彼女は平日を指定した。平日の十三時、同志社大学。烏丸通沿いの西門は人で溢れ返っていた。おそらく全員が同志社大生。その中にぽつんと僕が一人。妙な気持ち悪さがあった。無論、彼らは僕が他大の学生だとは知らないのだから、その気持ち悪さはおそらく僕だけのものだった。

 僕はぼんやりとキャンパス内を見ていた。

 秋も深まり、だいぶ肌寒くなってきている。彼女と出会ったときはまだ夏の暑さが残っていた。そういえば最近、アイリッシュコーヒーが以前よりも美味しく感じてきた気がする。

 何をするでもなく同志社の中を見ていると、彼女がキャンパスの奥から歩いてきた。視界が捉えた瞬間、それは彼女だと認識したのだが――

 襟つきニットにフレアスカート姿の彼女は男と並んで歩いていた。笑いながら。楽しげに。心なしか、僕と過ごしているときよりも楽しげに見える。

言いようのない感覚が僕を襲ってきた。

 ――そんなに僕は彼女を意識していたのか? 

 彼女はそこそこ離れた場所から僕に気づいたようだ。隣の男性に手を振って別れ、僕のほうへと小走りで向かってきた。

「ごめんね、また待たせちゃったよ」

 彼女は身長が高い。互いに立った状態で顔を合わせるのは今回が初めてじゃなかろうか。おそらく一七〇センチ前後。百八〇近くある僕より若干低い目線。

「……昨日の夜からずっとここで待ってたよ」

「あれ? もしかして機嫌悪い?」

 彼女は少しかがんで僕の顔を覗き込んでくる。僕は「別に」と答えた。

 機嫌が悪くなると目つきが悪くなるのは自覚している。睨むような目つきだったのだろうか。彼女も神妙そうな顔になる。

 ――もしかして気取られたか?

 ふと、彼女はふふんといつもの笑みを見せた。

「心配しなくても、あれは何の関係もない、そこら辺で初めて話しかけた人だよ。さ、行こう」

「はあ?」

 僕のその反応を見て満足そうに頷いた彼女は、彼女は後ろ手に手を組み、烏丸通りを南へ向かって歩き始めた。

 ――からかわれたのか?

 僕はその場を動けなかった。胸の中に言いようのないもやもやが広がっていく。彼女のその行動もだし、僕の彼女に対する感情もそうだ。

「……どうしたの?」

 彼女は少し離れたところで振り返って首を傾げてくる。

 ――どうしたもこうしたも、こうなってるのは君のせいなんだけど。

 そう思うも、口にはせず、僕は彼女へ駆け寄った。顔は笑っているつもりだが、もしかしたらただ表情が引きつっているように見えているかもしれない。

「……映画って三条でしょ? 出町柳まで行って、そこから京阪?」

「今出川通をどう思う?」

 彼女がそう尋ねてくる。僕と彼女は烏丸今出川の交差点に立っている。

「大した思い入れはないかな。百万遍は別だけど」

「私もそうだよ。だから烏丸通を歩こうよ、丸太町まで」

「なんで丸太町まで? 三条はもっと南じゃん」

「私が丸太町通が好きだからだよ。とりあえず烏丸を丸太町まで南進、丸太町を河原町まで東進。君は烏丸が好き、私は丸太町が好き。ウィンウィンだよ」

 京阪電車で出町柳駅から三条駅までは二駅だが、歩いても大した距離ではない。烏丸‐河原町間もしかり。

 僕は彼女の歩く速度に合わせて歩く。彼女はゆっくりと歩いている。大阪の人はせっかちなイメージがあるが、彼女のその歩き方は一切せっかちさを感じさせない。

「今出川から丸太町までの烏丸通はさ、横がずっと御所で変わり映えしないから退屈だよね」

 左手に望む京都御所の塀を見ながら彼女は言う。

「じゃあ御所の中を通る?」

「それじゃ烏丸通じゃないじゃないか。烏丸通を歩くことに意味があるんだよ――たぶん」

「どうして僕じゃなくて君がこだわるのさ」

「駄目かい?」と彼女はさもおかしそうに言った。

 烏丸丸太町から河原町丸太町の交差点までは、やはり左手に京都御所を望みながら進む。ただ、烏丸通よりは開けて見える。

 どうして丸太町が好きなのか、と訊いてみた。君が烏丸通を好きな理由を教えてくれたら、などとまた話を蒸し返してくるかと思ったら、ただ一言「長いから」とだけ答えられた。

