「烏丸通をずっと南へ連れてってよ」

 アイリッシュコーヒーがなくなる頃、彼女は僕にそう告げた。

「南へ?」

「そう。ずっとずっと南へ」

「どうして?」

「君が烏丸通が好きって言ってたから」

「まさかここから歩いて? いや、別にいいけど」

「違うよ、自転車だよ」

「自転車持ってたんだ」

「私は持ってないよ」

 彼女は澄ました顔で言う。少しだけ視線をずらしており、僕の顔を見まいとしているようだった。

 初めて二人でこのカフェバーを出た。彼女が先に階段を軽快な足取りで降りる。振り返らずに、一気に。

 店の前に自転車を停めていた。彼女はそのサドルをぽんぽんと叩きながら「これが君の自転車?」と尋ねてきたので、僕は頷いた。

「さあ、どうぞ」

 彼女に促され、僕は自転車にまたがる。すぐに自転車の後ろが急に重くなった。後ろを見ると、彼女が荷台にまたがっていた。

「違反だよ、それ」

「別にいいじゃん。飲酒運転よりマシでしょ? ってか一度やってみたかったの、青春の一ページ。私、自転車持ってないし、そもそも乗れないし」

「ってか横座りじゃないんだ」

「何? 横座りのほうがよかった?」

「一応女の子だし」

「何その偏見。そりゃ制服姿とかだったら横座りのほうが映えるだろうけど。第一、私そんな乙女ーって感じじゃないし、それに長距離乗るんだったらこっちのほうがいいでしょ」

 早く、と彼女に急かされる。はいはいと返事をし、僕は自転車を発進させた。二人乗りは久しぶりすぎて、最初の数メートルはバランスが取れなかった。

「下手くそ」

「うるさい。そもそも乗れないくせに」

 最初の交差点で烏丸通を横断する。後ろから彼女が「どうして渡るの?」と問いかけてきた。

「同志社の近くと、烏丸丸太町に交番があるじゃん。捕まりたくない――ってか怒られたくないでしょ?」

「怒られるのは君だよ。私は被害者を装うから」と彼女は鼻を鳴らした。

 スピードに乗れば二人乗りでも安定する。信号待ちなどで立ち止まり、走り出しは少しふらつくが、さほど問題でもない。後ろで彼女が「ほらほらしっかり」などと温かい言葉を投げかけてくるのが少しうっとうしかったが、別に気にするほどでもなかった。

 御池通から四条通までは人通りが多く、さすがに二人乗りで走ることは難しかった。自転車から降りて、映画の話をしながら並んで歩いた。彼女はだいぶ前に僕が「ゾンビ映画の最高峰だ」と薦めた『28日後…』を観たらしい。「あんなに詰め込めるものなんだね」と感心した様子で感想を語ってくれた。

 烏丸四条の交差点を過ぎると、人の数はだいぶ落ち着いてくる。

「乗る?」

 僕がそう尋ねると、彼女は首を振って僕のほうを見た。

「もう少し、歩こう。ゆっくり行こう」

「まだ南?」

「とりあえず烏丸通が分断されるところまで行きたい」

 南へ下るにつれて、彼女の口数が減っていく。何も話題がなくても話を振ってくる彼女らしくなかった。

 烏丸五条の交差点で信号待ちしているときに、会話がないことに嫌気がさしたのか、彼女は「自転車に乗せて」と言ってきた。僕が先に乗り、「どうぞ」と荷台を彼女に指し示す。今度は横座りだった。「ご希望にお答えして」と笑っている。「お気遣いどうも」と言い、走り始めるが、バランスが非常に取りづらかった。彼女も何か違うと思ったのか、信号を渡り終わったときに「やっぱりこっち」と荷台にまたがる形で乗り直した。

 会話はない。烏丸五条を過ぎると、すぐ右手に東本願寺――だと思う――が見えてきて、京都市民よりも観光客と思しき人の数が増える。横に広がっていても、こっちが避ける姿勢を見せなければ向こうから避けてくれるので僕はそのまま真っ直ぐ走った。

 肩に手が置かれる。背に体重を感じた。寄りかかってきたようだ、このタイミングで。押しのけるようなことはしなかった。

 観光客から見たら僕らはどう見えているのだろう。自分たちの世界にいきなり突っ込んできた二人乗りの若者。邪魔以外の何物でもないに違いなかった。

 烏丸七条まで来ると、観光客も京都市民も関係なくあふれ返る。一人ならまだしも二人乗りで歩道を走れるわけがない。おとなしく止まり、自転車を降りようとするも、彼女が僕に寄りかかっているので降りることができなかった。

