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『あなたのこと、大して好きじゃなかった』
『部屋を提供してくれるお礼につき合ってた』
『あなたが私のことを好いてくれるように私もあなたを好きになろうと努力したけど、でも無理だった。だから別れて』
面と向かってそう言われたあの瞬間が、記憶に焼きついている。
大学に入ってから、二人目の恋人だった。バイト先の同僚。京都工芸繊維大学。つき合い始めの当時は互いに二回生。現役なので僕より一つ下。京都出身。実家暮らし。
あいつは親と仲が悪かったため、最低限しか実家に帰らず、友人の家を転々とする生活を送っていた。そんなあいつに、ある深夜のバイト上がりに部屋までつけられ、「今日泊まるとこないのであなたの家に泊めてもらえます?」と言われたのがきっかけだった。放り出すわけにもいかずに泊めたところ、味をしめたのか、再び「泊めて」と懇願される。そして二回目の宿泊の際にちょっとした手違いで合鍵を渡してしまい、以降、立地は良くないくせに僕の部屋が行動拠点にされてしまった。つき合ってもないのに半同棲という妙な関係が続いてから二ヶ月、急に向こうから「つき合おう」と告白された。このまま微妙な関係が続くよりはマシか、と僕はその場でOKを出した。それが昨年十二月の話。そこからさらにエスカレートし、半同棲はほぼ同棲になった。最初は別段特別な感情はなかったが、プライベートであまりにも長時間一緒に過ごしていて、また彼女の境遇を聞いていると自然と情が湧いてきて、いつしか人並みの恋愛感情が芽生えていた。しかしそれは完全に僕の独りよがりだったらしく、九ヶ月後に『実は好きじゃなかった』などという理由で急に振られた。あいつはいつの間にかバイトを辞めていた。僕もそれに続くようにバイトを辞めてしまった。以来、僕はあいつに会っていない。連絡も取っていない。
烏丸通に住んでいたのは僕ではなくその元恋人だった。事あるごとに「迎えに来て」とせがむくせに、時間にルーズな彼女を待つときに、〈カフェ&バーみどり〉を利用していた。
原因はそういうことなのだが、別れてからもやはり烏丸通が好きだった。昼の喧騒な烏丸通も好きだし、夜の閑静な烏丸通も好きだった。
無論、こんな話を他人にべらべらと語るつもりはない。
喫茶店で出会った女の子との謎めいた会合は夏休み中ずっと続いた。それどころか夏休みが終わっても続いた。
彼女につき合うことはやぶさかではなかった。というのも、三回生になり、研究室に配属されて学部のクラスメイトとの関わりがほとんどなくなってしまったのと、元々所属していた水泳サークルももはや幽霊会員に等しいのとで、人と関わる機会がどんどんなくなっていたからだ。その中で彼女の存在はある意味で精神的な安らぎをもたらしてくれている――ように感じていた。
大抵は映画の話をして終わる。それだけだ。なぜ話し相手が僕なのか、理由がわからないだけであり、話すこと自体はつまらないわけではない。
そう、理由がわからないのだ。いくらマスターから僕の話を聞いたからといって、失恋状態の僕を慰めようという意図があったわけでもないだろう。そもそもそんな印象など微塵も受けない。
毎度毎度、別れる際に彼女から「次は何日後」と指定してくる。目的は僕なのか、それともアイリッシュコーヒーなのか。アイリッシュコーヒーを二人で飲むことに意味があるのか。僕は会うたびに尋ねる。するとそのたびに返ってくる答えが違う。何が本当で、何が嘘なのか、まったくわからない。
こうやって少なくとも週一で会うというのに、僕が彼女という人間について知れたことは少なかった。大阪出身だというのによどみない標準語を話す。五月生まれ。映画が好き。古いのも、新しいのも。俳優がかっこよければそれだけで楽しい。ホラー映画が少し苦手。それぐらいだった。
