本格的な冬が訪れ、気がつけば一年が終わろうとしている。しかし僕には年の瀬の実感はなかった。

 やっていることが何も変わらなかったからだ。

 僕の目の前には、一杯のアイリッシュコーヒー。そしていつもと変わらぬ彼女の姿。伸ばしているのか、出会ったころよりも髪は長くなっている。

「アイリッシュコーヒーはこういう寒い日に飲むに限るね」

 彼女は言う。たしかにウイスキーとコーヒーのホットカクテルは十二月の寒い日にぴったりの飲み物だ。

「ウイスキーが入ってるからね」

「そうなんだよね。私はウイスキーが飲めないからこうやってコーヒーを淹れることで飲めるようになるんだ」

「それは一ヶ月くらい前に聞いたし、もっと前にも聞いた」

「ああ、そうだっけ?」

 彼女はふふっと笑う。そしてアイリッシュコーヒーを一口飲んでから「ところで」と僕の目を見て言ってきた。

「クリスマスには何か予定があったのかい?」

「クリスマス? 特には。部屋で論文読んでたよ」

「悲しいクリスマスだね」

「うるさいな。単位のために必要なことだからやってたんだよ。クリスマスは何も特別な日じゃない。いつも通りのことをいつも通りやるだけだ」

「じゃあ私が予定を入れてあげてもよかったわけだね。惜しいことをした」

「知ってたくせに」

 僕は窓の外を見た。雪がちらついているが、積もるほどの勢いではない。

「そういう君は、クリスマスに何してたのさ」

「それはどうして知りたいの?」

「……君だけ訊いてきて不公平だから」

「ふうん」

 彼女は考え込むように唇に指を当てる。少し間が空いたあと、その指をそのまま僕へ向けてきた。

「君が何してるのかなー、って考えてたかな」

「それ、本当だとしたら、たぶん一番無駄な時間の使い方だと思う」

「そう? 私は有意義だったけど」

「じゃあ僕は何をしてると思ってた?」

「ケーキ食べたりしてるのかなーって思ってた」

「なんでケーキ?」

「君はそういう感じのイベントごととか、大事にしそうな人だと思ったから」

 彼女は「違う?」と言いながら首を傾げてきた。僕は「そうかもしれない」と小さな声で答えた。

「でもさ、今年はそうじゃなかったけど、去年とか一昨年はそうだったでしょ?」

 彼女は問うてくる。僕は答えない。目の前に差し出されていたアイリッシュコーヒーを一口含んで無理矢理口を閉じた。

「――女は上書き保存、男はフォルダ保存って言うじゃない?」

 僕が何も言う気がないのを悟ってか、彼女は唐突にそう切り出してきた。

「いや、よく聞く話だし、実際そういうことが多いと思うんだけどさ。男は引きずるし、女は即行で切り替えていく。別にこれでどっちがどうこうってわけじゃないんだけど、この男のフォルダ保存ってので思うことがあってさ」

 彼女は一呼吸置く。僕の反応をうかがっているようだった。僕は相槌も打たず、ただ彼女の次の言葉を待った。

「男ってさ、彼女の前の彼氏の話は頑なに聞きたがらないのに、自分の前の彼女の話は嬉々として話さない? その、なんていうか、わがままだなあ、って」

「ごめん」

 僕は反射的に謝ってしまった。ほぼ無意識だった。

「どうして君が謝るのさ」

 彼女は鼻で笑った。

「男を代表して謝っておこうと思って」

「違うよ。君が謝る必要なんてなくて、むしろ逆だよ」

「逆?」

「君は自分の話をしなさすぎる」

「――そう?」

「いや、わかってるよ。こちらからきちんと尋ねれば――根気よく尋ねれば、おそらく君は答えてくれる。完全に閉じているわけではないんだ。でも、君は、こうやってそこそこ長い時間一緒にすごしているのに、自分から自分の話をしようとしてこないよね。自己顕示欲が感じられないっていうか、その、なんていうか」

 なんていうかだ。彼女は小さな声でそう言う。

 下唇を噛む。何となく、この話を終わらせたかった。

 話題変えない? そうだ、いつもの映画の話をしよう。最近何を見た? そういえばクリスマスと言えば、サタンクロースっていうB級ホラー映画があってね、これがまた――

「私の身体目的じゃないでしょう?」

 唐突な彼女の切り出しに、僕はわずかに口に含んでいたアイリッシュコーヒーで思いっきりむせてしまった。

「親の目を離れた大学生のカップルなんてそんなもんでしょう? カップルじゃなくてもそう。男と女が出会えば、誰だってやることやってるのさ。でも君からはそういうの、ってかそれ以前に、そもそも他人への興味すら感じない。……ひょっとしたら私に魅力がないだけかもしれないけどね」

「僕は――」

 僕は? 僕は言葉に詰まってしまう。次の言葉を考える。

「――僕のことはどうでもいいんだ」

 僕自身も。そう言うしかなかった。

「君だって同じだよ――僕も君のことを何も知らない」

 僕の話題から話をそらすためか、口が勝手にそう言った。

「――アイリッシュコーヒーをこうやって飲む理由。アイリッシュコーヒーを飲むことが目的なのか、それとも手段なのか。僕にはいまだに――」

 そもそも教えてもらっていないのだ。わかるわけがない。

 ――こうやってアイリッシュコーヒーを飲むことに何の意味がある?

