようだった。


「じゃあ、まだ定位置を見つけられてないんじゃないか? 彼女も県外から引っ越してきたって言ってたし、一番出口に近い車両を見つけられてないとか」


「そうかなあ? それなら順番に乗る車両をずらしていくもんじゃないか。彼女の乗る車両って規則性がないんだよ。今日は第三車両に乗ったかと思えば、次の日は第五車両、その次は先頭車両みたいな。大体引っ越して一か月も経つのに定位置を見つけられないって、可笑しくないか?」


「人間の記憶ってあいまいなもんだぜ? 一番出口に近い車両を探しているうちに『昨日ってどの車両に乗ったっけ?』なんて度忘れしちゃうことだってあるだろうよ。別に変じゃないと思うけど」


 一か月経ち、神崎渚は僕が見る限り、既に校内の全ての施設を覚えているようだし、方向音痴であるようには見えなかった。

 サルであれば一日ごとに記憶がリセットされるのかもしれないが、神崎渚に関してはそうではないように思えた。


「気になるなら、直接聞いてみればいいんじゃね? この話をきっかけにお近づきになれるかもしれねえじゃん。お前が好きかどうかはさておき、神崎のことが気になるのには違いないんだろ? 実際神崎はこのクラスで一番美人だとは思うしよ。こんなところでウジウジ考えてるより、当事者に答えを聞いたほうが早いって」


「う、うん……でもなあ……」


 サルは突拍子もないことを提案する。

 いや、理屈としては正しいのだろうが、僕のようなスクールカーストのピラミッドの中に属しているのかすら危うい幽霊のような人間が神崎渚のようなミカエルに話しかけても良いのか悩ましい。同じ空気を吸ってはいるものの、生きている次元がまるで異なり、物理的な距離がたかだか数メートルであったとしても、そこには神の見えざる手が僕の彼女への接触を拒んでいるかのように思えた。


「じゃあ、俺が聞いてやるよ」


「本当か?」


「ああ。だって聞くだけだろ? そんなん誰にでも出来るって。あとで時間あるときに聞いといてやるよ」


 サルは表情一つ変えずに流すように言った。

 恐らくサルも神崎渚と話したことはなく、神崎渚と接触をするハードルは僕と同じぐらいの高さに違いないのだが、サルの機敏さと厚顔無恥さの前にはハードルもへったくれもないようだった。


「流石サルだな。助かる」


「おうよ」


 圧倒的なインドア派であると僕とは真逆といっていいほど、対照的なアウトドア派のサルは水と油のように相いれない部分はあるとしても、お互いがお互いに出来ないことが出来るという信頼関係だけはある。彼の動き方や大胆さには僕の理解が及ばないこともあるし、正直内心嫌いだと思うこともあるが、それでもサルがいてくれて助けられた恩のほうが大きい。


 聞くことも聞いたことだし、昼ごはんも軽く食べてしまった僕は残りの時間何もすることがなくなってしまった。

 僕はスマホを取り出し、簡単にSNSのチェックをする。今どきの高校生だと思われるかもしれないが、暇があればSNSをチェックしているし、リアルタイムで流れてくる情報を眺めているのはなんだかんだ言って好きだ。


「でも、お前本当にスマホばっかいじってるよな。授業中もいじってるし。いつか没収されるぞ? 授業中はスマホ禁止だし、チクられたら終わるぜ?」


「授業がつまんなすぎるんだよ」


「あれか? 写真部だからスマホで写真を加工とかしてんのか?」


「もう部活には入ってないよ」


 部活のこともこいつには相談したことがあると思うのだが、やはり毎晩脳みそを宇宙人にでもすり替えられているらしく、もう忘れてしまっているようだ。もはや病気なのではないかと思うが、このバカさもある意味個性なのだろう。


「人間関係が僕には合わなかったし、自分で自由に写真を撮るのが一番だ」


「ふーん、そうか」


 校内にチャイムが鳴り、自由時間の終了と刑務作業の開始を告げる。

 日本史の先生であり、僕たちのクラス担任でもある眼鏡をかけた中年男性が教室に入ると、ざわざわしていた生徒たちが突然大人しくなり、自分の席に座るとカバンから日本史の教科書と筆記用具を取り出していた。


「よーし、席につけー」


 日本史なんて、いや日本史に関わらずだが、先生は結局本に書いてあることをなぞっているに過ぎない。別に僕は天才ではないが、日本語は理解できるし、教科書を自分で読み込んで頭の中に入れることぐらい出来るに決まっている。

 神崎渚に会える通勤電車は、カラフルな日常に分類されるのだろうが、このようなつまらない授業を淡々と聞かされるのはモノトーンな日常だ。誰が悲しくて数十分も半分ハゲた中年男性のお経なんて聞かなければならないのだろうか。


 僕はいつも通りポケットにしまってあるスマホを取り出す。

 教科書の活字を眺めているよりも、圧倒的に有意義だ。


「おい、杉内」


 突然自分の名前が呼ばれ、体がビクッと反応する。

 黒板にミミズのような授業メモを書いているかと思いきや、僕のほうを一直線に睨みつけていた。


「……この授業が終わったら職員室に来い。今握ってるお前のスマホについて話がある」


「……はい」


 どうやら僕も年貢の納め時のようだ。社会のルールに、ほんのささやかな反抗を試みたが、僕は若くして敗れ去ってしまったのだ。十数年と教師をやってきたモンスターを相手に、たかだか十年ほど生徒をやってきた小僧が敵うわけもなく、バレないと思っていた行為も、彼らの監視の目からは逃れることが出来なかった。


「……ざまあねえぜ」


 サルはニヤニヤしながら、僕のほうを振り返る。『してやったり』といった顔だ。

 ムカつくが、数十分前の彼の未来予知が的中してしまったのだから、そういう表情にもなるだろう。僕の半身であるスマホをこれから没収されるかもしれないという悲壮感を彼を共有することは、恐らくできないだろうと確信した。


「……うっせえ、サル」

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