連絡先を知らない。住んでいる場所も知らない。もっと言うなら、あいかわらず僕は彼女の名前を知らなかった。名前を訊くと「私と結婚すれば戸籍を見る機会とかあると思うよ」などと本気顔で言われてからかわれたりして、その都度はぐらかされていた。
「――キング原作映画占いってのを考えたんだけどさ」
十月の終わり頃、彼女はいきなりそんな話をしてきた。
「キング原作映画占い?」
そんな文言はもちろん聞いたことなどない。キングとは作家のスティーヴン・キングのことだろう。
「そう。好きなキングの映画を言ってもらうと、その人の人となりがわかるっていうやつなんだけどさ」
何だよそれ、と僕は鼻で笑う。
「たとえばショーシャンクが好きって言ったら?」
ショーシャンクとは、スティーヴン・キング原作『刑務所のリタ・ヘイワース』を元にした映画『ショーシャンクの空に』のことだ。
「『自称映画通』」
彼女は真顔でそう言った。
「ただの悪口じゃないか」
「いや、悪口とかじゃなくて。ショーシャンク大好きだよ、私も。でも『一番好きな映画はショーシャンクです』なんて言うのって、なんか気取ってる人っぽくない?」
「『ニュー・シネマ・パラダイス』も似たようなものだと思うけど」
「なんだよ、うるさいな」
アイリッシュコーヒーを一口。そして僕へとカップが回ってくる。
「じゃあ『ミスト』は?」
「『後味悪い映画好きな僕あるいは私、かっこいい』」
「やっぱ悪口じゃん」
「えっ、そうかな? でもさ、君も実際のところ距離を置きたくなるでしょ? たとえば――キングじゃないけど『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を絶賛する人とかとは。ってかそもそも私、『ミスト』がそんなに後味悪い映画だとは思わないんだけどね。あれはエンタメ、ダンサーは胸糞」
「それは人それぞれだと思うけど」
アイリッシュコーヒーを一口。だいぶ味――というよりウイスキーには慣れてきた気がする。
「『シャイニング』」
「『ジャック・ニコルソンの物真似が上手い』」
「あれ、なんか悪口っぽくない。けど意味わかんない」
僕は声を上げて笑ってしまう。それを見た彼女もくすくすと笑った。
「悪口を言う場じゃないよ。占ってるだけさ。ってか君が好きなのは『シャイニング』なの? だったらぜひ物真似をね」
「いや、『シャイニング』ではないよ。じゃあ――たとえばここで『スティーヴン・キングは殺せない!?』なんていうのを僕が口にしたらどうなるの?」
「何それ。聞いたこともないよ。本当にそんな映画あるの? キングの映画?」
ホラー映画が少し苦手な彼女はB級ホラー映画には興味がないらしい。
「正直に言うと、キング原作の映画って本当に有名どころしか観てないんだけど、一番好きなのは『キャリー』かな。リメイク版のほうの」
「ふうん。それなら君は占いで言うと『クロエ・モレッツが好き』」
「なんだよそれ」
「あれ? 間違ってる?」
「いや、好きだけど」
というより、『クロエ・グレース・モレッツが好きだからリメイク版の「キャリー」が好き』というのはまさにその通りだった。
「何も恥ずかしがることないさ。恋した相手がクロエ・モレッツだって。かわいいよね。私もあのかわいさがあったら人生苦労してないよ、たぶん」
「その言い方、まるで今まさに苦労しているみたいだけど。苦労してるの?」
「今はしてないかな。のらりくらりと生きてるから」
ふふんと彼女は微笑む。そして「そうだ」と言い、手をぱんと叩いた。
「映画を観に行こう。一緒に」
「映画? いきなり?」
「明後日とか。どう?」
「なんでいきなり?」
「クロエ・モレッツが出てる映画を今やってるから。好きなんでしょ? 明後日、十三時。同志社の西門ね。はい決まり」
僕の言葉を待たず、彼女は淡々と言葉を紡ぐ。この場所以外で彼女と会うなど、まったくの想定外の予定が無理矢理組み込まれてしまった。
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