 彼女は答えない。僕もそれ以上言葉が出ない。沈黙が訪れる。

「――全然関係ない話していい?」

 どれくらい経っただろうか。彼女はそう言ってから、仕切り直しだとでも言うように、一口アイリッシュコーヒーを飲んだ。

「キスをするときってさ、実はにんにくよりもニラのほうが臭いがきつくて大変らしいね」

 本当に全然関係のない話だった。彼女の意図が読めなかった。いや、ただ単純にアイリッシュコーヒーの話をしたくなかっただけなのだろう。

「……ごめん、さすがに全然関係なさすぎたね。空気変えようと思っただけなんだけど」

 僕の表情を見てか、彼女は申し訳なさそうに首を振り、僕にアイリッシュコーヒーを差し出してくる。僕が手をつけないでいると、彼女は肘をついて窓のほうを向いた。

「映画の話しよっか。いつものように。君は邦画は観ないんだよね?」

 僕は頷かなかったが、彼女は僕を見ずに言葉を続けた。

「昔さ、こんな映画を観たんだよね。主人公が劇団員の女の人の映画。映画の主演――いや、主人公になることが夢の女の人。こんな映画観たことある?」

 彼女の問いかけに、僕は静かに首を振る。彼女の言った漠然とした情報だけでは、何もわからなかった。

「その主人公、中高で地元の劇団に所属してて、その頃から将来を期待されてて。でも高校卒業のときに『普通の道を歩め』って親から強制的に劇団をやめさせられて、大学に入って。でも結局親に反発して大学をやめて、夢を追いかけて家を飛び出して、昔のコネを使ってある劇団に入るの。元々才能があった彼女は、すぐに劇団で主役級の役を任されるようになるんだ。でもそれでずっとその劇団の中心にいた女の反感を買っちゃって、陰湿ないじめが始まっちゃって。それである日、その女の罠にはまって、劇団をやめざるをえなくなって。さらに追い打ちをかけるように、そのとき同棲していた彼氏にも突然振られて、家を追い出されて、行く場所――帰る場所がなくなっちゃうの」

「それで終わり?」

「ううん。これは劇中の回想で語られる主人公の境遇。こんな感じで宛てがなくなった主人公が、誰も自分のことを知らない街へ流れ着くところから物語が始まるの」

 彼女はそこで一度言葉を区切った。頬杖を解き、ゆっくりと僕のほうを向く。僕と目が合う。

「どう思う?」

「どう思うって?」

「この女主人公。この話を聞いてさ」

「どう思うって――夢が映画の主人公になることなんでしょ? それだったら、まだスタートラインにすら立てていないよね。その程度で逃げ出すなら、その主人公はそこまでだった――ってかそもそも主人公の器じゃない。いや、それどころか主人公ですらないよね」

 ふうん、と彼女は言い、僕の前からガラスのカップを引き寄せ、一口飲んだ。

「じゃあさ、どうなってほしい?」

 彼女は僕を見つめている。

「――どうなってほしい?」

「そう。その先の展開とか関係なく、君はこの主人公にどうなってほしいって思う?」

「そりゃあ――」

 ――どうなってほしいか。

「――映画だったら、最後に待ち受けるのはサクセスだ。主人公は絶対に逃げない。夢に再挑戦する。たとえどんな壁にぶち当たっても、挫折を経験しても、必ずそれを乗り越えていく。そして最後はスターになる。大勢の観衆の前で輝く主人公。エンドロール」

