3

 最初、なにかの誤りでシャワーが放出されていると思った。勘違いだった。水の叩く音はバスタブではなく、建物の外で響いていた。雨だった。


 銃声が鳴った。

 どこか遠くで鳴って雨のカーテンに歪められたのか、車のホーンのような銃声だった。本当に車のホーンだったのかもしれない。寝ぼけた頭ではよくわからなかった。もしかしたら夢だったのかも。


 いや、そんなはずがない。

 昨晩の夢に出てきたのは彼女だった。彼女が父親のカメラを勝手に持ってきた日のことだ。私に、自分の姿を撮れという。それを人生最新で、最後の肖像にするのだと。私はそれを嬉々として引き受け、内心では子供のように嫌がった。


 ラジオはいつの間にか切れていた。


 私はバスルームを出ると、寝室のベッドを昨晩使ったふうに見えるよう乱した。それからラジオをもとあった場所に、元通り一インチのずれもなく戻し、スーツを着た。

 腹が空いていたが、どこへ行けばサンドイッチを買えるのかわからなかった。サンドイッチを出す、気のいい夫婦がやっているカフェがあったとして、こんな動乱の最中に店を開いているものか? 雨の中を出歩くのも気が乗らなかった。


 七時になり、チャイムが鳴った。

 短いのが二度、それから長く一度。取り決めどおりの合図だ。ドアを開けると、現地工作員――偽装身分は二等外交官――のレスリーだった。紙袋を抱えていた。


「銃は要らないと言ったろう」

 中へ招き入れ、まず不機嫌そうに言ってやった。

「なに、あなたが不公平を感じないかと思いましてね。つまり、みんなバンバンやっているのに、自分だけ空手ではお祭りに参加できないじゃないかと」

「私は戦争をしに来たんじゃないんだ。話をしにきた」


 レスリーには、現地工作員として長く流浪を続けていた職員にありがちな、アメリカ的タフさとイギリス的階級意識の混濁が見られた。信じられるものは自分と本部だけ。故に共育する、歪んだ価値観。


「なるほど。でも、これは必要でしょう」

 レスリーは客間のソファの背に身体を預けると、紙袋を掲げてみせた。サンドイッチ、と彼は香ばしい匂いの説明をした。

「どこで手に入れるんだ、そんなもの」

「そこらへんで売ってますよ。人間とはたくましいものです」


 我々はサンドイッチを食べ、煙草を吸った。備蓄されているスコッチを開けようかと思ったが、これから亡命者が来るのに朝から酒を飲むというのは、やめておいた。彼が来てから開ければいい。西側での新しい未来と、家族に乾杯。


 代わりの暇つぶしに、レスリーから駐ハンガリーソ連軍の大まかな勢力図を聞いた。連中、数ばかり多くて妙にやる気がありません。スターリンが死んだせいですかね。コルピン広場で民衆を撃ち殺してるあいだも、うわの空って感じですよ。


 九時になり、チャイムが鳴った。

 短いのが三度、長いのが二度――これもまた取り決めどおりの合図だった。


 今日の相手はハンガリーで兵站を指揮しているソ連軍大佐。スターリンの死後、亡命者の数はうなぎのぼりだ。体制が揺るぎ、昨日までの権力者が明日の売国奴に変わる。密告によって仕立て上げられる。それならば本当に国を売ってやろうというわけだ。どうせ裏切り者になるならば、命があるだけ西側についた方がまし。


 扉を開ける。


 そこにいたのは、濡れそぼった十五、六歳の少女だった。


 すべての困惑は一瞬だった。私は小首をかしげ、扉を閉めようとした。

 だが、泥にまみれた紐なし革靴ローファーが扉にさし挟まれ、セーフハウスの機密を守らんとする私の試みは妨害された。


「ダヴィット・ナシノフスキーの娘です。リーリヤです」

 雨が建物を打つ音が廊下に響き、その中で少女の未成熟な声が森林で発せられたライフルの銃声のようによく耳に届く。

 リーリヤ。たしかに娘はそんな名前だった。分析官が手に入れた家族の写真――外交パーティに出席するナシノフスキー一家の写真――も確認したことはあるが、目の前の少女と同じ顔だったか覚えていない。


「代わりに来るよう申しつかりました」

 私はまだ扉に力を込めている。

「最初の接触は、スターリン像の下だったと。ボリスと変名を使ったと」

 私は扉を開け、リーリヤを招き入れた。

「私はジョン・グッドマンだ」駐パリ時代に使っていた私の変名。「こちらはハンガリー支部のディケンズ」レスリーの変名。「彼のこと……立会人と思ってくれ。亡命の手はずを整えるのも彼だ」


 私はリーリヤにタオルを渡し、濡れた身体を拭くように言った。

 リーリヤは虚構の肩に預けるみたいに頭を傾け、白っぽい金の髪をタオルで押し挟んで水気を拭った。それはまるでギリシャの石膏像のようだった。力強く髪を押し包みながらも、まったく揺るぎないリーリヤの下半身が、そう思わせた。


