石油王の娘だけど、今から死のうと思う。#1

1.生きてたまるか!


 通学時間帯の西荒舞(にしあらぶ)駅は騒然としていた。


 利用客の多いこの時間に電車が遅延しているのだから当然だろう。ただしその理由は私の望んだ人身事故ではなかったし、少しの安全確認の後、意外なほど早く運転は再開されていた。


 あの時。私が床を蹴って宙に浮いていたあの時、電車の非常停止ボタンは既に押されていたようだった。どうも人が生き死にを真剣に決意している間に、線路に野良猫が迷い込んでいたらしい。私のところには風圧だけが残り、物理的な衝撃はついにこなかった。そして異変を察知したユキさんが背後からすっ飛んできて、線路に着地していた私はあっさりとホームへ引き上げられたのだった。それからは、五体満足な身体をホームのベンチに預けて呆然としている。


 ――死ねなかった。


 一世一代の自殺が失敗に終わった事は、少なからずショックだった。既にこの世を去っている予定だった時間。自分が今ここにいる事が腹立たしい。


 なんで。なぜまだ生きてる。何が起きたのかは周りの様子から理解できたが、ひとつも納得はできなかった。仮にも命ひとつ懸けて下した決断が、まるごと台無しにされるなんて。目の奥があつくなる。スカートの端を両手で握り締める。なんで。どうして。なんで。腹の中で熱を持った疑問がグルグルと廻る。


 私の気も知らないで、目の前では人々の日常が平然と営まれてやがる。遅刻しちゃうと笑う女子高生、会社に電話するサラリーマン、無邪気にバナナなんか食ってる子供と、その親。彼らの一挙手一投足から滲み出る無配慮な平和は毒素のように私を蝕み、傷つける。


 私の知らないとこで勝手に私の加護を受けて能天気にヘラヘラしてる、他力本願な愚民どもめ。今すぐ全員うんこでも漏らしちまえ。人々に筋違いな暴言をぶつけてやりたい衝動が湧き起こるが、私はなんとか耐える。日に一回はこれに耐えている。


 そうして悶々とした怒りを抱えたまま呆然として、どれくらい経っただろうか。体感的には一時間くらい経ったような気もするが、実際のとこ二分くらいだったかもしれない。


 不意に目の前の景色が遮られた。人だ。どうやら距離が近い。ふわりと、髪の毛の良い匂いがした。女性である。小さな顔に力のある大きな目。長い睫毛、すうっと通った鼻筋に薄いくちびる。


 すっと静かに私の正面に現れたその女性はベンチに五体を投げ出す私よりも頭が低くなるように跪くと胸に手を当て、目を伏せて第一声を発した。


「恐れながら、お嬢様」


 清涼感のある声。彼女は頭を垂れたまま、


「貴女にもしもの事があれば、それは全て私(わたくし)の責任……。貴女を傷つけるものがあるのなら、それが何であれ、止めるのが私の義務なので御座います。どうか危険な事だけはなさりませぬ様……」


 そこまで言ってから、ちらと上目遣いに私の様子を窺う。私は答えない。数秒待って何のリアクションも得られない事を確認すると女性はかしこまった姿勢を解き、膝を払いながら立ち上がって頭を掻いた。


「あれ、ウケなかった?」


 そう言って首を傾げ、彼女は完全にいつもの砕けた雰囲気に戻った。私専属のお世話係で、ユキさんという。


「とにかく、佐知子ちゃん」


 彼女は小さく溜息をつくと、頬を膨らませて私の頭を小突いた。どこの主演女優かと見紛う美貌も、今は少し不満げに表情を曇らせている。


「別にどこで遊ぼうが学校サボろうが、お父様には黙っててあげるけどさあ……危ないことだけはしないで、っていつも言ってるでしょ」

「あー、うん」

「もう」


 私がぼやけた返事をすると、ユキさんは腕組みしつつ口を尖らせた。本当にこの人は何をしても画になる。だがこの細っそい腕は、実は男の人を軽く投げ飛ばせるだけの力を秘めているので油断ならない。


