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「すまなかったね」
客間に戻ると、ソファにかけていたリーリヤは泰然と首を振った。
「いいえ」
それ以上、電話の相手もなにも訊いてこない。訊いても答えは返ってこないとわかっているからか? なぜそこまで頭が回る。どうしてそこまで落ち着いていられる?
いや、それは私の考えすぎだ。父親がソ連将校なら、電話の内容を訊いても教えてもらえない、そんな経験を幾度もしたことがあるだろう。
リーリヤへのイメージを肥大化させつつある自分に気がついた。
振り払え。
「君の国家への考え方はよくわかった。では次に、実際的な話を訊きたい。スターリンが死んで、君の家はどう変わった? 特に父親は?」
「つまらなくなりましたわ」
本当につまらなそうに、リーリヤはそうとだけ言った。
「それより、あなたの話を聞かせてください。どんな子供だった?」
「今は、君の話だ」
「本当に? 私は祖父からよく聞かされました。相互理解が大事だ。たとえ敵であろうと知らなければいけない。いや、敵だからこそ、親友以上に相手を知る必要がある。私たちは敵? 仲間?」
「平凡な子供だった。特に面白い話などないよ」
「本当に? あなたは自分自身のことを平凡だと思いながら、子供時代を過ごしたというの? そんな人いないわ。あなたは、子供のとき、自分をどんな子供だと思っていたの?」
あの頃、自分自身にどんな評価を下していたか告白する?
そんなこと、恥ずかしいどころではない。思い起こそうとするだけで苦痛だ。
だが、そのときの私には、なぜか一つの文章がぱっと思いついた。
「高慢だった」
「ガキ大将だったの?」
「そうじゃない。私は、自分自身のことを高慢だと思っていた」
「子供のときに?」
「私は、将来、自分がなにか特別なものになると思っていた。そして、そんな自分を俯瞰して、高慢だと評価していた。実際の私は平凡な人間で、何者にもなれるはずがないのだと。私の心には夢見がちな子供と、冷徹な大人が両方存在していた」
「でも、あなたはスパイじゃない。それはふつうの労働者と比べたら、充分特別な職業じゃなくて?」
これだ。私は、リーリヤのこの口調に、彼女を見るのだ。
自分はまったくそう考えていないのに、私を挑発するために、わざとこういう言い方をする。
「本当にそうか? 私はときどき子供の頃を思い出す。砂山を作っていたときの気分を思い出す。より高く、より複雑さに富んだ砂山を必死になって作っていたあのときを。簡単に崩れてしまうし、もしうまくできても夜には家に帰らなくてはいけない。そして次の日に公園に行けば、そんな砂山は消えている。風に吹かれたか、野良犬に荒らされたか、浮浪者が踏み潰したか……そんな曖昧なものを必死に作っていた気分になる」
自国の利益、他国への牽制、
私たちにあるのは歴史と伝統だけ。ただ必死にバタ足を続け、海底に沈まないよう頼りない波にしがみつく国粋主義者。真のゲームプレーヤーではない。
CIAを見るがいい。失敗だらけの情報機関だが、西側で主導権を握っているのはたしかに彼らだ。KGBは協力者を使い捨て、超能力などという馬鹿げたものに金を費やしている。大国が生んだ奇形児たちが、我が物顔で世界を動かしている。
土台、そういうものだ。
「結局、どれだけ複雑で巨大なものを作ろうとも、砂の総量は変わらない」
微笑を浮かべているリーリヤを見て、自分が喋りすぎたことに気がついた。スパイのメソッドに照らす必要もなく、ただ一個の人間としても、私は内心を打ち明けすぎていた。
「だから戦争に行かなかったの?」
「……」
言いよどんだ。
「私が戦争に行かなかったのは、喘息の気がまだあったから……」
「本当に? あなたは最初から、馬鹿馬鹿しかったんじゃないの? 目に見えぬ国家なんて枠組みに奉仕して、自分の命を懸けるなんてあなたには受け入れられなかった」
リーリヤの大きな瞳が、さらに大きくなる。私はそこに大洋を泳ぐ鯨を見る。鯨の目ではない。鯨の口だ。
大きく……大きく……近づいてくる。私を飲み込む。
「彼女が死んでから、あなたは実体のないものに興味を持てなくなった。あなたは目に映るものしか受け入れられない。だから、KGBの二重スパイになったんでしょう?」
弾かれたように立ち上がった。椅子を蹴り飛ばしていた。
フェルメールの絵画のような微笑とも呆然ともつかぬ曖昧な表情を浮かべるリーリヤに背を向け、客間を出ていた。
ダイニングに出て、レスリーのいる隣室の扉を開ける。
大きなヘッドホンを外したところだった。彼はあんぐり口を開けた間抜けな顔で、突然入ってきた私を見つめる。
「あなたは……」
最後まで言わせず、私はそばにあった花瓶でレスリーの側頭部を殴り飛ばした。ぐにゃり、と骨が溶けたようにレスリーは崩れ伏せる。そのうずくまった彼の頭を、何度も何度も花瓶で殴った。
何度目で花瓶が割れたのか、私はおぼえていなかった。気づいたときには、花瓶は砕け、私の手の中にあるのは波模様の陶磁の破片だけだった。レスリーは頭蓋骨を粉砕され、とっくに血の海に沈んでいた。
二度と起き上がることはないように思われた。
私は血のついたままの手で、レスリーのヘッドホンを片耳に押し当てる。
盗聴器で録音していた、私とリーリヤの会話を聞く。
そこには、ハンガリーの食生活について何気ない言葉を交わす、二人の男女の声があった。突然、声が途切れ、椅子の倒れる音。そして部屋を出ていく荒っぽい足音。
それから先は無音。
私はヘッドフォンを投げ捨てた。
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