第4話 人の言葉は遥けき彼方に

「ぎぇ、ぎぇ、ぎぇ、ぎぇ、ぎゅー」


 ……一応、これでも「あ、い、う、え、お」と言ってるつもりではあるのだ。まったくそうは聞こえないだろうけど。

 ザラシュトラの言う通りに発声器官を活用すべく特訓を始めた僕だったが、どれだけやっても爬虫類の鳴き声以上のものを発することができず、この先だってうまくいく気がまったくしない。

 そもそも、いくら声帯があるといっても身体の構造が違い過ぎる。口の動きひとつ取っても柔らかい顔の筋肉を持ち、口を自由に動かせる人間とは違ってこっちは縦に口を開くことしかできないのだ。要は「あ」の発音をする口だけで五十音全てをこなせというような言うようなものだ。そんなの無理に決まっている。


(腹話術というものがあるだろう。あれは顔の筋肉を動かさずに声を出す技術だ。あの技術を応用すればいいのではないか?)


 ザラシュトラは簡単に言うが、残念ながら僕はそこまで器用な人間……いや、アカメカブトトカゲではない。


(だが、それでもやらなければ希望はない。君がこの世界と自分の肉体を諦めるというならば、まあ別に構わないが)

(……うぅ〜)


 僕は横目で、ケージの中をカサカサと這い回るコオロギをチラ見した。あの道寺がエサとして入れたものだ(それも凄く嫌味な笑みを浮かべながら!)

 種類や成長の度合いにもよるようだが、爬虫類という生き物は一ヶ月ぐらいなら何も食べなくても平気で生きているものらしい。だけど、生きている限りいつかは栄養を摂る必要がある。そして、アカメカブトトカゲとなった僕の食料と言えば、あのコオロギしかないのだ。


(クソ、道寺のヤツ……これで僕の人間としての尊厳まで奪うつもりだな。食うもんか、いくらなんで生きたコオロギなんて!)

(いや、慣れれば結構いけるぞ)


 おい、尊厳! それにアンタが今もしゃもしゃ食ってるの小松菜じゃないの⁉︎


(フトアゴは雑食性だからな。それに私はもうこの姿になって長い。今さら尊厳もあったもんじゃないさ……それに)

(……それに?)

(私にはキミのような、悪と戦う者を導くという使命がある。例え泥を啜っても生き延びなければならないのだ)


 そう言えば、僕はザラシュトラが何者なのかを知らない。フトアゴヒゲトカゲとして生きているクセに、ヤケに色んな知識を持っているのは確かだが……訊いてみれば(人間に戻ったらググってみればいい)とか言われた。爬虫類にググれなんて言われた人間なんて人類史上、僕ぐらいなものだろう。


(分かっただろう。キミにもまた、使命が与えられている。暗黒神の復活を阻止するという使命がな)

(……うん)

(ならば、発声練習を続けるがよい)


 そう言い残してザラシュトラは眠りについてしまった。僕が脱出する「その時」のために力を溜めておく必要があるらしい。


「ぎぇ、ぎぇ、ぎゅー」


 しかし……世界を救うために発声練習なんて、ちょっとシュール過ぎないか?


 ひたすら発声練習を続けているうちに、とうとう水曜日を迎えてしまった。おそらく今日、榛名さんはこの店を訪れる。計画を実行に移すには今日しかない! ……のだが、問題がある。まだ人間の言葉を喋ることができないのだ。


(日曜まで延期する?)


