二
飛び出した勢いのまま足が向かった先は、あのネコを置き去りにしてしまった交差点だった。しかし田舎の夜道は都会より暗い。ネコがいた交差点に行き着くまで体感で昼間の倍近く時間がかかった気がした。
ネコはもうそこにはいなかった。既に「専門の人」とやらが回収してしまった後なのだろうと理解した。自分の手で埋めてあげたかったという残念な気持ちと、ずっと野晒しにされたままでなくてよかったという安堵の気持ちが胸の中で溶け合った。
目的を失い、他に行く当ても無かったが到底帰る気にもなれず、横断歩道を渡り、病院の隣の公園に向かった。まだ蕾の桜の木が公園を囲むように植えられており、昼間は近所の人や隣の病院に入院している人の憩いの場となっていたが、夜になると人通りもほとんど無くなり、しんと静まり返っていた。ライトアップされない夜の桜は「公園の桜の木の下には死体が埋められている」と小学生の間で噂されるのも納得の不気味さだった。
時刻は二十二時を過ぎていた。大きな月が私を見下ろしていた。一週間前まで小学生だったのでこの時間に出歩くのは初めての経験だった。公園で時間を潰して、頭が冷めたら家に帰るつもりだった。
物音が聞こえた。ザクッ、ザクッと土を掘るような音だった。公園の中にはブランコや滑り台などありふれた遊具の他に周囲のより一際大きな桜の木が一本、中心に立っていた。祖母の話ではこの桜の木はずっと昔からここに生えていて、それを囲むようにして公園が作られ、他の桜の木も植えられたそうだ。しかしそれからしばらくしてその中心の桜の木は春になっても花を咲かさなく、ただそこにあるだけの老木と化してしまった。物音はその木の方から聞こえてきた。
街灯の明かりを頼りに目を凝らすと、木の根元にかがみこんでいる人影があることが分かった。スコップなども使わず、素手で地面を掘っているようだった。その傍には何かが入れられたビニール袋が置いてあった。
ジャリッ。もっと様子が分かるように近付こうとした瞬間、不用意に足音が大きく響いてしまった。気付いた人影が振り返ると同時に空を覆っていた雲が途切れ、月明かりが地上に射し込んだ。
美しい人だった。母に叩かれた頬の痛みも夜の桜の不気味さも一瞬忘れて見惚れてしまうほどに、美しい女性だった。当時の彼女はまだ成人前だったが、この頃には既に大人びた空気をその身にまとっていた。胸元に光る銀のネックレスが月の光を反射していた。「突然背後に立たれていたんだもの。すごくびっくりしたよ」と後に彼女は語ったが、声も出せなくなるほど驚き見蕩れていた私に比べたらそんな素振りは全くなかったし、彼女の第一声にも驚きの色は微塵も混ざっていなかった。
「ねえ、そこのあなた。スコップか何か、持っていない? ここを掘りたいのだけれど、手だけだとなかなかうまく掘れなくて」
夜遅くに偶然居合わせた子供に対して言う台詞ではないだろう。その時もあまりに場違いな彼女の言葉のせいですぐに意味を理解することが出来ず、「持っていない」の一言を返すだけでだいぶ挙動不審に陥ってしまっていた。だが「そう。分かった、ありがとう」と特に残念がる様子も無く、これで話は終わりだと言わんばかりにまた背を向けて黙々と土掘りに戻った彼女に対し、何と表現すればいいのだろう、物足りなさというか不満に似たものを感じた。混乱していたが、同時に初めての深夜徘徊で興奮していたのかもしれない。これで終わりにしたくないと、思わず口走っていた。
「あ、あの、私も手伝います」
「え? いいよ、私が好きでしているだけだから。もう遅いから早く帰りなさい」
「で、でも、一人より二人の方がはかどると思うので……」
はあ、と彼女がため息をついた。
「気持ちは嬉しいけど、やめておいた方がいいよ。あなたのためを思って言うけど」
「どういう意味ですか?」
「私が何をしているか分かる? なぜ穴を掘っているのか」
