彼女は「カーミラ」と名乗った。あだ名だと言っていたが、本名には全く重なっていなかった。彼女の死後、彼女を知っている人と話をする機会が何度かあったが、その名で彼女を呼ぶ人はその名付け親を除いて誰もいなかった。


 公園のトイレで手を洗ってから戻ると「これ、よかったら」と缶ココアを手渡された。暦の上ではとっくに春も半ばだったが夜はまだ肌寒く、冷え切った手にじんわりと染み渡る熱が心地良かった。ベンチに並んで腰掛け、ココアを飲みながら少しずつ話をした。


 彼女は一年以上入院生活を送っていた。彼女に家族と呼べる人はいなかった。両親は彼女が幼い頃に事故で亡くなり、育ての親だった祖母も高校生の時に病気で亡くなった。幸い両親の生命保険や祖母の貯金など、一人で暮らしていくのに困らない程度には遺産があったので何とか高校を卒業することは出来たが、持病が悪化したので進学も就職もせず、入院することにして現在に至るという。そんなに悪い病気なのに病院を抜け出したらダメなのではないかと驚いて訊ねると、彼女はまた口ごもった。初対面で不躾な質問だったと謝ると、彼女は気にしなくていいと手を振ったが、小声でまあ、いいかと呟いた。そして、自分が吸血鬼で、昼間はほとんど活動できないが、夜になれば健康そのものであるのだと告げた。


「正確には吸血鬼に近い存在というか、吸血鬼モドキなんだけれどね。人間と吸血鬼がだいたい二対八で混ざっているような感じかな」


 グレーゴル病。通称、人外病。原因不明の遺伝子異常により、人間以外の生物――空想上の生物も含む――に身体が変質する難病。彼女はその吸血鬼型に侵されていた。病状には個人差もあるが、概ね何段階かのステージに区分される。初期段階では健常者と区別がつきにくいことも多く、無自覚なケースもある。ステージが進むほど人間からかけ離れていくのだが、見た目にその変化が現れる場合もあれば体質や感覚など目に見えない部分に現れる場合もあり、専門医でも判断が難しい。当時から今世紀最大の奇病として度々テレビ番組などでも取り上げられていた。


「私、初めて人外病の人と会いました」


「さて、それはどうかしら。私はだいぶ変質が進んでいるけれど、そうでない人もたくさんいる。見た目ですぐにそれと分かる人は寧ろ少数派で、私もそうであるように常人と見た目が変わらないことの方が多い。何より人外病患者は奇異の目で見られたり差別の対象になりやすいから、隠している人も大勢いる。さらには本人も気付いていない場合だってある。最近の研究では百人に一人の割合で潜伏期も含めた人外病患者がいると推定されている。つまりあなたのクラスメート、近所の人、たまたま道ですれ違った人、その中の誰かが人外病患者である可能性は低くないし、ただそうと知らないだけで実際はもう既に出会っているかもしれない。それに、便宜上人外病と一括りにされているけれど型が異なればその症状は全く異なる。タイプによっては治療法が見つけられていたり、進行を遅らせる薬が開発されていたりして、状況も大きく違っているの。それを全て一緒くたに見ようとするのは、乱暴な話だと思わない?」


 この時はまだ彼女の話をよく理解できていなかった。人外病についての難しい話だと思っていたからだ。人外病患者の支援団体が増え、正しい理解が広まりつつある今でもまだ偏見や差別は無くならない。それはその人たちを「人外病患者」というカテゴリーに当てはめて見てしまいがちだからだ。支援団体は人外病患者も同じ人間であり、差別するのをやめようと呼びかけている。彼女の言いたかったこともきっとそれに近いものだったのだろう。

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