「長い?」

「この街の地図、見たことあるよね? 丸太町通はどこまで進んでも丸太町通なんだよ。曲がりまくってるのに『折れず曲がらずの丸太町通』って言葉もあるくらいだし。すごくない? 私はすごいと思う。長い丸太町」

「端っこのほうまで行ったことあるの?」

「いや、ないよ」と彼女は首を振った。

 河原町丸太町まで辿り着いても、彼女は東へ進むのをやめなかった。「河原町を南下するんじゃないの?」と尋ねると、「鴨川を歩きたい気持ちになった」と答えられた。

 川端通から鴨川の河川敷へと下りる。最近雨が降っていなかったので、鴨川の水位は底がはっきり見えるほどに低い。

「鴨川と言えばカップル等間隔の法則だよね」

 彼女は川を眺めながら、いきなりそう言った。

「なぜ等間隔に並ぶのか、って話?」

「いや」

 彼女はかぶりを振り、僕の顔を見た。

「鴨川ってカップルの場所なんだよなあ、って話」

 意味がわからず、怪訝な表情を見せると、彼女はいきなり「えい」と声に出して僕の手を握ってきた。指を絡めてきた。

「レッツ、恋人つなぎ」

「いや、ちょっと」

「もっと気のきいた名前にできなかったものかね? いや、貝殻つなぎって言葉もあるらしいけど、それじゃあちょっとロマンチックさが足りない」

「いや、あのさ」

「なんだい、文句があるならはっきり言ったらどうだい?」

「君は何がしたいの?」

 僕の言葉で、彼女はきょとんとした。そして「つき合ってるんじゃないの?」とさも当たり前のように言った。

「えっ」

「つき合ってるじゃないか、君が、私の映画鑑賞に」

「はあ?」

 急に力が抜ける感覚があった。それを見て彼女はくすくすと笑った。

「面白いから三条までこのままね」

 そういえば例の元恋人とは部屋の外で手をつないだことなかったなあ、とふと脳裏をよぎった。理由はある意味で明白だった。思い出したくもないことを思い出し、少し気分が落ち込んだ。

 隣を歩く彼女を見ればこの感情もどうにかなるかと思ったが、そもそもの原因は彼女だったので、心のもやもやは晴れなかった。


 彼女と観た映画にはたしかにクロエ・グレース・モレッツが出演していた。でも主役はデンゼル・ワシントンだったし、クロエ・モレッツは映画の最初と最後にしか出てこなかった。面白かったが、劇場を出たあとに彼女に対して最初に放った文句は「クロエ・モレッツをもっと出せよ」だった。もちろん、彼女にそんな文句を言っても仕方のないことはわかってはいるが、頭に浮かんだ感想は口にするものだ。そのための連れ立っての映画鑑賞なのだから。

「このあとどうするのさ」

 三条大橋を渡りながら僕はそう口にしていた。薄暗くなってはいるが、まだ夜は訪れていない。三条大橋を渡ったところにあるものといえば、京阪三条駅かブックオフくらいのものだ。返ってくる答えは「帰るよ」だと思っていた。

 しかし彼女は僕を一度見ただけで返事をしなかった。

 彼女は何を考えているのか――僕がそう思った矢先、彼女は僕の腕を掴んで歩く速度を急に早めた。

「どこへ――」

「今日さ、まだやってないことがあるじゃん?」

 そう言った彼女は、右へ折れ、川端通を南下していく。

 まだやっていないことと言えば僕は一つしか思いつかなかった。いつもの場所からは正反対の方向へと向かっているのだが、彼女の足取りに迷いはない。

 川端四条、その交差点にほど近い場所にそれはあった。店名を確認する暇はなかった。いつもいるカフェバーとはまた少し雰囲気が違うパブだった。彼女は迷いもせず窓際のテーブル席を陣取った。僕はその向かい側に座った。大きく開いた窓からは、この時間になっても――日が落ち薄暗くなっても、多くの人でごった返す祇園を望むことができた。

