75.今に見てろ
エイレンはパジオの他に十数名の護衛の騎士を連れ、雪解けの悪道を進んでいた。
ただでさえ硬い馬車の座席は揺れに合わせて尻を痛め付けてくる。元より人形達との無駄な会話を嫌うエイレンは、道中ひたすら外の景色を眺めることで気を紛らわせていた。こんな時、隣にイヴリーチがいてくれたら何時間でもお喋りを続けられるのにと、出るのは溜息ばかりだった。
今回、護公会議に向かう一行の中には異形が目立つイヴリーチの姿は勿論のこと、人間体であるベルトリウスやケランダットの姿もなかった。
支給される揃いの防具を身に着ければ騎士団の一員として違和感なく紛れ込める二人の同行を、先日の言い争いで意固地になったエイレンが拒否したのである。イヴリーチは人間社会に馴染みが薄い妹分を案じ、どちらか一人でも連れていくことを勧めたのだが、それを止めたのは他でもないベルトリウスだった。
本人がやる気ならそれでいいじゃないかと、特に否定も応援もせずエイレンの意見を支持した。実際の所は揚げ足取って彼女の心を叩き折ろうという魂胆なのだろうが、あの挑発気味に細められた目を思い出す度に、エイレンはこの遠征を無事に乗り切ってみせようと大変に負けん気を刺激された。
エイレンは遠くに見え始めた城壁をぼんやりと見つめながら、ふと窓ガラスに止まっていた一匹のコバエに視線を落とした。
一見そこらを飛び交う小虫となんら変わりなかったが、小さな体にそっと人差し指を近付けてみるとコバエは素早く窓から飛び立ち、差し出された指先にピタリと着陸した。すると、聞くだけでむかっ腹の立つ例の声が頭の中に響き渡る。
『わざわざ俺をお喋りの相手に選ぶくらいには暇なのかな?』
相手は勿論ベルトリウスだった。
エイレンは冷めた表情を変えることなく、忌まわしき男の代わりにコバエを見下しながら言葉を念じて返事をした。
『こまめに連絡を入れろと言ったのはそっちでしょ。もう少しで目的地に着くわ』
『そりゃよかった。問題なく辿り着けたようで安心したよ、君の身を案じて俺は夜も眠れなかっ――』
エイレンは最後まで聞くことなく指先のコバエに向かって”フッ”と強く息を吹き掛け、自身から飛び立たせることで強制的に通信を遮断した。出発前にたくさん
「ようやく見えてきたね。あれがブノーシュだよ」
そうこうしていると対面の席に座るパジオが口を開く。パジオもまた、他の人形と同じように形式的な会話をやめなかった。
程なくして馬車は門を抜け、中央にそびえる
ブノーシュは家屋の造りだけ見ればガガラと相違ない街並みだったが、地方全体が疲弊しているせいか、領主が住まう地にしては城下の住民の顔色が一様に優れないように見受けられた。通路の端からこの高価な馬車を眺める人々は皆、羨望の眼差しに目を吊り上げていた。
重苦しい雰囲気をさして気にも留めず城の敷地内へと進むと、馬車は大勢の人間が迎え立つ正面の入口扉前で停止した。
ようやく収まった揺れに一息つくと、護衛の騎士を動かして馬車の扉を開けさせる。先に降りたパジオに己が手を取らせると、ミェンタージュに化けたエイレンは優雅に段を下りて地に足をつけた。
そうして姿を現した客人を前に、ブノーシュを治める東の護り手……ヌジマ・ガバスに仕える使用人達は統一された動きで一斉に頭を下げた。
「ようこそお出でなさいました、北手様、ミェンタージュ様。早速お部屋にご案内いたします。会議のお時間になるまで、どうぞおくつろぎくださいませ」
黄土色の質素なワンピースに白い前掛けを着けた壮年の女性が代表して話す。その後は彼女の言った通り、案内された部屋で荷を展開するなどして適当に時間を潰すだけだった。
パジオとエイレンは同室。護衛の騎士達は
ブノーシュの使用人が部屋を訪れる前に、エイレンは嫌々ながらもベルトリウスに通信を入れた。
『いよいよだな。約束通り君の好きなように振る舞えばいい。まぁ、もし俺の助けが欲しいってんなら、どれだけでもくれてやるがな』
『いらない。あなたが黙っててくれることが一番の助けだわ』
これで当面は連絡を取らなくて済むとエイレンの気が楽になった時だった。
色白の手の甲にくっ付いていたコバエを吹き飛ばそうと腕を顔の高さまで持ち上げると、胸をくすぐる少女の声が頭に届いた。
『エイレンがんばってね。待ってるから……』
「あっ!? イヴぅーーーーっ、久しぶりぃーーーーい!! もうさっ、こんなに離れたことってないからさっ、エイレンとってもさびしいの!! ねっ? もっと声きかせてきかせて? 今とぉっても暇なの! ずっとねっ、会議が始まるの待っててねっ、ここってばっ、ガガラと違ってお部屋の中が――」
『はい終わり。お仕事頑張れよ?』
「エッ、ゃっ、ちょっ―― !!」
エイレンは突然降ってきたイヴリーチの声に念じて会話するのを忘れるほど舞い上がったが、密かに交代していたベルトリウスに前回のお返しと謂わんばかりに通信を断たれ、束の間放心状態に陥った。
遮断される直前、心底意地の悪いニヤけ面が脳裏によぎった。これは比喩表現ではなく、未だ手の甲に張り付いたままのコバエの力によるものだった。コバエは目前の光景を通信相手にも伝えられるようエカノダから改良されていたらしく、そのありがた迷惑な能力のお陰で、エイレンは会議前にこれでもかというほど心を掻き乱される羽目になってしまった。
血走った目で握りこぶしを作る
「……大丈夫かい?」
「……………………持ち直したわ」
一度深い呼吸をして返答するエイレンだったが、内なる炎は完全には消し去れていない様子だった。
そして、熱が冷めやらぬうちに部屋の入口から控えめなノック音が響くと、エイレンは何事もなかったかのようにパジオの後に続き、客間を出たのであった。
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