 盗聴器の設置してある客間に通した。レスリーはついてこなかった。別室で会話を聞きながら、録音が滞りなく行われているか確認するのだ。


「かけてくれ」

 言い終わる前から、リーリヤは自宅のような自然さでソファーに腰かけていた。イギリス諜報部のセーフハウスには興味も見せず、ここに自分がいるのは当然なんだという雰囲気で、通信塔のように細長い足を組んだ。


「お父さんはなぜ来られないんだね?」

「家に……ハンガリーで接収した屋敷ですが、そこに二人組の男が訪ねてきました。死神みたいに真っ黒いスーツに、天使みたいにきれいな革靴を履いて。父はKGBだと言っていました。そして、自分が応対しているあいだに、私にここへ行けと」

「KGBが?」

 私は跳ねそうになる声音を抑える。

「尾行はされていなかったかね?」

「されていません。確実に言えます」

「君はいくつだ」

「十六です」


 十六歳の少女が言う、など露ほども当てにならない。私はソファから立ち上がった。レスリーとともに撤収しなければ。この世界に直感などない。危険と安全は、薄皮一枚で隔たれており、どんなベテランでもその差異に気づくことはできない。我々にできるのはただ、目一杯の安全策だけ。臆病と罵られるほどの慎重さを発揮する者だけが生き残る。


「確実に尾行はついていません。軍とハンガリー国民の衝突しているところを通り抜けてきましたから」

 武装地帯を抜けてきたというのか、本当に?

 だが、私が寝起きに聞いた銃声と整合性がとれる。レスリーのゴシップ的情勢報告とも。


「それに――」とリーリヤは持ってきたスーツケースを応接机の上に置いた。

「軍の機密書類です。父に持たされました。他にも重要な情報はありますが、それは世界でもっとも一番安全な場所に」

「どこだね」

 リーリヤは無言で自分の頭を指さした。


 私はスーツケースの中身を検分した。書類のほとんどは、大佐が亡命を持ちかけてきたときに事前に提供してきた情報と大差なかった。ソ連軍の組織図、ハンガリーにおける勢力配置図、大佐が把握しているキューバにおけるKGBの情報網の一部。

 新規の情報もある。ソ連陸軍のドクトリン。だが、その真贋を確かめる術は、今はない。KGB側が作り上げた囮情報の可能性を拭うことはできない。

 二重スパイ。そうだ。目の前の娘がKGBの送り込んだ二重スパイでないとなぜ言い切れる。こんな年端もゆかぬ少女が二重スパイであるとは考えにくかったが、前例がないではない。協力者を偽り、我々の情報網に食い込み、偽情報で撹乱する役目を負ったでないとなぜ言い切れる。我々を逮捕するつもりなら、とっくにしている。


 スパイマスターが送り込んだ工作員なのか、あるいは大佐が我が身を懸けて我々に預けようとしている純朴な娘なのか。


 私の脳裏に、オートミールのかけらを口端につけながら喚くカウントの老体が描かれる。もしもぐらなら、本部の網に組み込んでからでは手遅れになる。今この場で、リーリヤの正体を見極めなければならない。


 私は言った。「お茶かなにか飲むかね……ほしければ菓子でも買いに行かせるが」

「必要ありませんよ。優しいのですね。本当にスパイ?」

 優しさから言っているわけがない。本当に純朴なのか、それとも強引なセールスマンのように、虚偽の清廉なイメージを私に押しつけているだけか。


「では、話を始めよう」

「なにから?」

「これらの情報と引き換えに、きみはなにを望む? あるいはお父さんは?」

「たった一つです。私の亡命。父は、自分のことは忘れてくれと」

 そう言って、リーリヤは微笑んだ。微笑んだ? なぜ微笑む。父親が、自らの身命を犠牲に自分を逃したというのに、なぜ笑う?

「どうして笑ったのかね。ダヴィット・ナシノフスキーが心配じゃないのか」

「だって、父はもう死んだんですもの。失礼、死んだも同然。私、悲しみとか後悔とか、そういう感情はもう、あのお屋敷に置いてきまして」

 そう言い放ったリーリヤの瞳には、たしかに悲嘆も内省もない。


 本当に置いてきたというのか。生き残るために、自らの弱さを捨ててきたと?