 石油王の娘であるところの私にお世話係としてつけられているユキさん。彼女の職務は家事から護衛まで幅広い。それをこなせるだけの能力が彼女にはあった。


 いわゆる「お嬢様」である私が自家用車による送り迎えを拒否して電車通学するのを許されているのは彼女という用心棒の存在が大きい。寄り道のない学生生活なんてのはクソですから、まあそれは大変ありがたいと思ってる。


 ユキさんは外ではつかず離れず、うまいこと空気を読んで私を尾行している。護衛といっても悪目立ちするようないかがわしい黒服は着ておらず、二十歳という年齢に相応の女子っぽい私服だ。今日はパステルカラーのワンピースに薄手のカーディガン。完膚無きまでにゆるふわだった。ロングヘアの茶髪からはいつもめちゃくちゃいい匂いがする。


 私を無闇に「神の子」扱いせず、それなりにフランクに接してくれるいい人で、尾行されてもまあ許せるかと思える貴重な人ではあるのだが……今日ばかりは困った。やっかいなところを見られてしまったものだ。


「私に言ってくれれば猫くらいすぐ助けたのに。ていうか佐知子ちゃん、そんなキャラだっけ?」


 さすがに鋭い。仮に迷い猫が危険に晒されていたとしても、普段の私ならばまず線路に降りるなんて事はしないだろう。私はまったくもって自己犠牲なんてものとは無縁の性格だ。突然線路に下りたのはだいぶ怪しく見えたかもしれない。


 とはいえユキさんも私の行動の真意にまでは、まだ至っていないようだった。私が身投げするほど思い詰めているなんて事は、もちろん誰にも言っていない。

 彼女は私のシュシュで纏めた後ろ髪を撫でながら、少しおどけた声で


「なあ佐知子、お前一人の身体じゃないんだ。お前に何かあったら俺たちの、この子の未来はどうなる? そこのところをよく考えて――」


 ここまで言ったところでまた私の反応を窺い、ツッコミが入らない事を確認すると、息を吐いて小芝居をやめた。よほど虫の居所が悪いと思われただろう。私は機嫌が悪いととにかく黙る傾向にある。

 ユキさんは黙って私の髪を撫で続けた。細長い指が優しく髪を掻く。呼吸音だけが私たちの間を行き来する。そのまま少し、時間が過ぎた。


「もう間に合わないよね? 学校」


 そうしてまた何分かが過ぎた頃。不意にユキさんが何かを思いついたように口を開いた。


「電車も遅れてるし。大幅に遅刻しちゃっても……しょうがないんじゃないかな」


 私は顔を上げた。ユキさんは羽毛のようなやわらかい微笑みを向けてくれている。


「だからさ、」


 目が合った。その笑みが、わずかに悪戯っぽいものに変わった。


「お昼、どっか美味しいものでも食べに行こうぜ」


 彼女はそう言って親指を駅の外に向け、軽くウインクした。ものすごい威力だった。銃で撃たれたらきっとこんな感じだろう。睫毛が一往復しただけとは思えない。何これビームか何か出てるの?

 私が特に断りもしないのを見て、ユキさんは大きく頷く。


「よし。反対意見はないようなので可決します。ちょっと待ってて。とりあえず何か、飲み物でも買ってくるから」


 そして気がついた時にはもう彼女は振り返り、ホーム端の自販機に向かって歩き始めていた。


 かなわないなあ、本当に。


 ついさっきまでこの場の全員の脱糞を願っていた私が、いつのまにか女子会ランチする事になっている。あっさり懐柔されかかっていた事に気がついて私は首を振った。


 ユキさんは極めて優秀な仕事人だ。どうすればこの面倒なお嬢様(笑)を扱えるのか、ほとんど全て把握している。


 説得する時は、ふざけて笑いを誘うのが効果的である事を知っている。拗ねていても、頭を触られると多少は落ち着く事を知っている。朝からヘソを曲げている時は、学校をサボりたくなっているのだという事も知っている。まだ出会って半年も経っていないのに、すべて知っている。


