第16話  決別

三人の男性が獣医師国家試験を受験して、東京から帰ってきた。

   

「大丈夫だった?」

 三人の女性は、変わらず男達を案じて集まってくれる。


 喫茶ミルフィーユでの午後だ


 猛男が、

「うん。三人とも大丈夫だ」と、試験の結果を知らせた。

「実は試験場に入ったとき、ヤスのドキドキが俺や冬馬に伝染うつっちまって」

「いやいや。それが良かったんだって」

 安幸が弁解する。

 用紙が配られ受験番号を書いてから、気を落ち着かせるために一分間だけ瞑想した。

 目を開けた途端、「コットンブルー染色の病原体はどれか」という問いと、2のMicrosporum canisが光って見えた。「それから全ての音がきこえなくなった」

「三人とも?」尚美がきいて冬馬が「そうなんだ。不思議だろ」何のわだかまりもない顔と声で、手品を見たように答えた。

「もうな、正解の番号しか見えないわけよ。お前らの時もきっとそうなる。自信持て」

 猛男の言葉に女性達がワーッと拍手した。


 大学の卒業式は今年も代表者だけで執り行われる。


 院生としてあと四年を過ごすことになる霞子を除いて、事実上今日で大学に関わる全てが終わった事になる。

 それぞれがそれぞれの道に進む。その準備もまた進めていかなくてはならない。

別れの言葉も無く、再会の約束も無く、「またな」とも「元気で」とも言わず、ただ「頑張ろうぜ」と言って頷き、手を振り、ミルフィーユを後にして、別れた。


 冬馬と尚美は仲間と別れ、それまで片付ける事が躊躇ためらわれて、置いたままの防具をとりに道場に行った。


 二人は黙って防具を着け、試合でも稽古でも無く、ただ激しく打ち合った。


 面と言わず胴と言わず、気合いを発して打ち込んでくる尚美の竹刀は、まるで竹の楽器で曲を奏でるように冬馬を包み込んだ。


 霞子が言っていた。

 言葉を用いないコミュニケーションなのだと。


 別れる悲しみ。相手を傷つけた後悔、未熟だった自分への怒り。


 冬馬もそれは感じていたのだ。ただ答える術がなかった。


 いつか、尚美が打ち込む気合いの語尾が掠れて嗚咽に代わり、冬馬は振り上げた竹刀を、降ろす事が出来ないまま、二人は立ち尽くした。


 防具を担いだ帰り道、バイクを押す冬馬の竹刀を握ったままの尚美は、マンションに着いてもその手を離さず「今までありがとう」と言った。


「最後に、あと二つお願いがあるんだけど聞いてくれないかなあ」

「俺こそありがとうな。いいよ。何でも言ってみろ」

「じゃあ、取り敢えず部屋に入ってよ」


 尚美と知り合って、初めてはいる部屋だった。


「お邪魔します。よし。一つ目の願いは叶えられたぞ」

「ばかっ。何、古典やってんのよ」

 ぬいぐるみが飛んできた。


「とても大事なこと。国試の土日、バイクで送ってくれないかな」

「ここから試験会場までか。バイクだと、かなり寒いぞ」

「うん。ブーツと防寒着があるから大丈夫」

「ならOKだ。じゃあメット調達してくるわ」

「借りといた」


 尚美が出してきたのは米軍のジェットヘルメットだ。シールドとエアマスクがついている。

「スゲエ。これなら風が入らねぇから寒くないぞ。で、あと一つは?」


「お祝いしようよ。ここで二人きりで。今日は卒業の、明日の晩は楽しかった今までの。そして金曜は前祝い。土曜日は一日早い合格祝いとお別れと旅立ちの」

「凄いな。毎日じゃないか……うーん。でも正直言うと無理だ。実は俺、今でも尚美が好きで堪らない。理性に自信が無い。せめていつもの居酒屋にしないか」

「いいよ。理性無くしても」

「な……」


「冬馬……。 私も冬馬が大好きだよ。初めの頃は冬馬が獣医で良かったと思った。

それなのに、今は逆。どうして獣医なのって思っちゃう。だからいいじゃない。せめて最後ぐらい好きな人と過ごしたい。それに一人で居ると心細くて受験に自信がなくなってしまうのよ。だから試験が終わるまでは側に居て欲しいの」


 日曜日。

 国試二日目の終了時刻が過ぎた。

 迎えに行った冬馬の前に、尚美は現れなかった。

 冬馬はマンションで待ち続けたが、尚美は姿を消したままだ。やがて電話のコール音もしなくなった。

 確かに尚美は土曜日の晩までと言った。

 土曜の夜は一日早い合格の祝いと、お別れと旅立ちの……と。

 だから、日曜の朝、試験会場で降ろし「頑張れ」と送りだしたとき、いつになく腕を上げガッツポーズを見せた。そのあと手を振りながら、最後まで振り返らずに試験場に消えていった。あれが最後の別れだったのだ。

「あのいさぎよさを俺も見習わなくちゃな」

 冬馬は唇を噛んでマンションを後にした。


 冬馬が三年の時を隔てて歩く学生通りに懐かしさを感じるのは、ここに青春の全てがあったからだ。

 青春という言葉は恥ずかしい。

 それは未熟さの代名詞だ。

 冬馬は古い日記を読んだとき、粋がっていた自分の未熟さに絶望し日記を燃やしたことがある。

 ボイスレコーダーで初めて自分の声を聞いたとき、自分は宇宙人だったのかと思いその日学校をサボった。

 尚美のベッドに初めて二人で入ったとき、俺はイルカになったと思った。


 尚美がいたマンションが左手に見える。

 最後まで男子禁制を貫いた尚美の部屋は、最後の最後に冬馬に入室を許した。

あのときの尚美の肌の感触が手に蘇り、胸が震えて立ち止まった。

 

 別れてからしばらく経ったある日、霞子から、尚美が佐藤医師と秘かに婚約したとメールで知らされた。それから一年ほども経たぬ間に、今度は雪江から、尚美が男の子を産んだと報せがスマホに入っていたが、冬馬は返事を送らなかった。


 姿を消したのだから探さずにおく。あとはそれぞれの人生なのだ。

 今はこれで良いのだと思った。いつか年を取って会ったとき、きっとみんなでああだったと笑って語るに違いないから。


 冬馬は時計を見る。もう余り時間が無くなった。明日から新しく始まるハウスペット・クリニックまで、ここからだと高速を飛ばしても一時間強はかかる。

 スタッフが待っているはずだ。


冬馬は車止めを抜け出てバイクに跨がった。



  

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