 そんなはずがない。私が、二十年以上かけてまだ捨てられていないのだ。こんな少女が即座に捨てられるはずがない。良心は、ナイーブな心とは、使い捨ての紙エプロンではないのだ。


「きみの亡命は叶う。だが、正直に言おう、怒らないで聞いてくれるかね。きみが東側のスパイでないことを確かめる必要がある」

 リーリヤはついに口元を押さえて、笑い声を漏らした。

「私がスパイ? だったら、どれほど心躍るでしょう」

「素晴らしい仕事だと思うかね」

「ええ。だって、大勢の人間を操るのでしょう。チェスのように……でもチェスとは違う。だって駒は考えないから。あなたたちは、それを聞いた人間がどう思うかも含めて、命令の言葉を選び、思いのままに操る。心という迷路を走破できるだけでは、あなたたちになれない。あなたたちは迷路を作り変え、ゴールまでも変えてしまう。本人にそうと気づかれないよう」

 ミスター・グッドマン、とリーリヤは窓をのぞいた。

「この国は素晴らしいわmarvelous。私、共産主義って大好きなの」

 上流的ポッシュなブリティッシュ・イングリッシュだった。


「見て」リーリヤは存在しない窓を通して、存在しない労働者を見ていた。

「整然と尽くして、まるでチェスの駒のよう。共産主義に人の心は必要ない。でも、国民は駒じゃない。人の心はたしかにあるの。その歪みが、今ここで行われていること」


 この国にもう美しいものなんてない。誰かがそう言ったのを思い出す。

 誰かではない。彼女だ。


「東洋の焼き締めという陶器を知ってる? 高温で焼成すると陶器の表面についた灰がガラス質に変化して模様になるの。見た目にはカビや、汚れみたい。それは誰にもコントロールできない、自然に生まれるもの。でも、だからきれいなの」

「ここにあるのは、そのガラスだと?」

「あなたの心もね、ミスター・グッドマン」


 そう言って、彼女は振り返った。まるでビスク・ドール。採光までも計算してこの角度で振り返ったのではないかと思うほど精緻な美しさを、私は臓腑にまで感じる。それは人工の美だった。のために心を売り渡した者だけが見せる、血の通わない美しさ。稀代の作品を産むために、自ら彫像となってしまった彫刻家。

 一瞬、私の心に浮かんだのは、なぜか恐怖だった。


 隣の部屋で電話のベルが鳴った。

「すまない。電話だ」

「どうぞ。時間ならまだありますから。そうでしょう?」

 私は曖昧な返事をすると、客間を出た。


 同時に隣室にいたレスリーがダイニングに出てくる。ここの電話はどこともつながっていない。今のベルはレスリーが鳴らしたものだ。退出のサインだった。


「どうしたんですか、ジョン」

 あからさまにレスリーは呆れた顔をしていた。

「ロシアの小娘とイデオロギーの議論を戦わせるために、内戦状態のハンガリーに来たんじゃない。いや、あなたの狙いはわかります。二重スパイかどうか確かめなければいけない。そのために必要な会話かもしれませんが……俺が言いたいのはつまり……」

「わかってる」私は安楽椅子に身を沈めた。

「取り込まれてる」

「そう、『取り込まれてる』あなたはリーリヤに会話のペースを握られている。働き詰めでしょうからね。世界各国を飛び回って。昨日は東ドイツ。今日はハンガリー。そりゃ、時差ボケもしましょうが」

「やめてくれ、レスリー。そんなんじゃない。そんな話じゃないんだ……」


 そう、時差ボケなどではない。疲労でもない。

 ならば、一体なんなのだ?

 自分でもわからない。リーリヤと話しているとまるで……そう、まるで自分が子供のように思える。世界についてなにも知らない幼児になった気分になる。彼女の言葉が、真理を描いた詩篇に聞こえる。正確で、絶対で、美しい。そんなはずがないのに。


「えー、あと二時間」レスリーは腕をまくり、剛健な腕時計を見た。

「それ以上いると、我々の脱出が難しくなります。。大丈夫ですね?」

「レスリー」私は首を振った。「君に言われるまでもない。私だって若い頃は現場にいたんだ。先輩のような口をきくのはやめてもらおう」

 そう言われると、レスリーはムッとしたように口をつぐんだ。

 自分でも意外だった。そのような、キャリアを盾にした高圧的な物言いを同僚にしたことはなかった。


 なにかが狂い始めている。


 認めなければいけない。

 私はリーリヤに、の影を見ている。話し方は似ていない。上流階級の軍人の娘と、田舎の教師の娘だ。同じなはずがない。


 だが、あの瞳が、すべてを見透かしたようなあの瞳が。

 世界の真理すべてを知って、飽いてしまった賢者のような瞳。わかっている。彼女のそれはポーズだったし、おそらくリーリヤのそれもポーズだ。ただ、周囲のものがつまらないという固定観念に囚われた思春期の少女が、非現実と冷笑に希望を求めているにすぎない。自分は他人とは違うのだ、と必死に己に言い聞かせているだけだ。


 ならば、なぜ私はそこに救済を見てしまうのか。


 私はすでに知っているはずだ。そんな超越的な態度はただの子供っぽいレトリックで、根拠のない嘘っぱちで、誰かを救う力などどこにもない。

 なぜなら、彼女は自分自身でさえも救えなかったのだから。

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