 おそらく何も言わなくても、今頃自販機で私の好きなアップルティーを買ってくれているのだろう。ホーム端の自販機にしか売っていないそれの為に、わざわざ売店をスルーして歩いてくれているのだろう。


 まったくとんだ万能人もいたものである。あの顔に加えて全身のシルエットは細く、胴はくびれて脚はスラリと長い。首から下は完全で、首から上は無欠。フェミニンな服装や艶やかな佇まいもあいまって、全身からハンパない華が漂っている。この女子力を悪用すれば人の百人や二百人くらいは簡単に殺せるのではないかと、私はひそかに思っていた。


 外見だけでもこうなのに、掃除も洗濯も料理もこなす上に格闘技の心得もあり、加えて聡明で寛大、ユーモアまであるのである。ちょっと引くくらいパーフェクトだ。


 あんまり不気味なほど完璧なので、その仮面をひっぱがしてやりたくなった私はここしばらく「ユキさんがうっかり本音を見せたら勝ち」というルールを心中に掲げている……のだけど。この人はゴキブリを見ても全く動じないくらいなので、案の定さっぱり勝てる見込みがなかった。


 本当にユキさんは、何で私のお世話係なんかしてるんだろう。今の仕事は本気でやってる……とは、確か以前言ってたけども。家事から護衛まで任され、その万能さを満遍なく発揮できるのが楽しいのだろうか。私にはよくわからない。まっとうに楽しく生きてる人の事なんか、わかるわけがない。


 ユキさんの持ってる物のひとつでも、私にあればいいのに。誰を見ても劣等感で惨めになるが彼女は格別だ。あの時電車がひと思いに轢き潰してくれてさえいれば、もう暗い事を考えずに済んだのに。


 ……ああ、やっぱりつらい。


 周りを見渡すと、変わらず平穏そのものの忌まわしき人々の姿が映った。彼らは笑い合いながらぞろぞろと動き、ホーム上に列を作っている。そしてアナウンスが響き、遅延はしているものの次の電車がホームに来る事を告げた。そこで私は気がついた。


 あれ? いけるじゃん。


 私は立ち上がった。線路まで2メートル。彼方から走行音。遠目にうっすらと電車の姿。来る。また電車が来る。


 自殺は一度きり、と誰が決めただろうか。


 私はまだ生きている。ならばまだ、できる事がある筈だ。そう……生きているという事は、死ぬ事ができる。


 一歩、前に出た。目を配る。猫は、線路にいない。どうやら問題ない。猫はきちんとホームにいた。二匹もいた。寄り添うように。

 あれ。増えてる。二匹は愛を囁きあうように、甘い声でにゃぁんと鳴いた。この短時間に、あのクソ猫までもが私の力で出会っちゃいますか。恋に、幸せに溺れやがりますか。ははは。


 コケにしやがって!


 心底ムカついた。何もかも許せなかった。身体の中に火が入ったのを感じる。胃の奥に生じた、熱を持った質量が私に命じた。行け、と。


 私は駆けた。轟音。電車は近い。これなら間に合う。目の前にはホームの谷間。右からは近づく車両の鉄色。そして視界左端に一瞬、パステルカラーの残像。遅れて風圧。背筋がゾクリと震える。


 抱えていたアップルティーを投げ捨てたユキさんがすぐそこまで来ていた。遠いホーム端の自販機にいたのにどういう身体能力だ。ちらりと見えたその顔は、眉を吊り上げた真剣そのものの形相だった。先刻のウインクとは似ても似つかない。


 彼女は飛ぶように駆け、私の背へ手を伸ばす。だが指先は空を切った。届かない。


 いける。私は線路へ飛び出すべく最後の一歩を踏む。ぐにゃりとした感触が足の裏から伝わる。人生最後の一歩で何か踏んだ。


 バナナの皮だった。


 ……は?


