京都市左京区の白川通沿いにある僕の住むマンションを出発し、北大路通を西へ走る。東大路通にも下鴨本通にも一切目をくれず、ひたすら西へ。賀茂川にかかる北大路橋を渡ると、目的の道はすぐそこに現れる。

 烏丸通。烏丸と書いて「からすま」と読む。京都に住み始めの頃、これを「からすまる」と読んで恥をかいたものだ。京都市を南北に走る大通りの一つで、南へずっと下っていくとちょうど京都駅にぶつかる。京都駅より南へも延びているらしいが、僕は京都駅以南へ行ったことはない。それと同様に、北大路通以北、今宮通までの細く短い道も走ったことはない。僕にとっての烏丸通は、京都駅から北大路通までの区間の通りと断言しても差し支えなかった。

 京都市の極東を行動拠点とする京大生には比較的なじみが薄いであろう大通りだが、僕は一番好きな通りだった。少なくとも、先月まではそうだった。おそらく今もそうなのだろう。しかし、今の僕は、自信を持ってそう言えない。

 大谷大学の学生たちを尻目に、烏丸通と紫明通との交差点よりもう少し南まで下る。すると例の〈カフェ&バーみどり〉へと辿り着く。

 小さなビルの二階。一階はアンティークショップだったが、最近はずっとシャッターが閉まっている。営業時間は十二時から。頼むのは決まって一番安いショートブラック。たまに気分でラテ。目的はただの時間潰し――だった。少し前までは。

 雲は多いが晴れている。時刻は午後三時。九月だが、まだ店内には冷房が効いている。カウンターに一人だけ客がいた。

 いつものテーブル席についた。お冷をもらっただけで、注文はしなかった。十分待って彼女は来なかった。何も頼まないのもまずいと思い、とりあえずいつものようにショートブラックを頼んだ。

 三十分が経過する。カップは空になっていた。店内に西日が差し込み始めた。

あと三十分待って来なかったら出ようと決めた。僕はからかわれたということだろう。名前すらわからない彼女に。

 今日もまた何もせず、ただぼうっと外を眺めていた。ふと思い立ち、ノートを広げて自分の文章を眺めたが、頭には何も入ってこなかった。やがて頭を使うのが面倒になり、外界から意識をシャットアウトした。そのせいで、いつの間にか僕の向かい側の席に彼女が座っていることにまったく気づかなかった。

「一人称が『僕』のほうが女の子受けがいいらしいよ。知ってる?」

ぼんやりとした頭にそんな言葉が入り込んできた。顔を向けると、一週間前にここで見たものと同じ顔が静かに微笑んでいた。

「じゃあ僕は合コンとかに行ったら受けがいいわけだね」

「恋多き友達がそう言ってたからさ、又聞きの情報だよ」

「君的にはどうなの?」

「私は好きだよ?」

 マスターがお冷を彼女の許へ運んでくる。

「アイリッシュコーヒーを一つ」

 前回同様、彼女はメニューを見ることなくそれを頼んだ。

「オープニングトークが挨拶じゃなくてそれなのには何か意味が?」

「意味は教えてもらうものじゃないよ、自分で見出すものさ」

 彼女は澄ました顔でそう言った。

「待ちくたびれたよ」

「だろうね。ごめんね。言い訳はしたくないけど、私も忙しいんだ。あ、嫌味で言ってるわけじゃないよ?」

 彼女はお冷のグラスの縁を指でつつっとなぞりながら言う。

「でもまあ、君がわけのわからない人間との約束を守る律儀な人間だということがわかっただけでも大収穫だね」

「わけわからないって自覚はあるんだ」

「自覚がなきゃこの世界やってけないさ」

「僕は別に約束がなくてもここに来ていたわけだし」

 マスターが彼女の注文品を持ってきて、僕のカップを下げていった。

「どうして君はこの店に来るの?」

 彼女は運ばれてきたアイリッシュコーヒーをそっと持ち上げ、一口飲んだ。

「この近くに住んでいるわけでもないでしょう?」

 ――どうして?

 下唇を噛む。たしかにこの近くに住んでいるわけではない。わざわざ――といっても自転車で二十分程度だが――烏丸通まで足を運ぶ理由は――

「――烏丸通が好きだから。この街で一番」

 ふうん、と彼女は知ったように頷き、僕の前へ一口飲んだだけのアイリッシュコーヒーを差し出してきた。

「じゃあどうして烏丸通が好きなの?」

 意図せず眉が動いてしまう。この人、もしかして知っているのか? 知った上で僕に尋ねているのでは?