「……どこまで行くの?」

「自転車、どこかに停めないと」

 僕が身体を動かして彼女のほうを向くと、彼女は顔を上げて僕を見て、力なく笑った。「ここで待ってるよ」と言って自転車から降りた。

 ヨドバシの駐輪場が近かった。停めてくる、と彼女に告げ、僕はわずかな距離を全力で漕ぐ。一階。最初の二時間は無料。空いているところに停め、ダッシュで彼女の許へ走った。

 ――いなくなってしまったりしないだろうか。

 そんな感じがしたからだ。

 彼女は交差点で、ぼうっと東のほうを眺めていた。僕はほっとして軽く深呼吸し息を整えてから、彼女へ駆け寄った。

「お嬢さん、今日はどちらへ?」

 そう呼びかけると彼女は「うーん」と口に指を当てて悩んでいる――ようなふりをした。そして「あっち」と京都駅のほうを指差した。

「行こ」

 彼女が僕の手を取る。指を絡めてくる。以前のように戸惑うこともなく、今度は抵抗なく彼女のその手を握り返した。

「どこに用があるの? 伊勢丹?」

「んー、もう少し南かな」

 ――もう少し南? イオンモールだろうか? イオンモールの映画館でまた映画鑑賞だろうか?

 そこでしかやっていない映画というのはそこそこある。今何をやっているのか、というのは把握していないが、その中の何かを観たいということだろうか? だとすると、別にヨドバシに自転車を停めなくても、イオンモールの駐輪場に停めればいいだけなのだが――

 結局どこに行くのかわからぬまま、残りわずかな――京都駅が終点の僕にとっては残りわずかな烏丸通を歩く。京都タワーを見上げながら、人ごみの中、歩車分離式の最後の交差点を渡る。

 音楽噴水が左手。右手にはD2バス乗り場――東大路通を上って京都大学へ行くための206系統のバスが出る乗り場。乗り場に長蛇の列を作る人たちを尻目に、僕と彼女は歩く。

 手をつないでいる分、僕は彼女を意識していた。人の視線は気になるが、駅前に溢れる人々は、当たり前だが誰も僕たちを見てなんかいない。

 京都駅烏丸口。テレビでよく見る『JR 京都駅』の文字列。

「こっち」

 彼女に誘導されて、エスカレーターで二階へ。視界に入ってくるのはミスドとあと何かしらのカフェ。真っ直ぐ進めば伊勢丹だが、彼女は伊勢丹には目もくれず左へ曲がった。

 二人で人を避けながら進む。心なしか、彼女の足取りがゆっくりになった気がした。

「ここまででいいよ」

 短いエスカレーターを降りた先で、彼女はそう言った。目の前にあるのは新幹線中央口だった。

「……ここ?」

「うん」

 彼女は手を離して僕に向き合った。

「ここで何するの?」

「何すると思う?」

 僕は新幹線口を見て、彼女を見て、振り返って近鉄京都駅の入り口を見て、そしてまた彼女を見た。彼女はいつもの穏やかな笑みを浮かべている。

「ねえ」

「何?」

「どうして二人で一つのアイリッシュコーヒーを飲んでたかわかる?」

「君がそうするのが好きだから?」

 彼女は首を振る。

「僕である理由はあった?」

「どうだろうね」

 どうだろうね、って。そう言おうとしたが、できなかった。

 喧騒が消える。世界が見えなくなる。

 気がついたら彼女の顔が目の前にあった。彼女は目を瞑っていた。

 それは唇を軽く押しつけるようなキスだった。

「わかった?」

 顔を離した彼女にそう言われても、僕は何が起こったのか一瞬わからず、答えることができなかった。

「二人で同じものを飲むと、互いにキスの味なんて気にならないでしょ?」

 彼女は再び僕にぐっと近づき、僕の手を取った。

「ま、ただのキスの時点で普通は味なんてあまり気にしないだろうけどね」

 僕の手に何かを握らせた。僕は無抵抗だった。

「女は上書き保存なのさ。今この瞬間、アイリッシュコーヒーは君と過ごした時間の味になったよ」

 彼女はゆっくりと僕から離れていった。僕が引き留める間もなく、新幹線中央口の改札に流れるように吸い込まれていった。

「――――」

 彼女が僕に向かって何かを叫んだ気がした。

 そこで視覚と聴覚を取り戻した。京都駅構内は人でごった返していて、無数の足音や話声で満たされている。

 僕は慌てて新幹線の改札に走り寄った。切符を持っていないので中に入ることができない。中を覗いてももう彼女の姿はどこにもない。

 僕は切符売り場に走る。握らされたものを見ると、折り曲げられた紙だった。中を確認している暇はない。ポケットに突っ込む。入場券を買う。

 改札前でもたもたしている旅行客を押しのけ、中へと乗り込んだ。彼女の姿を探すが、どこにもない。もうすでにホームに上がっているのか。電光掲示板を見ると、次の東京行ののぞみの発車がわずか一分後だった。

