三話、こつぶの恩返し

 拾った子猫、こつぶも一回り大きくなり、一人と一匹の暮らしにもすっかり慣れたある日の夜。由宇は喉の渇きを覚えて目を開いた。


 目元を擦りながらスマホを見る。時刻は午後二時を指しており、カーテンの隙間からは月明かりが洩れていた。ふと、いつも一緒に寝ているこつぶがベッドの中にいないことに気づく。


 どこに行ったのだろう? 由宇はベットを離れてこつぶのために細く開いておいたドアを押した。廊下にはいないようだ。


 その時、冷たい空気の流れを肌に感じた。ベランダを見れば、いつかと同じように窓が中途半端に開いている。気になって近づくと、こつぶがベランダで三日月を見上げていた。


 こんなところにいたんだ。安心して、由宇がベランダに出ようとすると、こつぶがぴょんと手摺の上に飛び乗って、弾みをつけて空中に飛び出した。


 由宇は慌ててベランダに飛び出すと、手摺に摑まって下を見下ろす。


「こつぶっ?」


 しかしそこに、ことぶの姿はない。どこに行ってしまったのかと、由宇は必死に目を動かして、こつぶを探す。すると、信じられないことに五階から地面に落ちたはずのこつぶが、マンションの敷地内から元気に走り出て行くのを見つける。


 由宇はパジャマのままマンションを飛び出した。エレベーターを使って一階まで下りると、道路に出てこつぶを必死に探す。すると、視線の先に坂を駆け上がる小さな影が見えた。


 必死に後を追う。小さな影は住宅街を抜けて、狭い路地を通り、川沿いの道に出てさびれた神社にたどり着く。


 どうやらこつぶは宝大神社と呼ばれる神社にきたようだ。鳥居の影からそっと中を覗くと、複数の影がそこにはいた。由宇はその姿を見て息を飲む。


 額に二本の角の生えた男から、ひょろりと首が長い女性、口からちろちろと蛇みたいな舌を出す少女など、どう見ても普通の人間には見えない。そんな者達の前に、ことぶがいた。


 しかし、由宇はその尻尾を見て目を疑うことになる。こつぶの尻尾は二つに分かれて揺れていたのだ。


「わぁっ、ちっちゃい!」


「はっはっはっ、おうおう、緋爪(ひづめ)よ、そんな可愛らしい姿になっちまってお笑い草だな」


「そんなこと言わないの。傷の具合はどうかしら?」


「ああ、もうすっかりいいよ。拾ってくれた子が大事に扱ってくれたんだ」



 こつぶが当然のように人の言葉を話し出した。その声に、由宇は驚いて足音を立ててしまった。


 その物音に、四組の目が由宇を振り返る。


「子供?」


「見られちゃった!」


「困ったわね、食べてしまいましょうか」


 その目が剣呑に光っている気がして、由宇はじりじりと後退った。恐ろしさに身体が震えてくる。


「よせ! 怖がらせないでくれ」


 鞭を打ち付けるような声に、鋭い視線が一瞬で緩む。こつぶが由宇を見ていた。その茶色の目を見て由宇は咄嗟に呼んでいた。


「灰野?」


 由宇の呼びかけに答えるように、こつぶの影が大きく蠢(うごめ)いた。あっと言う間に、その姿が変わっていく。子猫は男の姿になっていた。


 年は由宇よりも十は上だろうか、顔には緋央の面影があり、彼が成長した感じだ。身に着けているのは着流しで、腰元にこつぶの首輪につけていた鈴があった。見かけは人間と変わりないのに、その影には長い二尾が揺れていて、彼が人外のものであることを由宇に突きつけてくる。


「よく、こつぶがオレだってわかったな?」


「声が聞こえたから、それで……」


「失敗したなぁ。由宇には悟られることなく消えるつもりだったのに」


 苦笑する緋央は、どこか寂しそうに見えた。まるで離れたくないと言っているように思えて、由宇は尋ねた。


「どうして? もし私が見てしまったのが原因なら、絶対に誰にも言わない。約束するよ。だから、一緒に──……」


 それ以上は上手く言葉に出来なくて、由宇は口べたな自分を恨んだ。こつぶも緋央も、由宇にとっては大事な相手だ。家族であり、初めて友達と呼べる存在だった。


「オレは齢五百を生きる猫又なんだ。元の姿は小山ほどあるし、本来なら人間とは相容れない存在だ。化け物と蔑まされても当然の存在を、由宇は怖くないのか?」


「私が知ってるのはこつぶと灰野緋央だけ。可愛がっていた子猫と、クラスメイトとの繋がりを作ってくれた相手をどうして怖がるの? ちっとも怖くないよ。お願い。これからも一緒にいてほしい」


「ごめん。それは出来ないんだ。人間に法があるように、妖怪には妖怪の掟がある。恩を受けたら十倍にして返す。これが掟なら、けして人間に妖怪だと気づかれてはならないことも掟なんだ。だから……由宇の記憶を消すよ」


 哀しそうな顔をして告げる孝司に由宇は胸が苦しくなった。怒りたくないのに、緋央を理不尽だと詰りたくなる。そこまでして守らなければいけない掟なら、どうして由宇に拾われたりしたのだろう。


「なんで子猫になってたの?」


「由宇が拾ってくれた時、オレは妖同士の争いに負けて死にかけてたんだ。妖力を奪われて子猫にしかなれなくなってた。ここまでかと半ば覚悟を決めた時に、由宇がオレの声を聞きとって、助けてくれたんだ。人間にあんなに大事に扱われたのは初めてだったよ」


「……じゃあ、どうして人間の振りなんて」


「いつも家でオレと二人きりだったから、オレが突然いなくなったら、きっと寂しい顔をさせてしまうだろう? だから、その前に友達を作る手助けが出来れば恩返しになると思ったんだ」


 妖怪の力を使い、周囲に溶け込むことで元からクラスにいた振りをして、こつぶとしても緋央として彼はずっと由宇の側にいてくれたのだ。


 緋央が由良の手を引いて、神社の中に引き込む。人間ではない証のような長い爪が月明りを浴びて怪しく光る。


「妖怪でもあんたは私の友達だよ。灰野……ううん、緋央もそう思ってくれてる?」


「……ここまで長生きしたけど、人間の友達は初めてだよ」


 大きくなった緋央の手がゆっくりと目元に伸びてくる。頬を流れていた涙を拭われた。指はそのまま頬を撫でていき、離れることで別れを告げていた。切なさに胸が詰まった。きっと、もう二度と彼には会えない。


「たとえ私が忘れても、ずっと友達でいてほしい」


「あぁ、約束する」


 目の前が霞み、頭がぼんやりしていく。空に浮かぶ月が、妖しいほどに美しく輝いていた。




 制服姿の由宇がマンションを出て行く。そのどこかのんびりした足取りに、登校時間に余裕があることがわかる。閑静な住宅街に差し掛かった彼女は、敦と出くわすと、二人は一緒に歩き出す。このまま学校に向かうのだろう。


 男はマンションの上から、僅かに微笑む彼女を眺めていた。その姿を見ているだけで、胸の中を寂しさが過ぎていく。拳を胸に押し当てて、男は大事な宝を噛みしめるように呟いた。


「ずっと、友達だ」


 それが聞こえたように由宇が振り返る。マンションを顧みた由宇は、誰もいない屋上を見て、どうしてそうしたのかわからないというように、不思議そうな顔をしたのだった。

 



                                  おわり

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君を忘るまじ 天川 七 @1348437

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