その袋の中に何が入っているのか、教えてあげようか。そう言う彼女の声には積極的というよりも寧ろ億劫さが滲み出ていた気がした。事実、「出来るならあのまま何も聞かずに帰ってほしかったけれどね」と後に彼女自身の口から教えられた。だが夜中の公園に桜の木の下で何かを埋めようとしている美人にすっかり興味を奪われていた私は、彼女の答えを待たずに袋の中を覗き見てしまった。
「あっ、こら……!」
「…………っ⁉」
黒ずんだ赤と強烈な生臭さ。原型が分からなくなるくらい変形していたが、目に焼き付いて離れなかった肉の塊がそこにあった。
「これって、死骸……? もしかして、ネコですか?」
あれからまた何度か車に轢かれたのだろう。あちこち潰れ、骨が折れて皮膚を破り突き出ていた。あまりに惨い姿に涙を堪え切れなかった。気まずそうに言いよどんでいた彼女だったが、私の問いに口を開いた。
「……ええ、そうよ。どうして分かったの?」
「今日の昼間、そこの交差点を歩いていた時に、見つけたんです……やっぱりあの時に、せめてあそこから動かしておいてあげていればここまでならずにすんだのに……っ!」
「もしかしてあなた、その時男の人と一緒に歩いていた……?」
「……? そうです、けど。どうしてそれを……?」
「そこに病院があるでしょう? 私、そこに入院していて、たまたま見かけたから」
「そう、だったんですか……」
「もっと早く拾ってあげていればよかったんだけど、昼間はどうしても病院を抜け出せなくて、こんな時間になってしまったの。それで……どうする? この子は私が埋めておいてあげるから、あなたは無理しないでこのまま帰った方がいいと思うけれど……?」
その時私は踊り場に立っていた。目の前は真っ暗で、振り返れば次に乗るべきエスカレーターが次の階まで続いているのが見えた。暗闇の中には彼女の姿だけがぼんやり浮かび上がっていた。このまま後ろを向いて進めば予定通り次のエスカレーターに乗れる。大人しく謝ればお母さんは許してくれるだろう。そして明日からまた縁側で昼寝して、たまに散歩して春休みを過ごして、東京に戻る頃には中学生だ。そしてその先もずっと、たまに乗り換えたりいくつかある中から一つを選択しながら、エスカレーターに乗り続けていくのだろう。天井を見上げればその行き着く先まで見える気がした。一方で目の前の暗闇には何があるか分からなかった。エスカレーターがあるのかも、上の階に続いているのかも、何も分からなかった。ただこれだけは分かっていた。暗闇の中に進むことが出来るのは今しかないこと、そして一度足を踏み入れたら、今見えているエスカレーターに乗ることはもう出来ないのだということ。根拠は無かったが、直感的にそう予感していた。そして今思い返してみても、この時の選択がその後の私の生き方を大きく変えるきっかけになったのだと思うのだ。
二十三センチだった私の足は、未知の世界に踏み入ることを選んだ。
「私にも、手伝わせてください。せめてその子のために何か、してあげたいんです」
「そう、分かった」
それから二人で半時間ほどかけて穴を掘った。さすがに手で地面を掘るのは無理があったので、大きめの石を探してそれを使うことにした。穴の中にネコの亡骸を入れて上から土をかぶせ、落ちていた適当な木の枝を挿して墓標代わりにした。「馬の耳ならぬネコの耳に念仏かもしれないけど、ナムアミダブツでもアーメンでも、この子のために祈ってあげることが大切なんだろうね、きっと」としゃがんで手を合わせる彼女にならって、私も隣で目をつぶって両の手の平をくっつけた。だが当時の私は墓参りの時に何を考えていればいいのか分からず、全く関係の無い事をつらつら思い浮かべている子だったため、その時も私の頭の中を占めていたのはもはや土中のネコではなく、隣で神妙にじっと合掌している彼女の事だった。
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