「アイリッシュコーヒーを一つ」

 彼女は一切ぶれなかった。お冷を持ってきたマスターに涼しい顔でそれだけ言った。

「食事は?」

「私は別に。食べたいんだったら頼んでいいよ」

 僕はメニューを一通り眺めたが、特にピンとくるものはなかった。どうせアイリッシュコーヒーはわけ合って飲むのだろう。あのどこか甘ったるいくせにウイスキーのパンチが効いているカクテルに合いそうな食事は、酒に詳しくない僕には見当もつかなかった。

 目の前にアイリッシュコーヒーが運ばれてきたが、彼女は手につけなかった。頬杖をついて外を眺めていた。彼女が触ろうとしないのに、僕が先に手を伸ばすこともない。

 外を眺めていた彼女はちらりと僕を見て、そして目の前のアイリッシュコーヒーを見た。

「冷めるよ、それ」

 再度僕を見た彼女と目が合った。

「僕が君についてきたんだ。君からどうぞ」

 彼女はゆっくりと頷いて、カップを手に取り、生クリームを舐めるように口をつけた。

「人生ってさ」

 口がつけられただけで減っていないカップが僕の前へと押しやられてくる。でも僕はそれを無視して、彼女の次の言葉を待った。しかし何も返ってこない。

「……突然どうしたの?」

「ううん、別に」

 彼女は声のトーンを変えず、先ほどの言葉の続きでもなく、ただ一言そう答えただけだった。

 僕は何も反応を示さない言い訳で自分の口を塞ぐように、目の前に差し出されたアイリッシュコーヒーを一口飲んだ。まだ温かかった。

「映画の登場人物になりたいって思ったことはあるかい?」

「……僕が?」

「私はあるよ」

「何その話」

「ふと思ってさ」

 彼女は僕がソーサーに置いたカップをさっと手に取り、今度はしっかりと一口飲んだ。

「……あるよ」

 僕は短くそれだけ答えた。

「人生ってさ、君がどう思ってるのかはわからないけど――」

 彼女はそこで区切り、アイリッシュコーヒーへ視線を落とした。

「――ちゃんとフィナーレのある映画とは違うんだよね。進んでも進んでも壁にぶつかって、それを乗り越えても乗り越えても終わりなんてなくて。それどころか時には落下して、どこまでも落ちて、どん底まで落ちても、それを救ってくれるかっこいいヒーローなんていなくてさ。だからといって自力で這い上がっても、成功なんて誰も保証してくれない。でもさ、それでも人は望むんだよ、たとえば、そうだね――『ビッグ』のトム・ハンクスが見せたようなサクサク進んじゃうサクセスストーリーを」

「……なんでその流れで引き合いに出すのがその映画なのさ」

「そりゃあもちろん、傑作だからだよ」

 彼女はふふっと笑った。

「……いつか成功が――あるいは誰かが待ってくれていると信じているから、誰もこの無意味な時間から逃げ出さないのさ。いや、逃げ出せないと言ったほうが正しいかな?」

「呪いみたいなものってこと?」

「まあそうだろうね。映画とかでサクセスを疑似体験することで『自分もいつかこうなるんだ』って思い込んじゃうんだよ、大抵の人間は。たぶん。そういう意味では、映画ってのはいいコンテンツだと思うけど、反面、ある事実から目を背けさせるという意味では、悪いコンテンツだ。その――残念なことに、現実はそんなに甘くない」

