最終話 爬虫類戦争

 爬虫類に表情はない。

 そもそも、自由に顔を動かせる表情筋がないし、表情として表すべき感情がない。

 だというのに、僕の前に立ちはだかるオバケトカゲモドキの眼には、明らかにある種の感情が宿っていた。

 嗜虐心。明らかにヤツは僕を弄んで愉しんでいる。その眼こそが普通の爬虫類ではないということを何よりも雄弁に物語る証左だ。


「アンリ・マンユ……」


 道寺にばかり気を取られてすっかりその存在を忘れていたが、そもそもコイツは僕の行動の一部始終を、あの高い位置にあるケージから眺めていたのではなかったか。全てを知りながらこの瞬間まで一切の動きを見せなかった理由……それは歓喜の瞬間に絶望へと突き落とされる僕の姿を見たいがためだったのだろう。

 道寺のそれを越える、底知れない悪意に僕は身震いした。


「芦屋くん!」


 榛名さんもこちらの異変に気付いたようだが、手首の拘束はまだ解けないようだ。チラリと榛名さんを見たアンリ・マンユの眼が苦々しげに歪んだのは、道寺がノビている今、この空間で最強の存在は明らかに榛名さんてあることを把握しているからだろう。と、なると彼女が解放される前にコイツは僕との決着を付けようとするはず……


「おわっ!」


 アンリ・マンユが大きな口をひろげていきなり食いついてきた。ヤツのサイズは僕の二倍強といったところか。当然、口のサイズもそれなりだ。あんなのに食いつかれて無事に済むとはとても思えない。

 間一髪かわしたところに、また尻尾の打撃。榛名さんの受け売りだが、ヒョウモントカゲモドキやオバケトカゲモドキは尻尾に栄養を貯めることができるらしい。芋虫のような形状の太い尻尾は僕から見ればちょっとした棍棒のようなもので、その打撃の威力もバカにならない。

 動物の強さはほぼ、その体格とイコールと言えるだろう。情けない話だが榛名さんの助けもなく、策を弄する余地もない一対一の肉弾戦で僕がヤツに勝てる要素は皆無だ。と、なれば僕にできることは逃げ回って時間を稼ぐことぐらいだ。

 だけど、それを許してくれる相手ではないでい。矢継ぎ早に繰り出される攻撃に、僕は次第に壁際へと追い詰められていった。


(くそ……なんとかしないと……)


 素早く周囲を見回した僕の目に入ったのは換気口だった。あそこに入れば、少しでも時間を稼ぐことができるかもしれない……

 迷っているヒマはなかった。僕は思い切って換気口の中に飛び込んだ。

 しかし、アンリ・マンユは当然のように追ってきた。店舗とバックヤードを繋ぐ、一直線のダクトだ。前に進むしかない。


 文字通り換気口から店舗側に転がり出ると、僕は素早く物陰に身を隠した。だが、アンリ・マンユはなかなか姿を現さない……僕を追うのを諦めた? いや、そんなはずは……

 背筋にぞくりとくる視線を感じたのはその時だ。その正体に思い当たる前に、反射的に飛びのこうとしたが一歩遅かった。背中のあたりに何かが刺さる鋭い痛みが走ったかと思うと、僕の身体は宙を舞っていた。床に落下し、バウンドして棚の下に転がり込んだ僕へと好奇心にキラキラと輝く眼が迫ってくる。


(くっ……!)


 痛みに堪えながら、なんとか棚の奥へと潜り込む。見れば、さっき爪で引っ掛けられたところからの出血量は意外と多かった。この身体がどれほどの出血に耐えることができるかどうかはわからないが、最悪なのはこの匂いに惹かれたのかもう一匹のネコまでが近づいてきたことだ。そして棚の上からは、いつの間にか換気口から這い出てきて俺が喰われる瞬間を期待するアンリ・マンユの眼差し。最悪の包囲網だ。


「ここまでかよ……」


 僕にはもう、これ以上打つ手が見当たらなかった。このままここで衰弱死するか、ネコに喰われるかの二者択一。

 まぁ、これでいいのかもしれない。道寺が倒れたことでアジ・ダハーカの復活は阻止した。アンリ・マンユが暗黒神として顕現することもしばらくはないだろう。榛名さんだって無事に逃げることができるだろうし、光明神の眷属としては最低限の仕事をこなしたことになるだろう……榛名さんと爬虫類イベントに行けなかったことだけが心残りだけど。


(諦めるな!)


