第12話 暗黒の儀式

 小動物にとって、ネコ科の生き物は最大の天敵の一つである。

 敏捷性とパワーを活かし、狙った獲物を執拗に追い詰め、捕獲し……特に動くものに対しての好奇心に溢れる若い個体は捕食よりも遊び目的で小動物を襲い、動かなくなるまで弄ぶことも多い。本能的に行われるそれらは全て、彼らが一人前の捕食者となるまでの準備なのだ。


 …….なんて解説している余裕は、僕にはない。何しろネコに追われた僕が咄嗟に飛び込んだ棚は壁際にあって、袋小路となっていたのだ。隅っこに逃げ込むことでギリギリ差し込まれた前脚の届かない位置を確保することができたが、このままではジリ貧だ。背中のマッチを使うにも、この身体でマッチを擦るにはそれなりに大きなモーションが必要なのだ。ここでは狭すぎる。


「くそ……時間がないってのに……」


 まさかこんな伏兵がいるとは予想してなかったが……考えてみればここはペットショップだった。今の僕相手ならこれほど手間のかからないトラップもないだろう。

 なんとかして気を逸らすことができれば隙をついて脱出することができるかもしれない。だが、周りを見ても、役立ちそうなものは何もなかった。一番出会いたくなかったはずのゴキブリすら、今なら出てきてほしいぐらいなのに……


「だったら……これならどうだ!」


 僕はブックマッチを身体に固定しているゴムを噛み切り、尻尾で思いっ切り引っ叩いた。シュルシュルと床を滑っていくマッチを目にしたネコが、反射的に飛びかかる。


「今だ!」


 僕は全力で駆け出した。動きに気づいたネコがこっちに向かってくるが、僕が向かい側の棚の下に潜り込む方が早い。しかも、こちらは壁際ではないので通路を横切って棚の下から棚の下へ逃げ込んでいくことでネコの追撃を逃れることができる。唯一の武器であったブックマッチを失ったことは痛いが、まずはここを突破しないと話にならない。


「見えた!」


 そしてついに目的の換気口が眼前に現れた。この通路を駆け抜けてあそこに入り込めば……だが、その時横の通路からヌッと現れる巨大な影。


「……は?」


 ネコだった……が、さっきのとは毛色が違う。ネコは一匹じゃなかったのだ。疾走する僕を見つけた銀色の瞳がギラリと光る。


「わあああああっ!」


 だが、もう隠れている余裕はない。ここは強行突破あるのみ! 飛びかかってきたネコの腹の下をくぐり抜ける形で、僕は後ろへと走り抜けた。そのまま一気に換気口へたどり着き、狭い隙間に身体を潜らせる。タッチの差で換気口に飛びついてネコだったが、さすがにここまでは追って来れないし、隙間から差し込んだ前脚も届かない。


「……し、死ぬかと思った……」


 安堵のあまり、思わずダクトの床に突っ伏してしまった。生まれてこの方、ここまでガチに生命の危機を感じたことはない。鳴り止まぬ心臓の鼓動が、まるでダクトの中を反響しているかのように思えた。

 だけど、このまま蹲っているわけにはいかない。早くバックヤードにたどり着かなくては……と、不意に違和感を覚えた。


 邪魔が入らないように通路を塞いでいたのは、まあ理解できる。しかし、道寺の意図は妨害ではなく店舗側への誘導ではなかっただろうか? そこにネコを放して僕を襲わせるなんて……僕がネコに殺されたら、せっかく仕組んだ邪龍の復活がパァになるのではないのだろうか? それとも、ただの嫌がらせ? それにしては度が過ぎている気がする。

 ……まぁ、道寺が何を企んでいるにしても、僕にできることはない。

 ただ、前に進むだけだ。



 ダクトを通り抜け、薄ボンヤリとした照明に照らされるバックヤードに辿り着いた僕を待っていたのは、道寺による歓迎の拍手だった。


「待っていたぞ、試練を越えてここまでたどり着いた我が宿敵よ!」


 大仰な動作で芝居掛かったセリフを吐く。なんだよ、オマエのおかげでこっちは命からがら走り回っているというのに……その満面の笑みが、僕の目にはとにかく憎たらしく映った。


「僕の身体を返せ!」


 返した僕の言葉に、道寺の笑みは一瞬だけ強張って、消えた。そして心底つまらなそうな顔で大きなため息をつく。


「あのさぁ、宿敵同士がようやく相対したんだぜ? もうちょっと気の利いたセリフってものがあるんじゃないの? クライマックスだぞ、クライマックス。もうちょっと楽しませろよ」

「はぁ?」


 何を勝手なことを……だいたい、僕に道寺を楽しませてやらないとならない義理などはない。


「おまえとふざけてるヒマはない。さっさと僕の身体を返せ。さもないと……」

「さもないと、どうする? 噛み付くか? 引っ掻くか? いいぜ、やってみろよ」


 道寺は余裕綽々だ。それはそうだろう。僕が全力で噛もうが引っ掻こうが大したダメージにはならないのだから。返す言葉もない僕に、道寺はニヤリと笑いかける。


「ちなみにオマエの身体はあそこだぜ、アシャ・ワヒスタ」


 道寺が芝居掛かった仕草で指したのは、バックヤードの奥に作られた簡易的な祭壇だった……と、いっても単にダンボールを積み上げただけだけど。低い段には全裸の僕の身体が寝かされていて、その上の少し高い場所に例の石像が安置されている。前に見たのは一部だけだったが、今は当然箱から出されていた。ヘビともトカゲともつかない異形の怪物は直視するだけで嫌悪感と恐怖心を呼び起こす忌まわしいもので、僕は思わず目を逸らした。


「じゃあ、そろそろ儀式を始めようか。ルールは簡単、俺がこのナイフでオマエの心臓を抉り出すより早く、オマエが自分の身体に辿り着けば勝ちだ」

「……なんだよそれ……ルール? ふざけるな!」

「ふざけてなんかいないさ。決闘を行い、神に生命の根源たる心臓を捧げる……立派な儀式だ」


 ……そういえば相撲というものは元来神事だったと聞いたことがある。古代ギリシャやインカ帝国でも敗者を生け贄とする儀式があったとか……だとすれば世界の宗教の源流にあるゾロアスター教にそういった儀式があってもおかしくはない、ということか……


「だったら……ハンデがあり過ぎるんじゃないのか? 正々堂々と戦えよ!」


 道寺は呆れたように、またため息をついた。


「オマエ……正々堂々とか、暗黒神の眷属に何を期待してるんだよ……まぁいい、そう言い出すんじゃないかと思って、せめてもの応援要員を用意しといたから……ほれ」


 と、道寺が指差した方を見れば、暗がりに何かが蹲っている。どうやら人間のようだが……あれは、まさか!


「榛名さん⁉︎」


 それは後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされた榛名さんだった。

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