ナディアと精霊
「おいナディア、そろそろあがれ!」
「はーい!」
ナディアは制服のエプロンを外して帰り支度を始めた。
ナディアは、王都のはずれにあるパン屋で働く十四歳の女の子。
柔らかい蜂蜜色の髪は癖毛なので、伸ばすと朝ぼわっと広がってしまう。ナディアは毎朝手入れするのが面倒という理由で髪を男の子のように短くしていた。
大きな緑の目をしていて、華奢な身体つきなのできちんと見れば女の子だとわかるけれど、後ろ姿は男の子に間違えられることもしばしばあった。
いたって普通の女の子だと自分では思っているけれど、周囲には秘密にしている少し変わった特技があった。
そのせいで、幼い頃にナディアの人生は大きく歪んだ。
そして、またこれからも大きく変わっていくことになるのである。
◇◇◇◇◇
私は自分の家である孤児院のみんなにおみやげのパンをもらい、うきうきしながら店を出た。
「うふふっ、今日もいっぱいもらっちゃったなぁ」
形が崩れたり少し焦げたりしたものばかりだけど、お腹に入ればみんな同じだ。
《よかったねナディア!》
《よかったね~》
高く澄んだ声が聞こえてきたと思うと、ふわりふわりと色とりどりの光を放つ小さな精霊たちが現れた。
丸っこい顔に円らな目、口のようなものは見当たらないけれど感情をよく表す小さな手足をパタパタと振りながら、ご機嫌に私の周囲をくるくるふわふわ回っている。
この可愛い精霊たちはなぜか私にしか見えず、声も聞こえない。
私が一人でいる時は、いつもこうして声をかけてくるのだ。
ふと、ごうっ、という音が聞こえて上空を見上げると、小さな円盤に乗った魔術師が数人、私の真上を駆けていった。
こういう光景は、フェリアエーデンでは日常茶飯事だ。
あんな風に移動できるなんて便利で楽しそうだな、と私はいつも思っている。
フェリアエーデンには精霊がたくさん住んでいて、魔力のある人々は魔力を対価に精霊の力を借りて魔術を使えるらしい。
それができる人を魔術師と呼んでいる。
らしい、というのは、私にもよくわかっていないからだ。
魔力は遺伝するものだと言われていて、まともに魔術を使える魔力を持っているのはほぼ貴族だけ。
魔術師になるには魔術学園に通わなければならないけれど、当然高額な学費が必要で、魔力があったとしても私のいる孤児院にそんな余裕はない。
さっきの円盤もとても高価な魔術具らしく、使えるのは魔術師だけだ。もちろん私も持っていない。
平民でも魔術を使える人もいるけれど、本などで呪文を勉強して種火をつけたり、小さな灯りをつけたり、コップ一杯の水を出せたりする程度だ。そういう人は魔術師とは呼ばず、魔力使いと呼ばれている。
とにもかくにも、魔術師になるには学園に通わなければならないということだ。
……それなのに、私は物心ついた頃から、なぜか魔術が使えるんだよね。
魔力とか対価とかはよくわからないけれど、精霊にお願いすると、いろんなことができるのだ。たぶんこれが、魔術なんだろうと思う。
でもそんなことができる人には今まで会ったことがないので、どうやら平民ではとても珍しいことみたい。
……私はそれが原因で、四歳の時、不気味な子供だと親に捨てられてしまった。
だからめったに魔術は使わないし、誰にも話したことはない。
まあ、仕方なく知られてしまった人が一人いるけどね。
《うん! みんな喜ぶだろうから、早く持って帰ってあげなきゃね》
私の口から歌うように言葉が出る。
精霊たちに語りかける時は、無意識に言葉が変わるのだ。
どうやらこれは精霊語のようなのだけれど、以前孤児院の子供たちに精霊と会話しているところを目撃されてしまった時、何の歌を歌っていたのかと聞かれたので、他の人からは歌を口ずさんでいるように聞こえるらしいのだ。
聞かれてもちょっと恥ずかしい思いをするだけで、そこまで周囲を気にせず会話できるから便利でいいと思っている。
駆け足で大通りを進んでいると、ざわざわと困惑したような声があちこちから聞こえてきた。
「まさか……なんてこと……」
「そんなバカな……」
「聖女様が……どうして……」
なんだろう? と思いつつも足は止めない。早くパンを持って帰ってあげなくちゃ。
右に曲がり、少し狭くなった通りをするすると駆け抜けると、大きなお屋敷の前に出た。
《ここ、嫌な感じがする~》
《早く行こ~》
少し前から、ここを通ると精霊たちがこうして騒ぐようになった。
どうやら嫌な感じがするのはまだ継続中らしい。
こんな立派なお屋敷には用もないので、さっさと通り過ぎる。
ここに誰が住んでいるのかも私は知らない。貴族はたまに平民に横暴なことを言ってきたりするので、関わらないに限るのだ。
門の前にいる見張りのおじさんがギロリとこちらを見た。
怖っ! 何もしてませんよー!?