 ザラシュトラの鋭い声が響いた。ハッと顔を上げても、そのケージは遠く。姿を見ることはできない。だけど、感じる……ザラシュトラをすぐ近くに!


(私の最後の力で道を切り開く! 悪を倒して生き残れ!)


 道を切り開く、って言ったって……何が起きるのと辺りを見回した僕の視界に、床を滑ってくる平たい物体が映った。だけどそれは、僕のところに届く前にネコの前足に踏まれて停止してしまった。

 それは、あのブックマッチだった。二匹のネコは初めて見る物体に興味津々の様子で匂いなんか嗅いでいる。


(……そうか!)


 もしかしたら、僕にだって……意識を集中しろ、もし僕が本当にアシャ・ワヒスタの化身であるならば、その力を引き出すことができるはずだ! ザラシュトラの言葉が正しければ、ほんの小さな、火花を出す程度だけど……でも、この状況なら、それで充分だ!


 集中した意識を、ネコが踏んでいるブックマッチに向けて解き放つ! パチッと走った火花は一本のマッチの薬剤に着火した。そしてそれは瞬く間にほかのマッチへと延焼していく!


「フギャアッ!」


 鼻先と前足を灼かれて驚いたネコたちが悲鳴を上げながら、タンパク質の焦げる臭いを残して慌てて逃げ去って行った。その表紙に跳ね飛ばされたマッチは近くの棚の下へと滑り込み、小さな火がパチパチと音を立てながらダンボールへと燃え移っていく。


 立ち上る黒煙に、アンリ・マンユの眼が見開かれる。暗黒神の弱点である炎……しかもアシャ・ワヒスタの化身が灯した聖なる火だ。結果的にザラシュトラが提示した放火作戦に落ち着いてしまったのは残念だが、もう他に手はない。僕はこの店の中にいる、無数の生命に向かって心の底から謝罪した。


「ゴメンよ、ザラシュトラ。ゴメンよ、みんな……」


 煙を感知した火災報知機が甲高く鳴り始めた。耳をつんざくような音に驚いたアンリ・マンユもパニックに陥ったのか、慌てて逃げ出そうとしている。しかし、その足元に火の手が回っているため、下に降りようにも降りられないのだ。


「ざ、ざまぁみろ……そこで煙に巻かれて……」


 だがその時、おびただしい水がまるで雨のようにフロア全体に降り始めた。スプリンクラーが作動したのだ。瞬く間に、そこかしこに燃え移っていた火が消えていく。


「……は? なんだって……?」


 煙に巻かれた挙句、今度は突然降り注いだ水に驚いた動物たちがギャアギャアと騒いでいる。そんな悲鳴に近い喚き声をBGMに、アンリ・マンユが降り立った。その双眸に先ほどまでの余裕はなく、代わりに昏い怒りの炎が揺れている。きっとコケにされたと思っているんだろう。


「は、はは……」


 何をやっても、結局はこうなるのか……そう思うと、もう笑うしかなかった。さっきの火花で力を使い果たして、もう逃げる体力もない。今度こそ万事休すだ。

 そんな僕の状態を見通しているのだろう。降り注ぐ水の中、悠々と近づいてきたアンリ・マンユはまた、その太い尻尾で僕を殴打した。まともに食らって意識が飛びそうになる。

 もう、立ち上がる気力も体力も残されていない僕にとどめを刺すべく、アンリ・マンユが巨大な口を広げ……


「えい」


 可愛らしい掛け声とともに、その姿が白いネットに覆われた。そのまま声の主は手早くジッパーを閉じてしまう。


「大丈夫? 芦屋くん」


 見上げれば、ずぶ濡れの榛名さんが僕を覗き込んでいた。


「榛名、さん……」


 そのまま、僕は意識を失った。

 それが世界の命運をかけた、僕たちの戦いの終わりだった……







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