Ⅳ-24

 床に置かれた書類に足をとられそうになりながら部屋を一回りする。やはり姿は見えない。席に戻ってふと、ゆうべナズカのいた机にノートが置かれているのに気づいた。開くと彼の書いた文字が並んでいる。日記のようだった。私はぱらぱらとページをめくり、手を止めた。ナズカとは違う筆跡があった。次のページにも、その次にも、見覚えのない文字がちらほらと記されている。行の隙間や余白に書き足されたのではなく、ナズカの文章の中に紛れ、まるで二人で書きあげているように。


 ページをさかのぼって気づく。二人目の筆跡が現れたのは、ちょうど傾禍の起こったのと同じ日だった。


 心臓が強く鳴った。一つ丁寧に呼吸をすると私は事務室を出た。昨日のように展示室を歩いて回る。壁に所狭しと並んだ作品は、ナズカの言葉どおりほとんどが無事なように見えた。しかし、ある風景画は額が溶けてカンヴァスの半分ほどを覆い、農民の和やかな婚礼は盃や椅子の飛び交う乱闘に変わっていた。


 肖像画を集めた一室に入る。ナズカを呼んでみるが答えるものはない。外からは馬車の音も聞こえない。角を曲がると十歩ほど先に枯れ木が立っていた。間取りなどから考えて、ゆうべ私がぶつかったのと同じものに思われた。馭者の言葉を信じるならば、これは人の亡骸ということになる。館を訪れていた者か、ここに勤めていた者か。ここから逃げようとしていたのか、それとも避難してきた矢先に災いに見舞われたのか。


 私は目を伏せて枯れ木の横を通った。何気なく上に戻した視線が一つの額に行き当たった。縦長で、胸像を描くには大きすぎる、全身像にしては少々小さい寸法だった。それが、収めているはずのカンヴァスを失い、裏板を露わにしている。私は吸い寄せられるように進んだ。浮き彫りは意匠こそ植物をあしらった型通りのものだが、細部まで丹念に仕上げられている。小さなプレートに《殉教者に扮するウンゼ・イレツィス》と書かれているのを見た時、私は再び脈の音が騒ぎはじめるのを聞いた。視界の外に気配を感じて振り向くと、枯れ木が静かに立っていた。枝の何本かが《ウンゼ》に向けて伸びているように見えた。私はここで起きた出来事をまざまざと悟った気がした。居ても立ってもいられなくなってその場を去った。中庭の見える廊下を通り、いくつかの展示室を駆け抜け、ホールまで戻ってくる。


 後ろを向いた人影がそこにあった。片膝をつき、崩れた螺旋階段を見上げている。周囲には、乱れた呼吸の音をも咎めるような、静寂を強いる空気が満ちていた。私はホールに一歩入ったところで足を止めた。違和感があった。確かに彼のはずなのに、別の何ものかを塗り重ねられているような。


「君よ」


 声が朗々と響いた。それを待ち望んでいたかのように、ホールの空気が震える。


「私の清らなる魂は掬い上げられることでしょう」


 低くしゃがれながらどこか幼い、聞いたことのない声色だった。


「そして哀れなる体は穢土に残ることでしょう」


 そうかと思えばナズカの声で言葉は続いた。


「君よ、どうか体を分かち合い、魂を通わし、永遠の安らぎをお与えください」


 長い数拍の後、彼がやおら立ち上がる。それを合図に森の香りを孕んだ夜風が吹いてくる。彼が微笑み、月影を受けた瞳が緑に輝く。


「イラテ」


 もはやどちらのものともつかない、どちらのでもある声が呼ぶ。不吉な直感の答えがそこにあった。私は答えないまま背を向けた。足を進める。決然と、再びわき起こる眩暈を一歩ごとに踏み砕くように。扉を押し開けると、澄んだ空気が鳥のさえずりを連れて流れ込んでくる。私はポーチに出て、振り返ることなくドアノブから手を離した。


 前庭にも通りにも朝の光が満ち満ちていた。私は目を細めながら川沿いを歩いた。歩くうちに眩暈も吐き気も引いて、頭から腹の辺りからがすっかり軽くなった心地がした。小さな広場で辻馬車を拾って駅に向かい、ちょうど停車していた南行きの列車に乗った。


 降車駅はいつものようににぎわっていた。私は帰路を少し外れたところにある花屋に立ち寄った。最初に目にとまったのは花弁の波打つ黄色い花だったが、結局は控えめな大きさの白い花にした。店を出、見知った界隈の方へ歩きながら、花の飾り方を考えていなかったことに気づく。薄曇りの空からぱらぱらと雨が落ちはじめていた。






end2 永訣の白

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