 さっきの愚民親子の、ガキの方が即座に頭をよぎった。まさか。ふざけんなよ。

 そうそう起こる事ではないだろう。だがそれを実際に起こしてしまうのが私の、神の子の、力だった。


 ここで事故が起きれば当然、運転手を始めとした周りの人々は幸せでなくなる。ひいては、私が死ぬ事自体が、人々の幸せを奪うという事なのかもしれない。だから子供は偶然ここでバナナを食べ、偶然皮を落とし、その皮は点字ブロックの黄色に紛れて、偶然待ち構えていたのだ。結果私は転び、線路に飛び込むのに失敗する。そこまでがこの力の用意した必然だとしたら。


 忌々しいバナナの皮はつるりと飛んでゆき、私は点字ブロックに鼻先を強烈に叩きつけられる。衝撃と激痛。目の前が真っ赤に明滅した。涙で視界が霞む。駄目なのか? 無理なのか? 世界は何をどうしても私の死を許さないつもりなのか。


 嫌だ!

 ここで終わる、もんか!


「うあああああああああ!」


 私は鼻血を撒き散らしながら起き上がった。自殺は二度までと誰が決めただろうか。胃の中でまだ熱塊が命じている。止まるな。止まったら終わりだ。死ぬのをやめたら、日常に還る事になるぞ。あの日常に。それは絶対に嫌なことだった。


 逃げるんだ。逃げ切ってこの世から消えてやる。生きてたまるか!

 ユキさんが再度手を伸ばす。あれに捕まるわけにはいかない。

 電車は私が転倒したために無事ホームに入り、ドアを開けていた。私はなりふり構わず車内へ転がり込んだ。そして間一髪ドアが閉まり、私とユキさんを隔てた。




「うっ……ひ、ッぐ……」


 電車の床に無様に座り込みながら、私は涙を流して痛みに耐える。出血は止まったが、強打した鼻から熱が引かない。

 周囲の乗客が私を避けて距離を取るのが見える。だが確かにどよめいている筈の彼らの声は、自分の心拍音が邪魔で入ってこなかった。


 呼吸が荒い。心も体も、まだこの非日常に対応してくれてはいないようだ。動き出した電車が未だ落ち着かない私の頭を揺らす。ドアが閉まる直前のユキさんの表情がフラッシュバックする。


 見た事の無い鬼気迫る表情だった。もはや私の意図は完全に伝わっただろう。それを思うと少し、胸が詰まった。仕事とはいえあれ程良くしてくれた人を裏切ってしまった事が自分でもショックで、涙が後から湧いてくる。


 なんて不徹底で弱くて、マヌケな姿だろう。死ぬというからには、今すぐにでも全てを捨て去るべきなのだ。例えばこの場で舌を噛み切って終わりにするべきなのだ。


 目を閉じて舌を出し、前歯を立ててみる。力を込める。一ミリ。二ミリ。ぞわりと、やわらかい感触が本能にまで届く。あまりの不気味さに気がつけば舌を引っ込めている自分がいた。汗がひとすじ垂れる。


 死への生理的恐怖に、人は簡単には逆らえない。

 つくづく自分は凡人だと痛感した。決意してなお、この程度。


 だが、確かに決意はしたのだ。

 私は死ぬ。今日死ぬ。絶対に。

 これは、決定、です。


 なぜならこれ以上生きていても仕方ない。詰んでいる。それだけは、実感として既にはっきりと分かっていた。世界は何ひとつ私のために動いてはくれない。ならば、自分で動かなければならないのだ。


 今まで何も自分の力でやり遂げた事のない私だけど、これだけは完遂してみせる。譲ってなるものか。


 涙を拭って顔を上げる。胃の中の熱量はまだ消えていない。

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