 あれに乗ったとしたら、もう彼女には――

 駆け込み乗車をしようとする乗客と共にエスカレーターを駆け上がる。

 発車の合図が響く。ホームを見回すが、彼女らしき姿は見当たらない。

 こんなピンポイントの時間で指定席を取っているわけがない。自由席のほうに違いない。僕は前の車両へ向けてホームを走った。

 窓から中を確認しながら走るが、彼女の姿は見当たらない。

 自由席の車両に辿り着く前に新幹線のドアが閉まり、ホームドアが閉まった。新幹線が動き出し、すぐに僕の走る速さを凌駕し、駅から離れていく。僕はゆるりと走るのをやめた。

 あの新幹線に彼女は乗っていないかもしれない。僕はホームを端から端まで彼女を探して歩いた。大阪方面に乗ったかもしれない。ホームを移って同じようにうろうろと彷徨った。

 やはり彼女はどこにもいなかった。

 東京へ向かう次ののぞみを見ながら、ホームを歩く。たとえば映画なら後姿が彼女に似た人を見つけたりして、「すみません人違いでした」などという茶番劇もあっただろう。それすらもなかった。彼女は僕の前から完全に消え去ってしまった。面影一つ残すことなく。

 なぜ新幹線なんだ。実家に帰るにしても、大阪へ新幹線で帰ることなどあるだろうか。わずか一駅を。

 ――彼女はどこへ行ったんだ?

 僕はホームのベンチに座り、新たに東京へ向けて走り去っていくN700系を見送った。

 そういえば、彼女が最後に僕に渡したもの――あの紙切れは何だったのだろうか。ポケットを探り、目的の物を取り出す。四つ折りの紙。それを丁寧に開くと、そこには人の名前が書かれていた。名前だけで判断するなら、女性と思しき人の名前が。

 彼女の名前だろうか? これを今さら渡されてどうしろと?

 連絡先も何も知らない。今どこにいるのかもわからなくなってしまった。名前だけ知っていたところで――

 ふと、その名前を検索エンジンにかけてみた。トップに出てきたのは、ツイッターアカウントだった。そしてフェイスブックアカウント。画面をスクロールしていくと、一つの劇団がヒットした。そのページへ飛んでみると、一昨年の日付の公演の紹介があり、主演の場所にその名前があった。

 公演のキービジュアルに映っていたのは、僕の知る彼女の姿だった。

 劇団のトップページへ飛ぶ。劇団員紹介のページへ。そのページに彼女の名前はなかった。

 検索結果一覧へ戻り、ツイッターアカウントのページへ飛ぶ。最後のツイートは昨年の四月のものだった。何ツイートかかけて、劇団をやめたこと、応援してくれていた人への謝罪等がつづられていた。最新のツイートには『私は少し休憩します』と記されていた。

 画面をスクロールする。劇団をやめる直前の一か月間は完全な空白期間だったが、その下には日々の稽古の様子が毎日こまめにつづられていた。

 フェイスブックのほうも確認してみると、写真つきでより詳細な彼女の過ごした日々を知ることができた。公演初主演が決まった際の喜びの記事まで遡ってから、僕はたまらずページを戻った。

 ――彼女があの映画の主人公だったのだ。

 タイトルなんてあるわけなかった。

 もう一度ツイッターを開いてみると、ツイートが一つだけ増えていた。

『お久しぶりです。一年間のんびりと考えた結果、やっぱりもう少しだけ頑張ってみようと、東京で夢に再挑戦してみようと思います。ゼロからのスタートになってしまいますが、こんな私でも、まだ応援してくださる方がいらっしゃるのなら……』

 どうやら彼女が物語の主人公で、僕は彼女という物語に登場する端役にすぎなかったらしい。

 やはり主人公ではなかった僕は、また何も得ることができなかったのだ。僕が足踏みをしていたせいで、僕が歩み寄るのが遅かったせいで。

 いや、それでよかったのかもしれない。彼女は主人公として歩み出した。彼女がどのような人生を送ってきたのか、彼女の口から語られたわずかな情報では何もわからない。しかし、自分で夢に立ち向かっていこうと決めたのなら、それは喜んでやるべきことなのだ。物語の一登場人物として。

 ただ、どうしても考えてしまう。考えずにはいられない。もしも、もしも僕がもう少し早く歩み寄っていれば――

 そもそもなぜ彼女は僕を選んだのだろうか。

 いったい僕に何を感じたのだろうか。

 二人で一つのアイリッシュコーヒー。上書き保存。

 ――僕は、本当に彼女の特別になれたのだろうか?

 彼女の姿を思い浮かべていると、頬が濡れていく感覚があった。

 親指で目尻にわずかに溜まった涙を拭う。人前で泣くのは、好きじゃない。

 僕は紙を握りしめ、スマホをポケットに仕舞い、立ち上がった。ここには僕しかいない。僕しかいない場所にすでに用はなかった。

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