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「おかえりなさい。随分遅かったですね。何かトラブルでもあったんですか?」

「ただいま紫音!それがさぁ、トラブルもトラブル、前代未聞の大事件だよ!」

「前代未聞とはまた大袈裟な……。大方、途中で集中力でも切らして変な場所に着地してしまったのでしょう?荷物は無事なんでしょうね」

「う……、変なとこに着地しちゃったのは認めるけど、集中力を切らしたとかじゃないよ!荷物も大丈夫、なはず。とにかくまずは聞いて。ほら、お客さんだよ!」


その言葉で、切れ長の瞳が壁際の方に寄っていた晴に向けられた。急に話の中心が自分に向いた晴の背筋が反射的に伸びる。


「……おや、お客様とは珍しい。こんばんは、私は紫音と申します。よろしければお名前を伺っても?」

「あ、はい、私は春川晴と言います」

「ナリさんですか、素敵なお名前ですね」

「ありがとうございます。晴れると書いて“なり”って読むんですが、この名前は祖母が“人生に太陽のような明るい光が差し続けるように”って想いを込めて付けてくれたそうです。だからか昔から晴れ女なんです、私」

「なるほど、“晴れ”と縁のあるお名前ですか。……もしかしたらあなたは来るべくして来たのかもしれませんね。詳しくお話を伺いたいところですが、今夜はもう遅い。こちらへ来るまでにもう充分お疲れでしょうから、それはまた明日にしましょう」

「明日?」

「ええ、今夜はどうぞ私たちの家へお泊まりください。黄汰たちもそのつもりで連れてきたんでしょうから」

「あの、なんとなくついてきてしまいましたけど、いきなり泊めていただくのはご迷惑では。それに私、荷物も何もありませんし、もしうちからそう遠くなければ歩いて帰りますから」

「迷惑だなんてとんでもない。むしろ巻き込んだのはこちら側なのですからそう畏まらないでください。それに、晴さんのいらした場所とこちらは、ある意味では近いと言えるでしょうが、とても今から歩いていけるような場所ではありません。お帰りの際はご自宅まできちんとお送りしますから、今夜はせめてものお詫びと言ってはなんですが、我が家のお風呂で温まっていきませんか?」

「お風呂、ですか……?」

「ええ、手前味噌ではありますが、ゆったり寛げる広い造りとなっております。温泉旅行が趣味でして、いろいろと拘っていますから、ご満足頂けるかと思いますよ」


お風呂、というワードに思わず反応してしまう。

今日は朝から移動続きな上に、全くの想定外のトラブルにも遭ったばかりで、疲れを感じているのも確かだった。そして、優しいながらもどことなく圧が感じられる微笑みと魅力的な言葉に押されるようにして、迷っていた心が決まった。


「……お世話になります」



 * *



あれからすぐに、浴室と思われる扉の前まで案内された。タオルと着替えを手渡され「ごゆっくり」の言葉とともに扉が開けられた途端、晴の口から思わず感嘆の声が出た。


広々とした脱衣所兼洗面所には荷物を入れられる棚が置かれ、壁際には扇風機と硝子扉のレトロな冷蔵庫が並んでいる。

中には銭湯でお馴染みのイメージがある瓶のフルーツ牛乳を始め、住人の好みなのかバラエティに富んだ飲み物がラインナップされており、更にその隣には小さな冷凍庫もあって、こちらはアイスがびっしり詰まっていた。

それらを座って楽しめるようにだろう、座り心地の良さそうな籐椅子まである。

どこぞの温泉旅館さながらの設備を見て、先程の紫音の言葉が蘇った。


――温泉旅行が趣味でして、いろいろと拘っていますから、ご満足頂けるかと思いますよ。


「いや、これは普通に趣味の範囲越えてるでしょ……」


口ではそう言いながらも、晴の気持ちは高鳴っていた。まさかお風呂の方まで同じくらいの拘りを見せているのか。……いや、流石にそこまでは再現出来ないか。期待半分で覗いた浴室は、期待を裏切らないどころか大幅に上回っていた。


真っ先に感じたのは爽やかな檜の香り。ゆったりと手足を伸ばせる広さの檜風呂が存在感を放っている。

それだけでも充分贅沢なのに、浴室の奥に更に硝子扉があり、まさかと思いながらも開けてみると、そのまさかが。周りを背の高い植物で囲まれた石造りの露天風呂があった。


「すっごい……!」


今にもかぽーん、という効果音が聞こえてきそうだ。加えて辺りは一面満点の星空。こんな極上のロケーションを目の前にして入らない手はないだろう。

半ば夢見心地でお湯に浸かれば、緊張と疲れが一気に流れ出て行く気がする。


「今日一日、訳分かんない事ばっかだったけど、ここに来られたのはよかったかも……」


そうして晴は星空を独り占めしながら、心行くまでお風呂を満喫したのだった。

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