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 深夜のランベスは暗く奥底まで沈み、海底を走っているようだった。


 タクシーを降りると、からっ風に出迎えられた。私はトレンチコートの襟を寄せて、反射的にそれを防ごうとした。だが無意味だった。こらえきれず強く咳き込む。それだけのことで息が切れる。四十歳を越してから、子供の頃に治った喘息が再発気味になっている。


 幾度目かの老いを実感したとき、私の脳裏に浮かんだのはカウントの老体だった。防音壁に囲まれた私室で、三十年物の機密書類に埋もれて背中を曲げている。着ているのは二丁目のテーラーで仕立てたオーダメイドスーツのはずなのに、年金生活者の黄ばんだローブのようにしか見えない。今から運動をしなければ、私もいずれああなるだろう。血の巡っていない土気色の顔、濁った瞳で報告書を眺め、骨ばった死神の指で承認のサインをする。代々MI6の長たちがそうしてきたように、Cの一文字を。


 私もいずれああなるだろう……そこで私は自分がMI6の長になるという不相応な想像をしていることに気づき、苦笑した。コードネームはせきcoughか。カウントの本名は誰も知らない。


 裏口に周り、第二次世界大戦を生きのびた警備員のクリフトンに手を挙げる。


「誰かいるかね?」

「当直のハリー・スコールズ以外には、誰も。お早いお帰りでしたね、サー」

「またとんぼ返りさ。我らの愛しい寒い国へ」

「ここだって充分寒いですよ。ドイツ兵に撃たれた膝が痛みます」


 本部の建物に入り、階段を上がる。しん、として人音は聞こえない。両親が私を置いて国教会の落成式に出かけた、幼い日のことを思い出した。たいして立派な生家ではなかったが、あの頃の私にあの一軒家は広すぎた。大人になったからといって、狭すぎるということはないだろうがわからない。あの家はすでに他人の手に渡り、壊され、ガソリンスタンドになり、また壊され、今はただの荒れ地だから確かめようがない。


 ハリー・スコールズは四階の当直室にいた。

 ミッキーマウスのマグカップでコーヒーを飲みながら雑誌を開いて、懸賞つきの数学の問題を解いていた。ケンブリッジ時代に、ナントカ定理にまつわるナントカカントカという論文で博士号を取っている。アイルランド文学専攻だった私には、女性の心くらい遠いトピックだ。


「お帰りなさい。西ドイツはどうでした?」

「相も変わらず、飯は真っ白いソーセージばかりだ。死にかけの老人みたいに真っ白な。あんなものばかりでは気が滅入ってしょうがない。君からも言ってやれ。職員の福祉増進は諜報活動の結果に比例するとかなんとか言って」

「うまくいったようですね」

 ハリーは嬉しそうにうなずいた。


 我らがハリー坊やは、現場の不平を聞かされるのがたまらなく嬉しいのだ。自分が、学生共産主義団体を覗き見する小蝿みたいな存在から、大いなるゲームの一員へと仲間入りしたことを実感できるから。

「緊急連絡は」

「チェコから戯言が一件」

「素晴らしい」

「ええ、まったく。こんなに静かな夜は初めてです」


 本部から人が出払う……カウントは首を振って嘆いていた。我々の頃、ドイツと戦っていた頃には、本当に忙しいときというのは本部の明かりが絶えないものだった。それが今やどうだ。優秀な本部職員たちが現場に出張らなければならない。まるで大使館付きの現地諜報員や、手先の工作員みたいに。

 カウントは私に言う。君は高潔さを失ってはならんぞ。登庁したら柱時計も見ずに一心不乱に働き、仕事が終われば家に帰って妻を可愛がれ。そうすれば、今私が座っている席は、君のものになっているだろう。

 私に妻はいなかった。腕時計も立派なやつを持っていて、柱時計を見る必要はなかった。大学を卒業したときに買って以来二十年、いまだに動く勤勉な代物だ。安物だが、生来の貧乏性から手放せずにいる。


 外套と短刀クローク・アンド・ダガーと同じくらい家柄と社交が出世において重視されるこの国の諜報界で、私の血筋は貧民街の犬ころ以下だった。


「ああ、サムが息巻いていましたよ。『次こそはあいつに一泡吹かせてやる。テムズ川を裸で泳がせるんだ』なんの話ですか?」

「チェスだよ。二人とも目がなくてね」


 私はチェスが嫌いだった。顔のない駒を操り、敵陣に突っ込ませるその所業に、私は自分の残酷さを省みることを強制されているようで、居心地が悪くなる。

 サムは違った。彼は、私を目標にしているようだった。私に勝てば、栄誉も軍功も東欧支部R9の支部長補佐の地位も手に入れられると願掛けをしているようだった。


「本部へは、装備の返却をしに?」

「いや、ハリー。書類仕事に寄っただけだ。これからすぐハンガリーに行くよ」


 ひゅう、とハリーは口笛を吹き、それから自らのはしたない真似に顔を赤らめた。彼も入庁以来の忙しさに舞い上がっているのだろう。私もそうだ。ただ彼女が死んでから、少し感情をあらわにするのが苦手になっただけで。

