第5話 スカートの下の大脱出

 ザラシュトラのおかげでようやく狭いケージから脱出することができた僕だったが、とはいえ開放感を満喫しているような余裕などはない。僕たちの脱出計画はまだまだここからが本番だ。


 まずは下の段のケージの上に飛び降りると、中でとぐろを巻いていたヘビ(ボールパイソンとかいうらしい。なかなかの大蛇だ)が何事かと顔を上げ、のそりと近づいてきた。もしかしたら餌だと思われているのかもしれないが、ケージの中にいる相手なら怖くない。

 むしろ怖いのはこの高さだ……実際の高さは床まで一メートルほどだろうが、元の身体であればどうということはないのだが、この小さな身体で転落したら無事でいられるかどうかの保証はない。何でもない、ありふれた風景がただ小さいというだけでここまで危険地帯に変わるなんて、考えたこともなかった。なるほど、小動物が生きていくということはそういうことなのか。

 とにかく、焦りは禁物だ。僕は細心の注意を払いながらケージづたいに降りていく。やっとリノリウム張りの床に辿り着い時には、思わず安堵の吐息が漏れた。


(やれやれ…….なんて言ってるヒマはないんだよな)


 今度は棚の下から下を伝って、道寺や他の店員に見つからないように移動を始める。多少の遠回りは仕方がないが、参ったのはあちらこちらに綿ぼこりの塊があったり、ダニのような小さな小さな虫がそこかしこにウロウロしていることだ。別に潔癖症というわけではないが、流石に近づきたいものではない。


(頼むからゴキブリとかネズミとか出てくるんじゃないぞ……おっと)


 通路を横切り、向かい側の棚の下に移動しようとしたその時、見慣れすぎて見間違いようのない、学校指定の白いスニーカーが目に入って足を止めた。


(榛名さん……!)


 ようやく様々な意味で今、一番会いたい彼女に手が届く距離にまでたどり着くことができた。グッと込み上げてくるものがあったが、しかし感慨に耽っているヒマはない。

 彼女によってここから連れ出してもらう、という僕のミッションには一つ非常に困難な条件が付与されている。それは家に着くまで彼女自身に見つかってはいけない、というものだ。

 外をウロウロしている僕を見つければ彼女は間違いなく道寺か、他の店員に告げるだろう。そんなことになれば捕まってケージへ逆戻りになってしまうのがオチだ。二度と脱出のチャンスも、人間に戻る希望も潰えてしまうだろう。

 だけど、やるしかない。成功への道筋はすでにシミュレーションできているのだから、あとは僕の体力と運次第だ。


 僕は棚の最下段に置かれたダンボール箱によじ登った。まもなく退店するだろう彼女はこの通路を、僕の目の前を通過する。その時が

 一度きりのチャンスだ。


 ゆっくりと、榛名さんが近づいてくる。いつでも飛び出せるように、僕は全身の筋肉にグッと力をこめた。


 背筋に、ゾワリと冷たいものが走る。


 ハッとして振り返ると、遠くにあのオバケトカゲモドキのケージが見えた。その中から、僕をジッと見つめる視線を感じる……限りない、悪意を秘めた視線だ。

 暗黒神アンリ・マンユ……僕の行動はずっとヤツに見張られていたのか!

 だが、ヤツと通じているはずの道寺が何らかの行動を起こす気配はない。ヤツも意思疎通の手段は持っていないのか、あるいは……その時、ふっと視界に影が落ちた。しまった、ヤツに気を取られているうちに榛名さんが!

 振り返れば、もう榛名さんは僕の目の前を通過しようとしていた。迷っているヒマはない……ロクに狙いも定めず、僕は渾身の力で跳んだ。

 ギリギリで、榛名さんのスカートにしがみつくことができた。そのまま素早く内側へ……スカートの中へと回り込む。何か違和感を覚えたのか、一度足を止めた榛名さんはまたすぐに歩き始めた。どうやら見つからずに済んだらしい。そしてなんとか『フレンド』からの外に出ることができたようでもあるのだが……


(あわわわわ……)


 予想以上にスカートの翻りが大きく、まるで時化の波に翻弄される小舟のごとき揺れに耐えるために僕は小さな爪をしっかりと生地に食い込ませなければならなかった。ほとんど大の字……いや、尻尾があるから『木の字』の体勢なのだがこれはなかなかに辛いものがある。


(……そ、そういえば僕、榛名さんの家が何処か知らないんだよなぁ)


 いったいどのぐらい、このまま張り付いていればいいんだろう? 三十分? 一時間? 一応、同じ中学校の出身なので僕の家からもそう遠いはずはないんだけど……


(うおっ!)


 思わず、変な声がもれた。何気なく視線を向けた上方にとんでもないものを見てしまったからだ。

 すぐ間近に見える、真っ白な太もも。そしてその先、少し薄暗くなった中にピンク色の布地……あ、あれはもしかして!

 そうだ、よくよく考えてみたら僕は今、好きな女子のスカートの中に潜り込んでいるのだ。じゃあ、周りに漂つているこの芳しい濃厚な香りが女の子の匂い、というヤツだろうか。


(ちょっ…….コレってよくよく考えたらとんでもなくヤバイ状況なのでは……?)


 いくら自分の身体を取り戻すため、そして世界を救うためとはいえ、こんな手段で脱出したことを知ったら榛名さんは許してくれるだろうか。そして、僕の恋はどこへ向かってしまうのか……


『ピンチはチャンス』どころじゃない。これじゃ『ピンチは大ピンチ』じゃないか!






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