アルコールの匂いと味がいまだに鼻と口に染みついている。例の恋人がやたらと酒が好きだったからだ。と言っても、僕の部屋で飲むのではなく、どこかで誰かと飲んで帰ってくることが多かった。実家を本格的に出るための資金を貯めるために、僕との半同棲が始まってから居酒屋でもバイトを始めたと言っていたから、そのつながりで、だろう。僕はそれほど酒に執着がなかったから基本的に素面で、対するあいつは大抵酔っていて。部屋に戻ってくるとシャワーも浴びずにすぐにベッドに入り込んでくるから、あいつの身体からは色々な料理の匂いが入り混じった匂いがして。そしてそのキスはいつもアルコール臭かった。

 そんなことを思い返したところで、あの時間が帰ってくるわけでもない。

 何気ない一言で僕にそのことを思い出させてくれた彼女に恨みつらみでも言いたかったが、結局言えずじまいだった。


 年明け、四回ほど例のカフェバーで彼女と会った。心のどこかで彼女が僕の前から消えることも覚悟して胸の内を少しだけ打ち明けたのだが、何も変わらなかった。彼女も、僕の置かれた状況も。それがどういう意味を持つのか、僕はずっと考えていた。

 四回会って、それからしばらく彼女は僕の前に姿を現さなかった。最後に会ったとき、「次は水曜日ね」とだけ言い、「来週の水曜日ね」とは言わなかった。僕は毎週水曜日に烏丸通まで通ったが、アイリッシュコーヒーを飲むことはなかった。

 何も変わらなかった彼女が僕の前から何も言わずに突如として姿を消すことなどありえない、と僕は勝手にそう考えていた。考えていたから、あしげくカフェバーに通った。

 いつ僕の前に現れるかわからない彼女を待ちながら、僕は前のように店で一番安いショートブラックで時間を潰した。潰しながら、自分でも何を書いているのかわからないノートを広げ、ぼんやりと彼女のことを思い浮かべていた。

 彼女が僕の前に再び姿を現したのは、三月に入って最初の週の水曜日だった。

「就活する学年だったっけ?」

 彼女は開口一番にそう言った。頷いて返事をすると、「就活してる?」とさらに尋ねてきた。今度は首を振った。

 今日もまた僕と彼女の間にあるのは一杯のアイリッシュコーヒーだった。出会った当初から、変わらない要素の一つだった。

「駄目だよ、就活しなきゃ」

「僕は、別に。まだモラトリアムでありたいってのが本音だし。院には行かないけど」

「留年するの?」

「うちの大学だったらそっちのほうが箔がついてるように見えない?」

 僕がそう言うと、彼女は、ははっと声を上げて笑った。

「まあ、私も人のことは言えないんだけどね」

「君はどうなのさ」

「あ、女の子に年齢を尋ねるなんてデリカシーのない男は嫌われるぞ?」

「いや、就活云々の話なんだけど。同いくらいってのはわかってるけど、君が何回生なのかも、僕、知らないし」

「知りたい?」

「まさかこの一ヶ月、就活してたとか。僕に抜け駆けで」

「好きなように生きたい私が就活なんてすると思う?」

「君に会うのに、こんなに間が空いたことないから」

「私のことは気にしないでくれたまえ」

「僕のことは?」

「……気になるね」

「それは虫がよすぎる」

「そう?」と彼女は微笑む。アイリッシュコーヒーを一口飲む。唇についたクリームを舌で舐め取る。

「初めて会ったときさ」

 僕がそう切り出すと、彼女の眉がぴくりと動いた。僕が何を言うと思っているのだろうか。

「『フットルース』の話をしたよね?」

「うん」

「あれとは少し違うかもしれないけど――たぶん僕も本質的には似たようなものなんだ。どれだけ口で色々言おうと、将来を語ろうと、結局、本当のところは先のことなんて何も考えてない。今やりたいことをやる。今が楽しければそれでいい――」

 だから、大学に入ってからはそれまでよりもさらに深く、より深く創作物の世界に逃げ込んできた。フィクションは絶対に僕を裏切らないから。僕から逃げないから。そこから動かないから。