 どこか達観したような物言いだった。その言い方と、彼女の目は、すでに何かを諦めたかのような色をしていた。

「別に何かぶちまけたいことがあるなら聞くけど。その、僕でよければ。迷惑じゃなければ」

「それって――」

 彼女は僕の言葉を聞いて眉をひそめた。

「――私を落とそうとしてたりする?」

「あ、いや――」

 僕は首を振った。

「全然考えてなかった……そうかもしれないね」

 ふうん、と彼女は僕の顔をまじまじと見つめてくる。

「全然キザくない。クサくない。五点」

 彼女は眉間にしわを寄せながらそう言った。そう言いつつも、口元は笑みを取り戻していた。

「十点満点?」

「百点満点に決まっているでしょう。私を落とそうと思うのなら『君の瞳に乾杯』くらいの台詞を用意してきなさい」

「それって今この場で言う台詞じゃないと思うんだけど」

「それくらいのキザさがほしいのさ。君はまだまだ映画の主人公にはなれそうにないね」

「僕が主人公になれなきゃ君はヒロインになれないってことかな」

「いや、私は最初からヒロインだよ――そのうち白馬の王子様を探しに行く、さ。それが君なのかどうかはわからないけどね。立候補だけなら承認しよう」

「喜んでいいのかな」

「素直じゃないね。喜びなよ」

「ってか人生は映画じゃない云々って話をしたあとにする話なのかな、これ」

「いいじゃないか。叶う叶わないは置いといて、夢ってのは見るだけならただなんだから」

「夢って?」

「映画の主人公になることだよ」

「君の夢?」

「そ」

 彼女はそう言って再び祇園の街を見下ろした。もうそれ以上何も喋らなかった。僕はそんな彼女に言葉を投げかけることができなかった。

 アイリッシュコーヒーが空になる。彼女は無言で立ち上がり、会計をし、店を出ていこうとする。

「ちょっと待って」

 僕は呼び止めたが、彼女は一度振り返っただけで、そのまま店を出ていった。僕はそれを慌てて追いかける。

 階段を降りる彼女の手を取った。すると彼女はすぐに立ち止まって、振り返って僕を見上げた。

「私を捕まえてくれたのは初めてだね」

 初めて? そうだ、だって今日は――

「いいよ、駅まで一緒に行こう」

 彼女はそう言い、僕の手を握ってきた。

 彼女に手を取られ、川端四条の交差点を渡り、四条大橋を渡り、阪急電車四条河原町駅へと続く階段を降りた。

 阪急で帰るのだろうか。阪急でどこへ帰るのだろうか。

 彼女は改札の前で僕から手を離した。そして手を振って改札の向こう側へ消えようとする。

「あのさ――」

 僕は彼女を呼び止めた。彼女は足を止め、僕を見て、僕へ一歩近づき、そして首を傾げた。

「――その、友人に誘われてさ、明後日、京女の学祭に行くんだよ」

 僕は何を言っている? それを言うために呼び止めたと言うのか?

「――なんかアドバイスない?」

 ――アドバイスだって? 

「ナンパ? いいじゃん、青春」

 彼女は僕に微笑みかける。

「アドバイスねえ、残念ながらそういう経験はしたこともされたこともないからなあ」

 ――僕はなぜこんなことを訊いているのだ? からかい返しているつもりなのか?

 彼女は口を尖らせ、わざとらしく眉をひそめた。その後、「じゃあ」とはっきりと僕の目を見て言った。

「その日の夜さ、みどりへ来てくれない? いや、来たくなかったら――あるいは来る理由がなくなったら来なくてもいいけど」

 彼女はそれだけ言い、「じゃ」と僕に手を振って改札の向こうへ消えていった。慌てて追いかけようとしたが、彼女のようにICOCAを持っていなかった僕の前に改札が立ちふさがった。

 ひょっとしたらそれより先まで追いかけるべきだったのかもしれない。切符を買って――もしくは係員に止められることになっても、改札を無理矢理通ってでも彼女の許へ駆け寄るべきだったのかもしれない。駆け寄って、彼女に尋ねるべきだったのかもしれない。

 ――来る理由がなくなったら、とは。

 僕は呆然とその場に立ち尽くした。

 僕は結局何もできない。

 何もしない。

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