孤児院に帰ると、いつものようにローナが出迎えてくれた。
「お帰りなさい、お姉様!」
「ローナ、お姉様はやめてっていつも言ってるのに……」
私はがくりと肩を落とした。
ローナはミルクティー色の髪を肩まで伸ばしていて、同じ色の長い睫毛が琥珀色の目の周囲を覆っている、とても可愛い女の子だ。私の一つ下の十三歳。
でも発育が良いようで、すでに私よりお姉さん体型なのがちょっと納得いかない。
わ、私だって少しは育ってるもん。
ローナはふわりと髪を揺らして小首を傾げた。
「では、やはりご主人様か、お嬢様とお呼びしましょうか」
「なんでよ!? もうお姉様でいいよ……」
ローナは以前貴族の屋敷でメイドをしていたのだけれど、三年前、事情があって屋敷を飛び出したらしい。当てもなく歩いているところを暴漢に襲われて、そこを私がたまたま通りがかり、見て見ぬふりはできなくて、つい魔術を使って助けてしまったのだ。
貴族でもないのに魔術を使えるのがバレてしまったのに、ずっと黙ってくれているし、こうしてなぜか慕ってくれるようになった。行くところがないと言うので、今は私と同じ孤児院に住んでいる。
自分を助けるために魔術を使ったのだから黙っていてくれるというのはまだわかるけど、お姉様とか言って慕ってくるだなんて、ローナは変わり者だよね。
「おねーさまー! 帰ってきたのかよー!」
「おかえり、おねーさまー!」
年少組の男の子たちがこれをからかうのもいつものことだ。
「うるさい! 余計なことばっか言う子にはパンあげないからね!」
「うわっ! ごめんってナディア!」
「パン食わせて!」
パンに群がる男の子たちをなんとかかわし夕食用のパンを死守して孤児院の中へ入ると、ダイニングでいつもの優しげな笑顔を浮かべた院長先生と、料理のお手伝いをしていた女の子たちが出迎えてくれた。
「ナディア、お帰りなさい」
私が四歳の頃からお世話になっている、大好きな院長先生。今年で六十三歳になるけど、ほぼ一人で孤児院を運営する、見た目によらずパワフルなみんなのお母さんだ。
親に捨てられて、お腹がすいてフラフラになっていた私を院長先生が見つけて、優しく受け入れてくれたから今私はここにいて、笑っていられるのだ。
そして孤児院最年長の私は、みんなのお姉さんというわけなのです!
「おかえりなさーい!」
きゃらきゃら笑いながら、小さな妹分たちが足元に群がってくる。
「ただいま。夕飯用にパンもらってきたよ」
「やったあ! さすがナディア!」
「ありがとう!」
笑顔でお礼を言う子供たちがとっても可愛い。
よし、君たちのためにもお姉さんは頑張って働くからねっ!
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