カントの遅刻
分身
第1話
哲学者エマニュエル・カントは生涯を独身で通した。その生活は非常に規則正しく、朝早く起き、午前は仕事、帰宅して定刻になると日課の散歩に出かけた。あまりに時間に正確なので、街の人々はカントが決められたコースを歩いてくるのを見て、時計の針を直したといわれる程であった。
そんなカントも時々遅刻した。ある日カントはいつもの散歩に出かける前、ある哲学的着想を得た。急いで書斎に戻ってメモを取り、一仕事終えて懐中時計を見ると、定刻より二十分過ぎていた。カントはため息をついた。が、とにかく散歩には出かけた。
人々は定刻通りにカントの姿が見えないので、不審に思った。中には医者の手配をしようとした慌て者もいた。
さて、ここにある商売人の男がいた。この男はカントが遅刻しているとはつゆとも思わず、カントの姿を見るといつもとおり時計の針を直した。お察しのとおり二十分遅れである。その日は奇しくも男の結婚記念日で、男は女房に六時には帰ると約束していた。女房は約束の時間に旦那が帰ってこないので、何かあったのでは、と心配になった。この女がまた心配性ですっかり心細くなって、神様にお祈りしながら台所の中をうろうろ歩いて回った。あの人に先立たれたらどうして生きていこうかと将来を悲観した。鼻垂れ小僧の一人息子が、お腹が空いた、と女の前掛けを引っ張った。女は息子の頭をぺちんと叩いた。
そんなこととはつゆ知らず、男は女房に贈るプレゼントを宝石商まで取りにいった。男は奮発をして真珠の首飾りを購入していた。よしよしこれで女房も喜ぶぞ、とご満悦になって足取りも軽く我が家へと向かった。ドアを開けて、ただいま、と陽気に声をかけると女房がすっ飛んできた。女房は旦那の帰りが遅いことを涙ながらになじった。男は全く想定外の女房の非難に目をぱちくりさせた。それで今何時だい、と女房にきいた。女房は六時二十分過ぎだと言う。そんな筈は、と男が懐中時計を見ると時計は六時を指していた。男は、はた、と気がついた。カント先生が遅刻した!それで男は女房に説明した。すると女房は声を上げて、あんなきちんとした先生が遅刻なんてする訳がない、あんたは何でも他人のせいにする、と非難した。男は女房が自分を責め立てるのにすっかり腹を立て、お前は俺の言うことをこれっぽっちも信用しない、せっかく俺が祝いの品を用意したのに、と言って女房に宝石箱を見せた。女房は箱を開けると真珠の首飾りを見て、あれ、こんな無駄遣い、と叫んだ。それで男はかんかんになって、無駄遣いだと、と声を荒げた。女房は旦那をすっかり怒らせてしまったことに気がついて、涙を流しておろおろしだした。男は怒りにまかせて、お前のような女とは暮らせぬ、出ていけ、と怒鳴りちらした。騒ぎを聞きつけて近所の連中が集まってきて、夫婦喧嘩の仲裁に入った。鼻垂れ小僧がえんえん泣いていた。
近所の人々が相談して、これはやっぱりカント先生が悪い、ということとなった。そこで人をやってカント先生にお越しいただき、一言謝っていただくことにした。いい迷惑なのはカント先生のほうで、先生はことづけを聞くと、びっくりして目を白黒させた。しかし、しばらく考えて、よろしい、それで喧嘩がおさまるなら、と言って承諾した。このようにカントは実直な人であった。
カントが商売人の家にやってくると、事件を聞きつけた群衆が家の周りを囲んでいた。入り口の前には騒ぎの張本人の夫婦がかちこちに緊張して突っ立っていた。カント先生が来たぞ、と誰かが叫ぶと、どっと歓声が上がったが、すぐにみんなは固唾を飲んでことの成り行きを見守った。カントは二人の前に通された。そして、おほん、と咳払いをすると、この度は私の不行き届きでお二人には大変ご迷惑をおかけいたしました、どうか私に免じて喧嘩をおやめいただきたい、と謝った。夫婦二人は恐れ多くて、はい、もう喧嘩はいたしません、と消え入りそうな声で返事をした。群衆から拍手が起こった。人々はさすがカント先生、立派だねえ、と口々に感嘆して褒めそやした。カントは自分の役目が済んだことを悟ると、くるりと向きを変え、元来た道を引き返しててくてくと歩いて帰っていった。
それ以来カントはほとんど遅刻しなくなった。街の人々はまたカントを見て時計を直すようになった。そして商売人夫婦は仲良く暮らすようになった。カントは57才の時主著である「純粋理性批判」を書き、79才で亡くなるまで、様々な著作を記した。そして相変わらず街の人々の時計代わりとなって、その生涯を終えた。
カントの遅刻 分身 @kazumasa7140
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