五
出会いが唐突なら別れもまた唐突だった。
カーミラと出会って一週間が過ぎたある日。その日は昼過ぎから灰色の重い雲が空を覆い隠し、日が沈む頃には雨が静かに降り始めていた。
吸血鬼の特徴の一つに流水に弱いというものがあるが、カーミラの場合は何の影響もないと話していた。だがそれを抜きにしても、この天気では外に出ることはしないだろう。そう思ってその日は公園に行かないつもりでいた。
夕飯を終え、いつもなら(この一週間だけだが)公園にいる時間になってもまだ家でゴロゴロしていた。従兄に今夜は夜歩きしないのか不良娘とからかわれてもソファから起き上がることはなかったが、頭の隅に引っかかるものを感じていた。カーミラはいつも別れ際に「また明日」と言っていた。それはこの前の日も例に漏れず、手を振って私を見送る彼女の姿がありありと思い出された。それはただの社交辞令だったのかもしれなかったが、彼女は毎晩必ず公園で私を待っていてくれた。はっきりと約束をしたわけではない。でも、たとえ雨が降っていても、彼女ならもしかしたら……。一度湧き出た不安は降り続く雨によって次第にその嵩を増していき、私の頭を満たしていった。もし今日も私が来るものだと思っていたら。もしこの雨の中ずっと私が来るのを待ち続けていたら。溢れ出した不安は居心地を悪くさせ、私から落ち着きを奪っていった。どうすればこの不安を解消することが出来るのか懸命に頭を捻ったが、携帯電話もまだ持たされていなかった私には結局、直接公園まで確認しに行く以外の方法を持ち合わせていなかった。
一度決心すると行動に移すまでは早かった。次々湧き出す不安は身体を動かす潤滑油となり、従兄の引き留める声も無視して五分と待たずに雨の中へ飛び出していた。カーミラと会う夜に月が見えないのはこの日が初めてだった。暗い夜は落ち着かない心をはやらせた。傘はその役目をほとんど果たさず、靴の中まで雨が染み込み気持ち悪かったが、ただひたすらに足を動かすことだけを考えた。一分でも一秒でも早く、カーミラに会いたかった。
公園に着くと果たして彼女はそこにいた。ただベンチには腰かけず、桜の木の下で傘を差して佇んでいた。雨に散らされ、傘にいくつも張り付いた花弁が、彼女が私を待ち続けていた時間の長さを何よりも雄弁に物語っていた。首から下げられた銀の弾丸が雨に濡れて、胸元で光っていた。
この時にはたぶん、私は撃ち抜かれていたのだろう。彼女が放った銀の弾丸に。それは私の皮膚を裂き、骨を砕き、心臓を貫き、血潮に溶け、私の身体を作り変えていった。
早春の雨は冷たかったが、私の身体からはむしろ熱が溢れて心地良いくらいだった。風邪で三十九度以上熱が出た時のように思考が浮遊し、意識が身体の外に離れ出ていってしまったかのような感覚。雨音が遠ざかる。彼女に肩を叩かれて声をかけられなければ、いつまでも彼女に見惚れ続けていただろう。「どうしたの、声もかけないでボーっとして。もしかして私が幽霊にでも見えた?」と彼女に笑いかけられた時も、一瞬意識が遠ざかったような気がした。
ずぶ濡れになった私を心配した彼女の手が頬に触れた時、声が喉に詰まったような感覚がした。今でも時々考える。もしこの時声を出すことが出来ていたら、私は何と言っていただろう。もしかしたら勢いに任せて告白をしていただろうか。もしそうしていたら彼女と別れずに済んだのかもしれない。未練がましいようだが彼女と別れてしばらくの間は、そう思わずにはいられなかった。
「澄! 何をやっているんだこんな所で! 心配したんだぞ!」
私が声を出す前に雨音を破ったのは従兄の声だった。振り返ると公園の入口で息を切らしながら立っていた。ズボンの裾やシャツの肩がぐっしょり濡れており、私の後を追いかけてきたのは明らかだった。
初めは私の事しか視界に入っていなかったようだが、近付いてきてカーミラの姿を認めた瞬間、従兄の表情が一変した。「カーミラ……っ!」と彼女の名を呼ぶ声はいっそ親の敵にでも向けているかのような憎しみに満ちていた(当然彼はこの時実際には彼女のことを「カーミラ」ではなく本名で呼んでいたが、冒頭でも断ったようにここでは彼女の名前を伏せさせてもらっているので、便宜上このように表記させていただいた。改めてご了承いただきたい)。一方のカーミラはというと平然を装っていたが、それは動揺を隠すためというよりも寧ろばつの悪さ・居心地の悪さを誤魔化しているようだった。
従兄はカーミラに酷い言葉を投げつけた。「人の心を惑わす悪魔」「今度は小学生までだますつもりか」等々。その時に何度も出てきたのが「細流」という人の名前だった。その名前が出る度にカーミラは歯を食いしばって何かに耐えているような表情をした。それでも彼女は従兄に一切言い返そうとしなかった。ひたすら浴びせられる中傷をその身に甘んじて受け続けていた。
一方その横で私はどうしていたかというと、ひたすら混乱していた。どうして従兄が彼女の事を知っているのか、何故そこまで彼女を嫌っているのか、あまりに突然の出来事に理解が追い付いていなかった。しかし彼女を悪魔と罵る従兄の一方的な暴言に耐えかね、つい大声で言い返した。「カーミラは人間だよ! 私の好きな人に酷い事言わないで!」
二人とも一瞬呆気にとられた様子だったが、先に気を取り直したのは従兄だった。「やはり既に手遅れだったか」と顔を歪めると、私の腕を掴んで公園から連れ出そうとした。「痛いっ! 離して!」と私が抗議の声を上げても力を緩めようとはせず、強引に私を引っ張って行った。カーミラに助けを求めたが彼女はただ首を横に振っただけだった。今にも泣き出しそうな歪んだ笑顔が、私が見た彼女の最後の表情だった。
無理矢理連れ戻された私はそれ以後、東京に帰るまで一人で外出することを許されなかった。もっとも、ずぶ濡れで帰った私は拗ねてお風呂にも入らずすぐに布団に籠ったため次の日に高熱を出し、数日間とても外を出歩くことは出来なかったのだが。ともかくもこうしてその日を最後に、カーミラと再び会うことは無かった。
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