第15話  プロポーズ そして……

「その言葉を何時言われるかと思ってた」

 尚美がそう言った瞬間、冬馬は世界の誰よりも、幸せだと感じていた。


 冬馬が中学生のとき母が死に、父と二人になった。

 そして大学二年のとき父が死に、一人になった。

 住まなくなった家や土地だけは残したが、そこには今、他人ひとが住んでいて、帰る故郷もなくなった。


 友には恵まれた。だがそれは家族ではない。


 尚美とは巡り会いだと思った。美しく聡明な女性だ。深い愛情と共通した価値観を持つ、この女性こそが自分の伴侶だと確信し、尚美と家族を造ることを冬馬は決めた。


 冬馬はこれまで待たせたこと、そしてこれからも待たせることを心から詫びた。

「今から三年だけ待ってくれ。就職して実力を養う。経営も学ぶ。そうしたら親父が残してくれた遺産で動物病院を立ち上げる。その時にナオのご両親にご挨拶に伺う。いや、挨拶には今から行ってもいいけど」

 弊害になるものは何も無いはずだ。未来は見えている。三年はすぐだよと言って、泣いている尚美を抱きしめた。


「できない」と尚美が言った。

「何が?」

 聞き返す冬馬に、「あなたと結婚は出来ないの」と尚美が繰り返して言った。

「?……」

 冬馬は立っている大地が揺れ、心臓がどくんと鳴った。


「あなたにプロポーズされたくなかった」


 結婚という言葉を、待っていたのではない。いつ言われるかと怯えていたのだ。それを聞いたら別れになるからと。

  

「私の両親は病院を経営しているの」

 涙にまみれた顔をハンカチで押さえた。


「だから私のお婿さんになる人は、医師で、病院を継いでくれる人でなければ駄目なの……あなたが私を好きになってくれて、私を愛し始めたことは判っていた。だって私もあなたを愛してしまったから」


「グスッ」鼻を鳴らした。

「でも駄目なの。あなたは獣医で、私は結婚相手の医師を捜すためにこの大学に来てたのだから」

 冬馬を三度目の絶望と喪失感が襲った。叫びたい衝動を、歯を噛みしめて耐えた。

 

「嫌だ、鼻汁が着いちゃった」

 ハンケチで鼻をかんだその音を、無理に笑って冬馬が言った。


「折角の美人が何て音をさせて鼻をかむんだ。安心しろ。いまので百年の恋も冷めちまったよ」

「ほんとうに御免なさい。あなたに知られると、あなたが居なくなってしまうと思い、恐くて言えなかったの」

「うん」

「だからね、あなたが私をこれ以上好きにならないようにわざと佐藤先生と一緒にいたり嫌な女になったりしてたんだけど……駄目だった。あなただって狡いんだから」

 尚美の絞り出すような声が徐々に高まっていく。

「あなただって狡いのよ……、だって、獣医なんだもの。獣医だなんて、人を油断させといて好きにならせるなんて……卑怯だわ」

 母親に縋りつく子供のように、冬馬の胸に顔を埋めて泣いた。

「悲しいー……辛い……淋しい。何とかしてよ。とうま。とうま。わたし、頭が変になっちゃうよ」

 冬馬は尚美の顔を胸に包んで、いつのまにか辿り着いたマンションの非常階段に背を預けた。


 シャツを通して胸に沁みていた熱い涙は、いつの間にか冷たくなっていた。

 二人は長い間そこにそうしていたから、マンションの年老いた警備員が一度ならず目にしていたはずだが、何も言ってはこなかった。


 二人は非常階段に座っていた。

 

 尚美の頭は冬馬の肩に乗せられていて、一緒に羽織った冬馬のジャケットの下で手を握り、寄り添って相手の体温を確かめた。

 顔を見合わせて、キスを繰り返した。


「不思議だ」

 冬馬がポツリと言った。

「別れが決まってから、俺達、抱き合い、キスをしている」

「ふふっ。冬馬は海の時が初めてだったの?」

「ああ。初めてだ。でも無我夢中って奴で格好悪かったな。今の方がずっと上手くいってるんじゃないかな」

「今は自然にね。そうなったからだよ。私もあれが初めてだもん、私だって意識が無くなりそうなぐらい感じてたんだよ」

「そうだったんだ」

「抱きしめられて、息ができなくなったときね、一緒に海に沈んでも良いって思ってた」

「それじゃあ人魚かローレライの妖精じゃねえか」

「だって冬馬も興奮してたじゃない」

「そりゃあな。あのときのナオに興奮しなけりゃ男じゃ無いって言うか……今ならあのナオになら引きずり込まれてもいいかもしれない」

 尚美がワンピの裾をまくって出した足を冬馬の足に添わせた。

「さわってもいいよ」

「大丈夫。もう興奮はしないから。結構冷静でいられる」

 尚美は淋しそうに「ご免ね」と言い「私のせいだね」とうつむいた。

 空が紫の光を滲ませ、第二黎明が始まった。


「あのさ、俺がナオと結婚したら二人でやろうと思ってた幸せの作り方。ナオに贈りたい。いいかな」

「ありがとう。謹んで聞かせて頂きます」


「結婚をしたいという女性の殆どが、幸せになりたいからというだろ。男は幸せにしますという。だけど、あれは妄想だから」

「へえ。そうなの」

「相手に求めるだけの幸せなんかすぐに品切れになってしまう。幸せって貰う物じゃないんだ。自分達で創るもの、感じるものなんだ。だから自分が幸せになるためには相手を幸せにする。それが幸せの秘訣なんだよ」

「うん。冬馬、よく判ったよ。私は相手を幸せにする。私が幸せになるためにね」

「朝が来た。じゃあな。頑張れよ」


 冬馬は尚美の手を引き立ち上がらせると、手を振りながら、夜明けの学生通りを歩いて行った。 

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