 そう尋ねると、ザラシュトラは首を振った。


(肉体と精神の結びつきはそう弱いものではない。今のキミならまだ、自分の肉体に触れることで元の身体に還ることができるだろう。だが、時間が経ってその身体との結びつきが強くなればなるほどに帰還は困難になる)

(でも、榛名さんと意思の疎通ができないとどうしようもないよ)

(なんとか別の方法を探すんだ)


 なんとかって言われても……しかし、そういうことなら仕方がない。まずは自分の身体を見つけなければ復活の儀式を阻止することも叶わないのだ。


(……わかった。やろう)



 自分では冷静にしていたつもりだったのだが、気づかないうちにソワソワしていたらしい。何度かザラシュトラに(落ち着けよ、怪しまれるぞ)などと言われながらとうとう、その時を迎えた。

 十七時前、「こんにちは」という軽快な声が耳に飛び込んできて僕はハッと顔を上げた。見れば、ザラシュトラもこっちを見て頷いている。


 あの時と同じように真っ直ぐ爬虫類コーナーに向かってきた、見慣れた制服姿の榛名さんは相変わらず可愛かった。ケージの一つ一つを眺めていた榛名さんの表情か、僕と目が合った瞬間にふっと曇った。


『何か、気に入った生体いた?』

『うん、あのアカメなんとかっていう、黒くて目の周りが赤いトカゲはいいな。トゲトゲで怪獣っぽいし』

『あー、アカメカブトトカゲね。あれ可愛いでしょ? 私も飼ってみたいんだけど、ちょっと難易度高いのよねー』


 この店を出て、そんな会話を交わした数日前がひどく遠くに思える。考えてみれば、僕はあの日から行方不明ということになっているはずなのだ。榛名さんだけでなく、家族や学校にも随分心配をかけているに違いない。


(決めたよ、ザラシュトラ)

(ん?)

(僕は必ず元の身体に戻る。そして、戻ったら榛名さんに告白する!)


 隣のケージへと移動していく榛名さんの大きな背中を眺めながら決意を固める僕に対し、ザラシュトラは複雑な表情を浮かべた。


(……なあ、世界の命運を背負ってるって、自覚あるかい?)

(も、もちろん!)


 胸を張って答えはしたが、この小さな身体に世界なんてものは重過ぎるし、現実味が無さすぎる。正直、身近な何かをモチベーションにしておかないと自分を見失ってしまいそうなのだ。そんな僕の胸の内を知ってか知らずか、ザラシュトラは大きなため息をついた。


(まあいい。どちらにしてもやるべきことは同じだからな……やるぞ、準備はいいか?)

(オッケーだ)

(よし、では幸運を祈る)


 ザラシュトラは小さな目を閉じて精神を集中させ始めた。身じろぎひとつせず、だけど尻尾だけはうねるように大きく動いてる。それはまるで、目に見えない何かを呼び寄せているようにも見えた。

『神通力』という古臭い呼び方をザラシュトラはしていた。要は『氣』のようなものなのだろう。自分の体内に蓄積したそのエネルギーをいま、発動させようとしているのだ。

 しかし、ザラシュトラ自身も僕と同じく暗黒神の器たる爬虫類の身体に封じ込まれている以上、大きな力を振るうことはできないらしい。できることはほんの小さな……数センチほどのプラスチック片を割ることぐらいだそうだ。


(シャッ!)


 ザラシュトラの裂帛の気合いに少し遅れて、僕の頭の少し上の方から「パキッ」という小さな音が聞こえた。ハッとして上を見ると、彼の言葉通り、ほんの小さなプラスチック片が割れていた。


(スゲー! マジで? 超能力じゃん⁉︎)


 できるとは聞いていたが、正直言って半信半疑だった。まさか本当にこんなことができるなんて。


(よ、喜んでいる暇はない……早く行け!)


 そうだった。まごまごしているうちに榛名さんが帰ってしまったら元も子もない。

 ザラシュトラが破壊した小さなプラスチック片……それはこのケージの蓋を固定しているフック状のパーツだった。ストッパーが破壊された蓋は僕が隙間に鼻先を突っ込んだだけで軽く浮き始める。


(よし、なんとか出られそうだぞ、ザラシュトラ!)


 だが、ザラシュトラからの返事はなく、見るとグッタリと倒れ込んでいる。今ので全ての力を使い果たしたのだろう。


(……ありがとう、ザラシュトラ)


 僕はそんな彼に頭を下げてから、ケージの隙間にグイグイと身体を押し込んでいった。

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