「今一番やりたいことは何?」

「今一番楽しいことだよ」

「じゃあ」と言いながら、彼女は僕の前へアイリッシュコーヒーを押しやる。

「私と過ごすのは楽しい?」

 それは――

 僕は一瞬間を空けてから、ガラスのカップに手をかけた。

 ――察してくれないか。

 曲名のわからないハウス・ミュージックが僕と彼女を包む。店内には、僕ら以外に客の姿はない。静かにカップのホットカクテルが少しずつ減っていく。

「春だね」

 アイリッシュコーヒーが半分ほどになったとき、彼女がぽつりとそう呟いた。

「そろそろ君の大学の近くは桜が咲き乱れるんだろうね」

「別にうちの大学の近くじゃなくても、京都はそこら中で咲き乱れるじゃないか。鴨川沿いとか」

「君の好きな烏丸通はそうでもなくない?」

「京都駅の近くまで行けばたぶん見れた気がするけど」

「ふうん」

 彼女は外を眺める。ここから見える範囲に桜の木はないし、そもそもまだ桜が咲く季節はもう少し先だった。

「桜が咲いたらさ」

 外を向く彼女に呼びかける。彼女は肘をついたまま僕のほうを向いた。

「一緒に見に行かない? 哲学の道あたりとか。僕、実はまだ桜が咲く時期に桜を目的として一回も出歩いたことなくてさ。その、なんていうか」

 彼女は目を丸くした。予想だにしない言葉を聞いたとでも言いたげに。

 前回、彼女と外で会ったのは四ヶ月も前のことである。そしてそれは彼女からの誘いだった。だから今度は――

「――僕から誘う形になるけど」

「それは――」

 彼女が口を開く。

「それは?」

「――君なりの告白?」

「告白だって?」

「愛の?」

「え、こんなのが?」

「だって君は――」

 そこで彼女は口をつぐんだ。少し寂しそうな表情を浮かべた。そして息をゆっくりと吐きながら目を瞑って首を振った。

「……それが運命ならば、早いも遅いもない」

 彼女がぽつりとそう呟いた。

「……何かの映画の台詞?」

「何の映画だと思う?」

 そんな台詞聞いたことがあっただろうか。そもそもそんな台詞が出てくる映画を僕は観ているだろうか?

 いつもの癖で下唇を噛みながら考えていると、彼女は急に噴き出した。

「こんな台詞ないよ。今、私がこの場で適当に考えたやつだから」

「はあ?」

「それっぽいでしょ?」

「それっぽいけど――」

「ふと思いついたからさ。でもなんで私こんなこと言ったんだろ」

 なんでって、そりゃあ――

 僕の胸にはもはや懐かしいと思える感覚が蘇っていた。とうの昔に捨てたと思っていた、あの感覚。唇が渇いて、鼓動は早くなる。

 自分から一歩踏み出そうとするときに、ギアが噛み合うあの感覚。

「僕の話ばかりで悪いんだけど」

 そこまで言って、唇を噛んだ。口にしたから――一度アクセルを踏んだからには、もう後戻りはできない。

 彼女としばらく会わない間にずっと――

「――実は、考えていたことがあるんだ」

「考えていたこと?」

 僕は頷いた。

「君と同じで、僕も映画が好きだよ。でも僕は映像の勉強をしてきたわけじゃないから、一消費者でしかないから、僕に映画を撮ることはできないし、そもそも作ることもできない。でも設定とか物語を考えるのは好きだ。これを具現化するには、僕の力量だと、そうだね、小説しかないんだけどさ。その、僕程度の才能だったらいつになるかわからないけど、いつか――いつか、小説家になって、いつの日か売れる小説家になって、映画化してもらえるようなベストセラー作家になって、それで」

 彼女は何も言わず、ただじっと僕の言葉を聞いている。

「それで、君が主役のものを書くよ」

 僕は大きく息を吸う。

「君の夢を、僕が叶えてあげる。だから――」

 だから。だから。だから――

 言えない。言葉が出てこなかった。

 何と言えばいいんだ? 僕は今までこういう場で何と言ってきた?

 静寂。沈黙。自分自身の呼吸の音だけが聞こえる。

 だが情けなくも、先に沈黙を破ったのは彼女のほうだった。

「五十九点」

「えっ?」

「五十九点」

「百点満点?」

「もちろん」

「だいぶ点数上がったね」

「でも六十点に届いてないからね。最後まで言えてたら単位を上げてたよ」

「……最後まで言ったら何の単位がもらえるの?」

「君の願い事を聞く単位」

「何それ」

「欲しくないのかい? それじゃ留年しちゃうよ? あ、留年したいのか」

 彼女が笑う。僕もそれにつられて笑ってしまう。笑ったついでに、「じゃあ」と彼女に言った。

「単位欲しいから最後まで言うよ」

「えっ?」

 彼女は再度目を丸くした。まさか僕がそれを言うと思ってなかったとでもいうように。まだ心の準備ができていない、とでもいうように。

「名前教えてよ」

 僕はただそれだけ言った。

 そうだ。僕はまだ、彼女の名前すら知らないのだ。

 ――いや、最初想定していた言葉ではなかったが。彼女が空気を破壊してくれたおかげで、自分の中でハードルが下がった。ハードルが下がったからこそ、それだけでも言うことができた。もう一度だけ、自分から歩み寄ってみようとした結果だった。

「うーん、また今度ね」

 彼女は少し考えるようなそぶりを見せてから、そう言った。

「あれ? 単位落とした――ってか振られた感じ?」

「いや、単位はあげるよ」

 彼女は一口飲んだアイリッシュコーヒーを、テーブルの上に置かず、そのまま手渡しで僕に渡してきた。そうやって渡されたのは初めてだった。

「桜、君と見に行きたいけど、それよりも行きたい場所があるの」

「行きたい場所? どこ?」

「来週、ちょうど一週間後、ここに来てくれたら教えてあげる」

 彼女は伝票を持って立ち上がる。そのまま会計に行こうとしたときに、「あ」と声を出し、僕へ向かって指を振ってきた。

「自転車で来てよね」

「なんで?」

「いいから」

 彼女は微笑んで、会計を済ませて店を出ていった。

 そういえば、結局、今まで僕はただの一度もアイリッシュコーヒー代を払ったことがなかった。

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