 僕がそう一気にまくし立て。それを聞いていた彼女は無表情だった。僕は眉をひそめる。

 違う、そうじゃない。これはメタ視点でどうなるか、だ。どうなってほしいかではない。どうなってほしいかと言われたら――

「――逃げてほしくない。立ち向かってほしい。夢を叶えて幸せになってほしいかな。僕がもしもその映画の中で主人公を知る人物ならね」

 僕がそう言っている最中に、その無表情の彼女の目から涙が零れ落ち、頬を伝っていくのが見てとれた。

「……どうしたの?」

「ううん、いや、ごめん。その映画を思い出したら涙が出てきてさ」

 彼女は軽く微笑み、手の平でその涙をぬぐった。

「思い出して泣くほどの映画って――そのあと、実際どうなるの?」

「それは自分の目で確かめてよ。私はネタバレしないタイプの人間なのさ」

「タイトルがわからない」

「ネットがあるじゃんネット世代。だいたい私も覚えてないよ。大昔、テレビつけたらやってた映画を何となく観ただけだから」

 それで覚えてるんだからすごい映画だったんだよね、と。

 彼女は言い、カップに残っているアイリッシュコーヒーを半分ほど飲んだ。それをまた僕の前に押しやった。

「前さ、映画の主人公になりたいって言ったよね」

「……言ったっけ?」

 彼女はわざとらしく首を傾げてくる。僕は「言ったよ」と返す。

「映画の主人公になりたいって、いや、意味合いは違うだろうけど、その映画の影響?」

「うーん、対外的には『ニュー・シネマ・パラダイス』の影響だって言ってるけど、ひょっとしたらそうかもね」

「あれは映画監督じゃん」

「そうなんだよ」

 彼女は口に手を当て、笑った。今度のは嘘偽りない、取り繕っていない、彼女自身の笑みのように思えた。

 僕は差し出されたアイリッシュコーヒーの残りを、一気に飲んだ。底に溜まっていた砂糖の甘さが口内を覆い尽くしていく。

「……映画の登場人物になりたいか、って僕に訊いたよね」

「うん」

「あのとき、僕は『ある』って言ったと思うけど、本当は少し意味合いが違うんだ」

「……どういうこと?」

「なりたいとか、そういうのじゃなく、僕は自分がそういうものの主人公だと思って生きてきたんだよ」

「君が?」

 彼女の眉がぴくりと動く。

「欲しいものは全部手に入れてきたつもりだった。どんな困難にぶち当たっても、それを乗り越えてきたつもりだった。小中田舎の公立校から行きたい高校に入って、部活でもそこそこの成績を残して、浪人したけど行きたい大学に入って。ずっと周囲から『あらゆる面で才能はないけど努力で伸し上がってきた人間』って評価だったけど、それをある種の誇りに思ってた。才能がないならないで、それで何でも思い通りになるなら僕は主人公なんだ、って」

「……誰でもできることじゃないと思うけど。君がどういう人生を歩んできたのかわからないけどさ、その、思ったことをそのまま実現するなんて。ほとんどの人間が自分の力量を察して逃げていくのに」

「別に慰めはいらないよ。言い方を変えようか? 大学合格までは確実に僕は主人公だった。これは確信を持って言いたいんだ」

 僕は彼女の反応をうかがった。彼女は僕が間を置いても何も言わなかった。なんだか悲しそうな目をしている気がしたが、それは僕が勝手にそう思っただけかもしれない。

「笑いたければ笑えばいいと思うよ。こんなことを考えて生きている人間なんて、笑われて当然だよ。リアルとフィクションは違うのに」

「いや……笑えないよ」

 彼女は目を瞑り、首を振る。唇が渇くのを感じ、僕は彼女が目を閉じている間に舌で潤わそうとした。

「……君は主人公じゃなかったの?」

「さあね。でも大学入学までは主人公だと思ってて、それならこの先の人生も最高のものが待っているんじゃないか、ってのは考えていたよ。でも違った。主人公だった僕の目標はあくまでも志望していた今の大学に入ること。その先の目標なんて何もなかった。その結果が今の僕だ。僕という物語は大学に入った時点で終わってしまったんだ」

「どうしてそう思うの?」

 僕はつい先ほどまでアイリッシュコーヒーが入っていたカップを手に取った。傾けてみても、わずかにコーヒーの残骸が動くだけだ。

「大学に入ってから、思い通りになったことなんて一度もない」

「大学生活は楽しくない?」

 彼女の問いに、僕は沈黙で答えた。否定も肯定もできない問いかけだったので、否定も肯定もしなかった。

 沈黙。耳に入ってくるのは、曲名のわからないいつものハウス・ミュージックだった。

「……離れていくんだ」

 僕はそう口にした。

「離れていく?」

 彼女は僕の目をじっと見ている。僕は意味もなく首を振った。

「向こうから寄ってきてくれると、その距離はぐっと近くなる。でも逆に僕から近づこうとすると、どうしてだか、まるでそれを――僕を避けるかのように遠く遠く、僕の手の届かないところへ離れていく、向こうがこっちに来たから僕もそっちへ行こうとすると、気がついたら目の前からいなくなっている。目標がなくなってから、主人公じゃなくなってから、ずっとそうなんだ。友人だってそう。恋人だってそう。何度試しても結果は同じだった。何も得ることができない。それなのに、手に入れてすらないのに、遠く離れていったときの喪失感だけは一丁前にあるんだ。だから僕は――」

 大きく息を吐く。彼女の表情は変わらない。

「――もう、自分から動きたくないんだ」

 それはどんな逆境に立たされても結局は何も失わずに、今までずっと満たされて生きてきたがゆえの主張であって、わがままなことは自分でもわかっていた。今まで知らなかったことを体感しただけなのだ。それでも、僕は言わずにはいられなかった。

 名も知らない、彼女に向かって。

「どうするのが正解だったって言うんだ」

 答えは求めていなかった。期待してもなかった。実際、彼女はこの僕の問いに答えることはなかった。ただ僕の目の前から空のカップを手に取り、底に溜まっていたコーヒーの残滓を軽くすすった。

 私ね、と彼女はぽつりと、小さな声で言った。

「……最後のキスがさ、アイリッシュコーヒーの味がしたんだよね」

 彼女はそう言い、カップを置いた。その目は僕を見ていなかった。

 彼女はそれ以上何も言わなかった。

 僕も何も言わない。

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