Ⅳ-25
目が覚めたのは明け方のことだった。上着越しにまとわりつく冷気ではなく、胃の辺りを混ぜ返されるような不快感のせいだった。傾禍の余波だと直感して飛び起きたが、吐き気に似た感覚のほかに変調はなく、周囲にも変化は起きていない。息をつきかけて、ナズカがいないのに気づいた。名前を呼んだが事務室は静かなままだった。
私はよろけながら手当たり次第に部屋を回り、ついに廊下の隅に後ろ姿を認めた。私は声をかけるのをためらった。違和感があった。確かに彼のはずなのに、別の何ものかを塗り重ねられているような。
それでも覚悟を決めてナズカを呼ぼうとした時、危うく倒れかけた。床が揺れている。いや、自分だけが揺れているのかもしれない。火照る体を冷えた血が巡り、眩暈が頭を揺さぶり、手足の感覚が薄らいでいく。枯れ木が頭をよぎった。
かろうじてのどが震え、ナズカ、と声がこぼれ出た。膝から力が抜けて体が崩折れる。ナズカが口を大きく動かした。私の名前を呼んだらしかった。駆け寄ってきて私の手をとる。
「イラテ」
はっきりと声が耳に届いた。ナズカが体を起こしてくれる。黄鉛色の瞳が焦りに揺れている。
「逃げるんだ」
返事をするより早く、私の手を再び握ってナズカが走りはじめた。頭を射抜かれたような痛みに歯を食いしばる。窓ガラスの溶けだす廊下を抜け、花吹雪に埋め尽くされた静物画の部屋を抜け、入口のホールにたどり着く。
ナズカが私の手を離すと、螺旋階段の方に数歩下がった。
「そこから出て」
「お前は」
「行けない」
「何を言ってる」
「だめなんだ」
私は食い下がるナズカの腕をつかみ、扉にもう一方の手をかけた。
「ここにいたらお前も危ない」
「イラテ」
体重をかけて押し開ける。視界の隅で防犯装置のランプが光っている。
「だめだ、僕は――僕らは」
扉が重く軋んだ。朝の澄んだ光が鳥のさえずりを連れて射し込んでくる。ポーチに踏み出した途端、ナズカが悲鳴をあげた。弾けるような痛みが手から全身に走り、気づくと私は石の床に転がっていた。腰をしたたかに打ち、ナズカをつかんでいた手には痺れが残っている。
隣で倒れ伏すナズカに気づき、私は手を差し伸べようとした。しかしそれより早く彼は顔を上げ、喘ぎながらホールの方へ這っていった。見れば彼の進む先、ホールとポーチの境に大きな四角いものがあった。額のない絵だった。今しがた通った場所だというのに気づかなかったのか、それとも今唐突に現れたのか。
ナズカの背中は何かが抜け落ちたように軽く、脆く見えた。その後ろからカンヴァスをのぞき込む。月に照らされる川面、そして黒々とした森が目に入るなり、奇妙な感覚に蝕まれた。この絵を確かに知っている。しかし何かが決定的に違う。何かが思い出せない。
ナズカが震える手で絵に触れる。脳裏で小さな明かりが閃いた。そうだ。この絵は紛れもなく《殉教者に扮するウンゼ・イレツィス》だ。なのにカンヴァスの中央、主役がいるはずの場所には、草の生えた川辺が広がるばかりだった。
ナズカは、ああ、と声を漏らした。そして、祈るようにとたとえるにはほど遠い、力ない動きで頭を深く垂れた。川面には波紋の余韻が月光をきらめかせていた。
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