 そう、彼女は死んだデッド逝ったゴーンのではなく。


「この忙しさはいつになったら収まるんでしょうね」

「さあね。とにかく、私たちはこのお祭り騒ぎが終わらんうちに、一人でも多く亡命者をかっさらうことだ」

「ゴールドラッシュというやつですね。習いましたか、レニー?」

 彼は私をレニーと呼ぶ。超えるべき父親を、わざと気安く呼んで自らの身近に寄せるように。


「何を習ったというんだね」

「ゴールドラッシュで一番儲けたのは誰か」

「さてね。フットワークが軽くて、ゴリラみたいな筋肉を持った大男か?」

「スコップを売った奴ですよ」


 その言葉に、一瞬私の背筋が冷たくなった。

 少なくとも、今の我々はスコップを売る側ではない。スコップを手に、無限に続くのではないかと思われる金鉱を、汗水垂らして掘り続けている。

 踊らされる側に立つこと。それは我々の世界で、死を意味する。



 東ドイツで亡命を申し出たロケット技師の報告書を書き終え、部屋を出ると、ちょうどハリーと出くわした。

「ああ、よかった。もしかしたらお帰りになったのかと……」

「君に黙っては行かんよ。どうした?」

「カウントが呼んでいます」

「登庁していたのか?」

「ええ。ついさっき……資料部に寄ってから、私室に上がっていきましたよ。その通りがかりで僕と会って『レオナルドはいるか』と。なんと言ったらいいか、異様な雰囲気でしたよ。おどろおどろしい……その、こんなことを言うのは失礼なんですが……」

「真っ白なソーセージ」

「そういうことです」

「ありがとう、ハリー。本部の夜は、君に任せておけば安心だな」

「では伝えましたから。それで、ポールソンはもう来たんですが……」

 ハリーは壁にかかっている時計を、期待するような目つきでちらちらと見た。


「ああ。もう交代していい。帰って寝るなり、フェルマーの定理を解くなりすればいい」

「わかりました。ではこれで」


 ハリーはうきうきと立ち去っていった。『時計も見ずに一心不乱に働き』カウントのいらだちを理解しかけた。わかりかけ、私は後悔した。一瞬でも自分をあの耄碌したカウントと重ねたことに後悔し、カウントをそんな風に侮蔑的に考えた自分自身を軽蔑した。

 私は出る支度をしたまま階段をあがり、カウントの私室がある六階に向かった。スーツケースが重たかったが、貨物エレベーターは朝になるまで動かない。ふうふう言って持ち上げた。若い頃は息切れなどなかった。ネットリーからケンブリッジの下宿まで、自力で家財道具を運んだものだ。


 カウントの私室の前にはいつも秘書のキンブリー女史がシン・レッド・ラインの如く陣取って、カウントを煩わせる諸事をはねのけるのだが、今は無人だった。


 私はコートを脱ぎ、スーツケースを置くと、重たい木製の扉をノックした。

「入れ」

 入った。


 カウントはいつものごとく紙の城に立てこもっていた。戦時から今まで三十年間の機密書類を資料部から持ち出し乱読している。部内では、カウントは回顧録を書くつもりではないかと噂されていた。カンタベリーかどこかへ引っ込み、下々の民が批難を浴びせるであろう我々の素晴らしくも非合法的な業績をすべて白日の下に晒すつもりなのではないか。

 それか、ただ老いゆえに錯乱したか。部内での見方は、後者が優勢だった。


「どのような御用でしょうか」

「忠誠と奉仕の違いとはなんだ」

 ことん、死にかけた昆虫のようなカウントの指が、何かを突き倒す。

 握りこぶしほどの大きさの、木製の兵隊人形だった。どうも、シン・レッド・ラインを再現したものらしい。望んでもいない偶然に、なぜか居心地が悪くなる。


「信念の所在だ。こちら側にあれば奉仕、向こう側にあれば忠誠。忠誠とはかくも簡単に手に入れられるものだ。すべてを明け渡せばいい。金を稼ぐ術のない未亡人のように、部屋の鍵を開け、ベッドをめくり、服を脱いで股を開けばそれですむ」

 誰だ、とカウントは言った。

商売女フッカーは誰だ。我々の中にいる」

「我々に内通者はいません、カウント。全員が陛下と国民に忠誠を誓った愛国者たちです」

「忠誠? 糞食らえ!」

 カウントは怒鳴った。自失の兆候が階下に聞こえることはない。最新最高の防音防諜措置がこの部屋には施されている。そしてこの部屋に今ある最高機密とは、カウントの知性と自我が失われつつあるということだった。