「……じゃあ、君はどうして、自分で頼んだアイリッシュコーヒーを僕に飲ませようとしてくるのさ。その、こうやってわけあって飲むことの理由をね」

「あー、質問に質問で返すスタイルなんだね。テスト〇点だよそれ。よく京大受かったね」

 彼女は手をすり合わせる。そして僕にさっさと飲むように促す。

「……それを教えてくれたら、僕も教えなくもない」

 僕はそう言い、アイリッシュコーヒーを一口飲んだ。あいかわらずウイスキーが僕を攻撃してくる。だが舌が慣れたのか、前回よりもコーヒーの風味を感じ取れた。

「実は、私の身体にはアイルランド人の血が八分の一流れていてね」

「前より血が薄くなってるけど」

「おや、そうかい? ふふっ」

 少なくともアイルランド人の血の話は嘘のようだ。いや、本当なのかもしれないが、今の話で信憑性はだいぶ薄れてしまった。

「――カクテルの名前のアイリッシュと『アイウィッシュ』――英語の“I wish”がかかっていてね。カクテル言葉は『願いを叶えて』。つまり私にはこれを飲むことによって叶えたい願いがあるのさ」

「この前帰ったあとに調べたら、アイリッシュコーヒーのカクテル言葉は『暖めて』だったんだけど」

「あれ? よく調べてるね。負けたよ」

 何の勝ち負けだというのか。彼女の溜め息一つ。しかし表情は楽しそうだ。

「ま、いいや。ちょうだい、そのカップ」

 僕からまだまだ温かいカップをなかば奪い取るように受け取る。そしてぐっと一口、それを飲んだ。

「私が一番好きな映画ね」

 話をそらしてきた。答えを言わないつもりらしい。それはそれで僕も自分の話をしなくてすむので、ありがたいと言えばありがたかった。

 彼女は僕の前からソーサーを引き寄せ、角砂糖をカップの中に放り込んで生クリームとコーヒーとウイスキーをぐるぐるとかき混ぜた。

 ――シェイクするのはアイリッシュコーヒーに失礼じゃなかったのか。

「好きな映画。『ニュー・シネマ・パラダイス』なんだ」

「『フットルース』じゃないんだ」

「あれは座右の銘だよ」

「どっちにせよ古い映画だね」

『ニュー・シネマ・パラダイス』は一九八八年のイタリア映画だ。映写技師の男に出会い、映画に魅せられた少年が青年になり、中年になっていく様を描いた物語。ただそれだけの映画。特にこれといった事件があるわけでもない。ただ始まって、ただ終わっていくだけの映画、という印象が強い。

「ってかその反応は観たことあるんだね、『ニュー・シネマ・パラダイス』。私たちが生まれる前の映画なのに。『フットルース』もそうだったし」

「母親の影響だよ。母親が青春時代に観た映画はたぶんだいたい観てる――ってか観せられてる」

「へえ、いいお母さんだね」

 彼女は僕を見ず、どこか遠くを見るような目でそう言った。

「最近の映画は需要でも供給でも刺激を求めすぎている。そう思わない?」

「物によると思うけど。そう思っちゃうのは、映像技術が発達してきたからじゃない? CGまみれだと身体が疲れるって人の気持ちはわからなくもないし」

 まあそれもあるだろうけど、と彼女は言う。そしてすべてが一体となったアイリッシュコーヒーを一口すすった。

「『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいに、できることなら何も起きないほうがいいのさ、映画も、人生も。意に介す必要もないようなちょっとした壁にぶつかって、ちょっと頑張ってそれをよじ登って。それだけで人生が過ぎていくほうが。気がついたら大人になっててさ、次に気がついたときにはもういい年になってて、人生も下り坂に差しかかってる。『人生なんてそれで十分』って教えてくれる、いい映画だよ。あ、もちろん、主人公のサクセスがしっかりと描かれている時点で所詮は映画って感じがしないことはないんだけどね」

 彼女は僕にアイリッシュコーヒーを押しやってくる。飲め、ということらしい。完全にシェイクされたそれを、僕は一口飲んだ。混ぜられたせいか、最初に口の中を覆うのはウイスキーでもコーヒーでもなく、砂糖と生クリームによって生まれたクリーミーさだった。

