Ⅳ-23

 私はよろけながら手当たり次第に部屋を回り、入口のホールに後ろ姿を認めた。片膝をつき、崩れた螺旋階段を見上げながら、何かをつぶやくように口を動かしている。私は呼ぶのをためらった。違和感があった。確かに彼のはずなのに、別の何ものかを塗り重ねられているような。


「ナズカ」


 私は努めて何気ない調子で言った。反応がない。さらに近づいて再び呼びかけると、彼は立ち上がってこちらを向いた。私は思わず一歩後ずさった。ナズカの顔に別の顔がへばりついていた。あの《ウンゼ》だった。儚げな弧を描く眉に大きな口、切れ長の目に収まった紺青色の瞳。


「いけないな、お客さん」


 ウンゼの顔は聞き慣れない、低くしゃがれながらどこか幼い声で言った。


「勝手に上がってこられちゃ困るよ。さ、席に戻っておくれ」


 ウンゼの顔は微笑している。私は動けなかった。吐き気がぶり返し、狂ったぶらんこのような眩暈がわき上がっていた。それらから逃れるように頭を振ると、目の前の男には見慣れた顔が戻っていた。


「おはよう。疲れはとれた?」


 ナズカの声だった。私は一言応え、続けて問うた。


「今、何をしていた」

「うん?」

「階段のところで何か言っていただろう」

「僕が?」


 ナズカはかぶりを振った。


「何も言ってないよ」

「何も?」

「うん」


 私は問うのをやめた。まさか自分が寝ぼけているとは思っていない。しかしナズカが嘘をついている風でもなかった――あるいは、まるで今しがた自分がしていたことをすっかり忘れているかのようだった。


「さてと、始めようか」


 ナズカが歩きはじめる。


「お昼頃には二階を見終わる予定だよ」


 私はうなずいた。吐き気がまだどこかにつかえているような感覚に、息を大きく吸って吐く。朝の空気に青く甘い香りが混ざっている。壁には花を描いた静物画が並んでいた。花瓶にとまっていた蝿が一匹浮き上がり、目の前を飛んでいく。


 展示室を通り、角を曲がって、窓のない階段に着いた。一人が行くには十分な、しかし二人が並んで通るには狭い幅だった。ナズカの背中を追って段に足をかける。石の段がかすかに軋んだのは気のせいか。


「階段があちこち壊れちゃってさ。ここが一番ましなんだ」


 ナズカが前を見たまま言った。


 数段のぼり、行く先へ目を上げる。瞬間、今度は明らかに足が沈んだ。はっとした時には視界に天井が広がり、背中に衝撃が叩きつけられた。息の押し出される音が鳴った。


「イラテ」


 足音が駆け寄ってくる。


「大丈夫かい」

「ああ」


 唸るような眩暈を覚えながら答えた。頭を打ったのだろうが、原因がそれだけでないことは明白だった。火照る体を冷えた血が巡り、手足の感覚が薄らいでいく。傾禍の余波が、大きな余波が起こりつつある。石畳に朽ちる枯れ木が脳裏に蘇った。どうすれば助かるのか――いや、まだましなのか、逃げ場はあるのか、何一つ分からなかった。それでもうめきながら立ち上がった。


「出る」

「え?」

「ここを出る」


 私はナズカの腕をつかむと、記憶を頼りに入口へ走った。展示室を通るたび、花吹雪が舞い、悲鳴や苦悶の声、あるいは狂った笑いが押し寄せる。


「止まってくれよ」


 ナズカ――いや、今の声はウンゼだった――がわめいた。


「仲間を見捨てるってのか」

「今は無理だ」


 私は叫び返した。


「外に行くのか」

「でなきゃどうする」

「外はだめだ。出られない!」


 波打つ絨毯につんのめりながら入口のホールにたどり着いた。崩れた螺旋階段を背に扉へと突き進む。


「イラテ」


 すがるような声がした。ナズカだった。


「だめだ、外は」

「何が」

「僕は――は」


 視界の隅の壁で何かが瞬いた気がした。扉を押し開ける。ポーチに踏み出した途端、ナズカの言葉が悲鳴に変わった。弾けるような痛みが手から全身に走り、気づくと私は石の床に転がっていた。腰をしたたかに打ち、ナズカをつかんでいた手には痺れが残っている。


「ナズカ!」


 周囲を見回しながらよろよろと身を起こした。人影はない。気配すらない。靴に何かが当たった。目を落とせば額のない絵が一枚、ポーチとホールの境に落ちている。


 《殉教者に扮するウンゼ・イレツィス》。鮮やかな緑の瞳が月明かりを仰いでいた。






 end3 法悦の緑

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