第14話 想い
冬馬が久しぶりに非常階段の下で指笛を吹く。
エレベーターの表示階数が1を示し、ポーンと言う音と共に開いたドアから尚美が姿を現した。
肩にスリットが入った裾の長いワンピと短い編み上げ靴。民族風のヘッドバンドでエキゾチックな雰囲気を醸している。
「ナオはほんとにスゲーな。自分が作った雰囲気で周りの空気感まで変えてしまうよな」
「よしよし。褒めるときにはそういう具体的な表現を加えるとポイント高いからね」
相変わらず、有り難うの一言では済まさない尚美を笑いながら、冬馬は「今日は居酒屋の雰囲気じゃないな。少し歩くけど
いつものように雑談をしながら食事をした後、食後のコーヒーを一口飲んで、尚美が言った。
「ねえ。佐藤先生どう思う」
「あのクリニックのか? 余り良く知らないけど、個人的には惜しいところがあるなと思う。ナオは気に入っているのか? なら、それ以上は言わないけど」
「いいじゃん。聞かせてよ。色々な見方があるのって当然じゃない」
知った情報を混ぜて言えば批判がましくなる。それが中傷になれば自分の人間性を貶めることになる。人の悪口は言いたくない。だが不当に良い評価を与えることもしたくなかった。
「うーん。スキーの時に俺を上手いと褒めてくれた」
「いい人じゃん」
「後から聞いたんだけど、それはナオをずっと見続けていたから、俺が視界に入っていた訳だ。正直、キモイ」
あの日、冬馬達三人は午前中、一ノ瀬スキー場のファミリーゲレンデで尚美達のスノボの練習に付き合い、一応、曲がり、止まることができるようになったので、ゴンドラで東館山まで上がった。
カフェで眺望に歓声を上げてコーヒーを飲んだ後、女性達はスノボで林間コースを降りるはずだったが、冬馬達の行く寺子屋スキー場までついてきた。
「無理。死んでしまう。何とかして」と、斜面を見下ろして座り込んだ三人を、結局それぞれ背負って一ノ瀬のファミリーゲレンデまで降ろしたのだが、佐藤医師はそれをずっと、下りのゴンドラとリフトにのって見ていたのだと複数の後輩達が言った。
それを聞いて注意して見ていると、確かに尚美がいるゲレンデには必ず彼がいた。
ただ佐藤医師は余りスキーが上手くないので、尚美に追い越されたり、自分が先にリフトに乗ってしまうとかで、ゲレンデで、一緒になることはできなかった。
「人当たりは凄くいい。と言ってもいいのかな。ウェイトレスの女の子にも、やたらと声をかけていたし。ただ」
「ただ?」
「医者としての腕はどうかと思う。佐藤先生は、患者に対する観察力が無い。それが原因かどうか知らないけど看護師さんともうまくいってないようだ」
冬馬は佐藤医師の診察を受けたことがある。
そのとき佐藤医師は診察前に問診票を読み、レントゲン撮影を指示した。写真を見て異常なしという判断のもとに湿布薬を処方されたが、その間カルテの書き込みと写真とパソコンの画面だけを見ていて、痛む場所の触診はおろか冬馬の顔さえも、一度も見なかった。
医師は先ず診察室に入ってくる患者の動きと表情から病状、症状を読み取る。そして患者が訴える全ての症状を注意深く聞き、患部の観察と既往症について質問する。
それによって患者が捻挫したと訴える親指やくるぶしの腫れが、所謂、痛風であることに気がついたりすることがあるし、観察力が無い医師は、逆に尿酸値が高いというだけの年寄りの捻挫を痛風と誤診することがある。
これは自分で症状を訴えることのできない動物と違う、人間の医師の大いなる利点なのだが佐藤医師はその根本が欠けていると冬馬は思っている。
「成る程。でも今は変わったのかな。私の時は患部を特定すると言ってかなり触診したよ」
それはナオが女だからだよと、口には出さず、冬馬が笑った。
学生通りをゆっくり歩いた。
「ねえ。何か大事な話があるんでしょ」
幾分抑えた声で尚美が言った。
「そうなんだ。ジャーン。今日、第一志望の内定通知が来た。就職が決まった」
サプライズで劇的に発表したかった冬馬は「もっと驚かせたかったのにな」といいながらも、「おめでとう」という、尚美の弾んだ声に頬が緩む。
「多分ね、どんなサプライズも驚かないわよ。だって冬馬を採用しないなんて有り得ないもの。『落ちた』だったら天地がひっくり返ったぐらいには驚いてあげるけどね」
冬馬が就職を決めた先は、動物病院と言うより企業としての性格が強い動物のための総合病院だ。
ファームに医師を派遣して予防法の指導をしたり、医師を自宅に派遣して大型ペットの治療をすると言った形の会社の一部門だ。
「どうして最初に言わないのよ。食事をお祝いにしたのに」
「いや、他にも言いたいことがあって」
尚美は冬馬からの言葉を待っている。と冬馬は思っていた。
冬馬からその言葉を引き出させたくて、佐藤医師と親しくして見せたのだろうと、思っていたのだ。
「実は俺はナオが大好きだ」
「知ってる」
「ナオは? 俺が好きか」
「ううん。好きじゃない。大好きなの。だから困ってる。好きすぎるの」
どこかで聞いた言い回しだと冬馬は笑いかけたが、尚美の真剣な顔を見て意を決して言った。
「それなら結婚してくれないか。今でなくてもいい」
尚美は両手で頬を覆った。
涙が溢れた。
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