「『身体が重い者ほど足跡は深い』――」

 ふと、彼女は窓の外を見ながら独りごちるように言った。『ニュー・シネマ・パラダイス』に登場する映写技師が主人公に語りかける台詞だった。

「――『恋する男は苦しむ。袋小路だと分かるからだ』」

 僕は彼女に合わせて、その続きの台詞を思わず口にしてしまった。

 声が揃ったせいか、彼女はふふっと笑った。

「恋心が深いと、それに伴って傷も深くなるんだよね?」

 彼女と目が合う。なぜそれを今、僕に言うのだ。その目はまるですべて見透かしているんだぞ、と言っているようだった。僕は慌てて目をそらした。

「烏丸通に住んでいたのかい?」

「……僕は京都に来てからずっと白川通に住んでるよ」

「君の話じゃなくてね。わかってるくせに」

 何のことだか、と僕は言う。アイリッシュコーヒーをもう一口すすって彼女の前へ押しやった。

「……僕の好きな映画は『ゴッドファーザー』だよ」

 立て肘で彼女の首元へ目を遣りながら、僕はそう言った。顔を直視することができなかったからだ。彼女はオレンジのカーディガンを羽織っていた。

「『ゴッドファーザー』?」

 彼女は僕の発言を繰り返した。その繰り返しに怪訝さはうかがえなかった。

「これまた古い映画だね。その言い方だと最初のやつが好きってことかな。私はパートⅢが好きだね。ってより、あの頃――九〇年代のアル・パチーノが好きだ。『カリートの道』とか。キタナカッコイイよね」

 彼女がアイリッシュコーヒーをすすったことで、カップの残量が三分の一以下になった。

「でも私はアル・パチーノよりはアラン・ドロンのほうが好きだよ。なんてったって私は面食いだからね――って」

 彼女が身を乗り出してきた。内心ほっとしていた表情を見抜かれたか。

「嘘でしょ。いや、好きなんだろうけど。一番好きな映画じゃないね」

「……ばれた?」

 わざとおどけた返事をしてみた。

「私が古い映画を挙げるからそれに対抗したと見えるね」

「君の気を引きたかったのさ」

 嘘ではなかった。話をそらすために気を引きたかったのだ。

「ふうん、口説き文句としては悪くないね。でも私はもっとクサい台詞で、現実世界じゃまずお目にかかれないような文句で口説かれるほうが好きだ。やり直しだね」

彼女の口角が上がる。もちろんそういうつもりで言ったのではなかったが、彼女にこういう風に評価されるとは思わなかった。僕は大きく息を吐いた。

「一番好きなのはたぶん『オーシャンズ13』だよ。これは嘘じゃない」

「なんだ、やっぱりアル・パチーノが好きなんじゃないか」

「偶然だよ。あの中で好きなのはジョージ・クルーニー」

「ふうん。ダンディズム溢れるオヤジが好きなんだね。私はあの中だとやっぱブラピだなあ」

「面食いだから?」

「そう、それ。面食いはつらいよ? おちおち彼氏も作れない」

「そういうもんなの?」

「そういうもん。君もそうでしょ? 映画が好きな人間は大抵面食いだよ。私の中の統計上」

「僕が聞いたことのある統計の中じゃあ一番役に立たなさそうだから、あまり人に言わないほうがいいよ、それ」

「なかなか辛辣だねえ。まだ二回しか会ってない人間に」

 彼女はガラスのカップをわずかに傾けてアイリッシュコーヒーを少しだけすすった。

「でも否定はしないんだね」

 カップが僕の前へやってくる。残り全部飲んでいいよ、と言われたので、僕はカップを大きく傾けて一気に飲んだ。シュガーが固まっていることもなく、甘さも均一だった。

「……アイリッシュコーヒーを二人で飲む理由って?」

 不意に僕がそう尋ねても、彼女は僕に微笑み返してくるだけだった。

「次さ」

 彼女は唐突にそう言った。僕は黙って彼女の次の言葉を待った。

「次も、一週間後、ここに来てくれる?」

「また君に会えるってこと?」

「今度は君を待たせないようにするよ」

 彼女はマスターにお金を払って、さっさとカフェを出ていった。あまりにも流れるような動作だったので、僕はその後ろ姿を見送るしかなかった。

 マスターが僕の許へ来て、お冷のおかわりをついでくれる。僕は何とはなしにマスターに訊いてみることにした。

「すみません、あの女性――女の子? なんですけど、ここの常連さんですか?」

「ずっとじゃないよ。四月くらいからちらほらと。でもよく顔を見せてくれるようになったのは先月? 先々月かな」

「僕よりもずっと最近ってことですね」

「そういえば、少し前に君のことを尋ねられてさ、『あの窓際のテーブルの男の人いるじゃないですか。いつも彼が待ってる女の子、最近どうしたんですか?』って。ごめんね、『別れたらしいよ』って教えちゃった」

「そうですか」

 別に全然いいですよ、と僕はマスターに言った。そして戻っていくマスターの背中を見ながら、すでにここにはいない彼女へ向かって口にする。

 ――やっぱり知ってるんじゃないか。

 彼女のことが何となくわかったようで、でもまだ何もわからなかった。

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