Ⅱ-10
歩き回るには心もとないが足を進める。靴の先が何かを蹴って、しゃがんで触ってみれば壁から落ちた絵や倒れた調度品で、それらは壁際に寄せて置いた。魔法で明かりをつくること自体は容易だし、使う魔力の量も知れている。しかしそれしきのことも、傾禍と結びつけば何を引き起こすか予測できたものではない。炭鉱の中で考えなしにマッチを擦るのと同じだ。
そういえば《ウンゼ》は無事だろうか。この館では一階に比較的新しい作品を展示しているから、飾られているなら一階だ。ナズカもそこにいるだろうか。彼ならば絵の一枚一枚の所在を把握しているはずだし、この暗さでも探し当てることは難しくないのではないか。
と、頬に尖ったもので突かれたような痛みが走った。とっさに触ると血は出ていないようだった。前に伸ばした手が、ひび割れたような表面の細いものに触れる。外で見た枯れ木が頭をよぎった。
一階を回ったが人影はなかった。私は途中で見つけた狭い階段まで戻り、壁を手探りしながらのぼった。のぼりきった先は広い廊下で、いくつもの大きな窓が外から街灯の光――空間をあまねく照らすには頼りないが――をもたらしていた。その光を背に浴び、途方に暮れたように人影が立っている。私は呼ぶのを一瞬ためらった。重心の置き方も背格好も間違いなく彼なのに、なぜか毛並みを逆なでするような違和感があったので。
「ナズカか」
人影はこちらを向いた。
「イラテだ」
私は言った。
「イラテ」
「ああ」
「悪いけど、明かりをつけてくれないか」
「使っても大丈夫なのか」
「おそらくね。防犯装置も生きてるし――だめだった時は建物ごと吹き飛ぶしかないね」
ナズカの影がおかしそうに小さく震えた。先ほどの違和感は消えていた。私は右手の親指と人差し指をこすり合わせて光をつくった。ランタン程度の明るさまで育ててから宙に飛ばす。同じ要領でもう一つこしらえ、ペンの先に移してナズカに渡した。
「あまり離れると消えるから気をつけてくれ」
「分かったよ、ありがとう。これで色々とはかどるよ。まずは作品の確認を終わらせよう。魔法が使えると分かったんだ、君にも協力してもらうと思うけど――」
「ナズカ」
ずんずん歩きはじめていたナズカが振り向いた。丸いレンズの奥に
「腹は減ってないか」
研究中、彼が朝から晩まで何も口にしないことはざらにあった。私は鞄からナッツ入りのショートブレッドの袋を出した。
「僕はいいよ。さっき食べたところだから」
「いつ」
「今日のどこかで――君こそお腹空いてない?」
「俺はいい」
「そう。食べるなら展示室以外で頼むよ」
ナズカは壁にかかった一枚を丹念に観察している。
「今日来たのかい」
「ああ」
「いつ以来かな? 前にも一度来たね」
「三年前だ。お前がここで働きだしてすぐ」
「そうだったかな。それで今回はどうしたんだい? 僕のことが心配だった?」
「お前も絵もだ」
「それは嬉しいな」
ナズカが微笑する。依然絵に向けられた彼の目を、私は思わず凝視した。眼鏡のレンズの反射した具合なのか、瞳の色が一瞬、鮮やかな緑に見えた気がしたので。
「だったらなおさら一肌脱いでもらわないとね。僕らのために」
ナズカが再び私の方を向いた。黄鉛色の瞳が輝いている。私は持ったままのショートブレッドをしまった。
「二階はあと一部屋で終わり。一階はもう見たから、最後に収蔵庫かな」
「お前一人でやってるのか? 他のキュレーターは」
一瞬の間があった。
「何人かは助からなかった。何人かは避難できたんじゃないかな」
「お前はなんで残ってる」
「君だって、僕がここにいると思ってまっすぐ来ただろう?」
「答えになってない」
「そうかい?」
ナズカは小さく肩をすくめてみせた。
私は彼の背中を見つめた。妙だった。盗難防止の装置が動いている限り、外部の者はもちろん、職員でも手続きを踏まなければ作品を運び出すことはできない。番などせずに自身の安全を確保するのが賢明ではないか。記録もとらずに作品を確認しているのもおかしな話だ。何より胸をざわつかせるのはナズカの歯切れの悪い笑顔だった。
「八割方は無事かな。数に限って言えば、思っていたより酷くないよ」
私は我に返った。ナズカは異国の何者かの肖像を見終えたところのようだった。
「残りの二割は絵具が剥落したり額が溶けたり――木製なのにね、まるで金みたいに。絵の中の季節が変わったのもあったよ。あとは、」
ナズカは一瞬言葉を切った。
「あとは、死んでしまったり」
「死ぬ?」
「見るかい」
歩きだしたナズカに続いて隣の展示室に入った。全身を描いた肖像を集めた部屋だった。ナズカは一番奥に飾られた絵の前で止まった。ゆっくりと飛ばした光がカンヴァスを照らした瞬間、私はぎょっとした。よく知っている絵だ。美術を学ぶ者であれば誰もが知っている。その絵だ、信じたくないが。
本来であれば、自らの領地である豊かな田園を背景に、猟犬を従えて悠然と立つ男。それが仰向けに倒れていた。両手でのどを押さえ、断末魔を発した形に口を歪めていた。背景の緑は枯れ果て、木々は助けを求めるように痩せた枝を伸ばしている。
「《狩りに向かう貴紳の肖像》」
見開かれた、光のない目がこちらを向いている。私はやっとのことで声を発した。
「注文者がこの絵をひどく気に入っていたのは知ってるだろう。彼はこの絵に劣化を防ぐ魔法をかけさせた――何重にも。それが傾禍と共鳴したんだよ。僕が今まで確認したなかでは、他にも三点に同じような現象が起きている。前に傾禍の被害の報告書を読んだけど、前例は確かにいくつかある。君も聞いたことがあるはずだよ。保存学の講義でも取り上げられていたしね。被害のある作品のほぼ全てに共通するのは、魔法を相当な回数かけられていたことだ」
「絵具を塗り重ねたわけでもなく、魔術の構造も複雑で可逆性はない」
講堂で聞いた言葉が蘇る。私は口を閉じた。したがって修復は困難、教授はそう続けていた。この館の修復室だけで対処するには数が多いし、技術の限界もある。他の館や機関に協力を求めなければならないのは確実だ。それでも一体どれほどの数を救えるだろうか。今まで愛され受け継がれてきた姿が永遠に失われることを思うと、茫漠とさえした悲しみに落とされるのだった。
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https://kakuyomu.jp/works/1177354054914833066/episodes/1177354054917644337
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