「貴様まで、私を耄碌扱いするのか。事実は厳たるものだ。。部内に、忌々しいコミュニストが紛れ込んでいる!」

「私はこれからハンガリーへ行かなければなりません。あなたの采配だ。お話は帰ってからゆっくりと伺います。そうだ。大臣とアクセスレベル7以上の職員に限定して、専門の委員会を立ち上げましょう。それであなたの疑いはすべて払拭できます」


 あなたの肥大化した猜疑心は、と心中で言い直す。


 カウントは口角泡を飛ばし、私に罵り返した。

「アクセスレベルなど糞の役にも立たん。そんなものを開いても、逃げられるだけだ。漁師の網に紛れ込んだメダカのようにな。は上層部におるのだ」

「カウント……」

 私は、つい出そうになるため息をこらえた。

「わかりました。この作戦は、私とあなただけ。帰ってからゆっくりと伺いましょう」

「忘れるなよ。信用できるのはお前だけだ」


 ……カウントの声が、機内にいるあいだもずっと耳で残響していた。軍用飛行機のエンジンの轟音をもってしても、消すことはできない。


 忘れるなよ――カウントは自身の記憶力が錆びついていることに気づいているのだろうか。だから私に釘を打ったのか。メモ帳代わりに? 以前の、プライドの高いカウントならばそんなことは絶対にしなかった。かつてのカウントは、偏執狂的なを期するために本部から自宅への帰路にあるすべてを数えカウント、記憶していたという。煉瓦の数から、階段の段数まで。どこかに不穏の兆候を見つけようと。

 やはり私の考えすぎなのか? カウントは、ただ自身の説を強調するために『忘れるな』と言ったに過ぎないのか?


 この世界に偶然はない。あるのは必然と嘘だけだ。


 今や私の人生において、スパイでなかった時間より、スパイであった時間の方が長い。その時間が叩き込んだ教訓から、私は自由になることができない


 陸路を経由してハンガリーに入って、現地のセーフハウスに向かった。アパートの一室だ。私は秘密文書交換所デッドレター・ボックスに置かれていた鍵を使って、207号室に入った。


 一ヶ月ほど前から、ハンガリーの労働者たちとソ連軍による衝突が始まっていた。小康状態とはいえ不安定な情勢に変わりはないと、現地工作員は大使館での滞在を勧めていたが、私は断った。

 私の偽装身分はイギリスの保険外交員だ。万が一KGBの目に止まったとき、矛盾するような行動はなるべく控えたい、と現地には説明した。それに大使館ではずいぶん難民を引き取っているそうじゃないか。私なんかがいれば邪魔だろう。


 自分自身には、ひとりきりになりたいから、と説明していた。たぶん両方とも違う。


 私は破滅を感じたかったのだ。


 通りには風穴だらけのハンガリー国旗と焼け焦げたソ連国旗が落ちていた。放棄された戦車の上で学生たちがウィスキーをラッパ飲みし、路面の舗装は戦車の重みでひび割れていた。大小様々の薬莢と血痕、そして死体があった。盗人が死体漁りしたあとを老婆が弔っていた。建物のくすぶる匂いがしていた。


 黙示録的様相を呈している通りに反して、207号室は客人をいつ招いてもかまわないほどきれいに整っている。ここだけが、まるでハンガリーから切り離されたような、空間的治外法権を得ていた。


 しかし、この部屋に満ちているのもやはり破滅だった。整頓された破滅。私は、密閉空間で凝縮されたその息吹に圧倒された。私は子供だった。神経の震えるような恐れをおぼえながらも幽霊を見物に行き、くだらぬカラクリだと意地を張る子供だった。


 それでも訓練された時間が、私に職務を強制する。になった私がまずしたことは盗聴器のチェック。問題ない。我々が仕掛けたもの以外には一つもない。


 私は荷をほどき――といっても、歯ブラシと下着くらいしかない。あとは見せかけのクズ書類だ――鍵と一緒に渡された拳銃を取り出した。ベルギー製の38口径だ。タオルの上で細かな部品になるまで分解すると、それをホテルの窓から突き出して、街頭に投げ捨てた。

 明日の朝になる頃には、勤勉なる労働者諸君の手によって消えているだろう。


 それからバスタブを濡らさないようにして、シャワーを浴びた。持ってきたタオルで身体を拭いたあと、裸のままラジオのスイッチを入れた。

 ラジオでは労働者評議会の何某かが、ハンガリー語で労働者たちに停戦を呼びかけていた。私は隣から苦情の来ない程度にまで音量を上げる……が、すぐに思い直した。こんな状況だ。誰が文句を言う?


 私は目一杯つまみを回すと、裸でラジオを抱いたままバスタブに身を丸めた。


 ラジオの声がわんわんと反響している。

 つながっている、と思った。私は今、世界に犯されている。

 彼女と過ごしていた頃よりもずっと、世界は複雑になっていた。私はそれに呆れ、羨み、興味のないふりをすることしかできない。


 ずっと響いているラジオの切羽詰まった声。そんなもの聞きたくない。どこかへ行ってくれ。私はスパイではない。


 私はただのレオナルド・シェパードなんだ。

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