長い烏丸 KARASUMA GOODBYE

江戸川雷兎

 目の前にはミミズがのたくったような文字がなぐり書きされたノートが一冊。そして底にわずかに黒い液体が残ったコーヒーカップが一つ。水滴がわずかにつく水の入ったコップが一つ。

 烏丸通沿いにある〈カフェ&バーみどり〉という店に僕はいた。昼からアルコールが飲めると謳っている店。しかし特に酒に執着心のない僕がいつも頼むものは、店で一番安いショートブラックだった。

 曲名のわからないハウス・ミュージックが店内を満たしている。窓際にある二人がけの丸テーブルで、何をするでもなく、立て肘で窓の外を眺めていた。

 雨が降っていた。ここに来たときはまだ小雨だったが、僕がこうやって無意味に時間を潰しているうちに本降りになってしまった。それが余計に、僕の腰を重くしていた。

 思いついたことをノートに書き込んだりするが、形になる気配はない。書いたものを読み返しても、なぜこんなことを書いたのか自分でもわからないものばかりだった。

「――それ、何書いてるの?」

 ふと声が降ってきた。僕は慌ててノートを閉じて、声の主へ顔を向けた。

 同い年くらいの女の子が立っていた。ショートボブ。ミニ丈のスカート。薄手のミリタリージャケット。雨に降られたのか、わずかに濡れている。彼女はジャケットのポケットに手を突っ込んで、僕の手元を覗き込もうとしていた。

 どれだけ彼女の顔を凝視しても、記憶にない、見たことのない顔だった。だから僕は至極当然の反応を示した。

「誰?」

「私? 通りすがりの仮面ライダー」

 当然の反応に返ってきたものは、反応に困るものだった。

「……じゃなくてさ、ノートだけ広げて何書いてるのかなーって。ノートだけだと勉強でもないでしょ? 気になったからさ」

「別に、何も」

 僕がそう答えると、彼女はそれがさも当然というように、丸テーブルの向こう側に腰を下ろした。

「ははあん、見せたくないということは、さては黒歴史ノートだな?」

「黒歴史だって?」

「そういうのは中学生で卒業しなきゃ。って中学生じゃないよね?」

「大学三回生だよ。中学生のくせに平日のこんな時間にこんな場所でこんなことしてるってそれこそ黒歴史じゃないか。だいたい僕が中学生に見える?」

「三回生かー。まさかの同世代。ひょっとして同志社?」

「京大」

「なんだ、私より頭いいのか。あ、わかった。君は数学者の卵か何かで、ノートに何かの証明を書いてるとか」

「残念ながら一番入るのが簡単な文学部」

 彼女はいつまで経っても席を立とうとしなかった。

「まさかこれが気になっただけ?」

 僕がノートを掲げると、彼女は口に指を当て、「うーん」と眉をひそめた。

「ってより、君のことが気になったからかな」

「僕のことが?」

 彼女は頷いた。

「で、何書いてたの?」

 ――結局それか。

 引き下がる様子もなかったので、僕は仕方なく彼女にノートを渡した。彼女は「いいの?」と少し戸惑い、それからノートをぱらぱらとめくった。

「……読めない」

「だと思った」

 適当に書きなぐっているから、自分でも解読に時間がかかることがあるのだ。何も知らない他人に読めるはずがなかった。

 それで満足してくれると思っていた。しかし彼女はノートを離さず、あるページを開いて、そこをひたすら凝視していた。そして「なるほど」と呟きながらゆっくりとページをめくり始めた。

 まさか読めるのだろうか。

「ふうん、面白いね」

「はい?」

「特にこれ。子どもが建設途中の団地に侵入したら赤い空が広がる別世界だったー、ってやつ。タイトルは――『赤い団地』?」

「えっ、ちょっと待って。本当に読めたの?」

「プロットか何かじゃないの? 小説の。漫画かもしれないけど」

「いや――」

 ――そうだけど。

 彼女はノートを閉じて僕に差し出してくる。僕は大きく息を吐いてからそれを受け取った。

「――設定とか物語とかを考えるのが好きなんだ」

「小説の?」

「ってよりフィクションかな」

「フィクション?」

「とにかくフィクションの設定とかストーリーとか。創作物が好きなんだよ。いや、一番好んで摂取するのは映画なんだけどね。あ、でも邦画はほとんど観ない。残念ながら」

「ふうん。映画好きね。私もね、映画好き。大好き。この世界で一番」

 彼女は大げさに頷く。そして僕へ向かって「暇?」と問いかけてきた。

「暇? 僕が?」

「そう。暇なら私につき合ってよ。話し相手になって、ってことだけど」

 店内を見回しても、他に誰も客はいなかった。

「別に。僕でよければ」

 ノートを見られた時点で、もはや彼女は他人ではないように思えた。思えただけで、彼女の目的も正体もわからないが、こういう一期一会があっても別にいいだろう。

 彼女は僕の答えに満足そうに微笑み、そしてマスターを呼んだ。

「アイリッシュコーヒーを一つ」

 彼女はメニューを見ずにそう注文した。

 ――アイリッシュコーヒー? 名前を聞いたことはあるが、どんなコーヒーだっただろう。文字通り捉えるなら、アイルランドのコーヒー。

「『コーヒーを濃いめに淹れる。シュガーを溶かす。ショット・グラス一ぱいほどのウイスキーを注いで、さらに熱く温める』」

 彼女は人差し指を立てて言う。誰かの台詞をそらんじるような言い方だった。

「それは……何?」

「阿刀田高『コーヒー党奇談』の一節。アイリッシュコーヒーの説明だよ。コーヒーとアイリッシュウイスキーのカクテル。飲んだことある?」

 僕は首を振る。続けざまに彼女が尋ねてくる。

「ここまではどうやって来てるの?」

「自転車で」

「雨降ってるのに?」

「別にいいでしょ、人の交通手段なんて」

「ま、別に自転車社会の京都で自転車の飲酒運転なんて誰も気にしないよね」

「君も自転車で?」

「いや。自転車飲酒運転は君の話」

 ――僕の話? 僕が頼んだのはショートブラックだ。カフェインだけで、アルコールは含まれていない。このままこのカフェから帰路について、たとえ途中で警察に止められても僕が飲酒運転になることはない。

「それってどういう――」

 そう口にした矢先、僕らの許にアイリッシュコーヒーが運ばれてきた。

 それはガラスのカップに入っていた。コーヒーの黒の上に、生クリームの白が乗っかって綺麗な層を作り出している。添えられたスプーンには角砂糖。

 ウィンナーコーヒーの亜種だろうか。しかしウィーンとアイルランドでは、ヨーロッパという共通点しか僕は見いだせない。

「コーヒーじゃなくてカクテルだからね」

 そう言いながら、彼女は目の前に置かれたアイリッシュコーヒーをそっと僕のほうへと差し出した。

「一口目は君にゆずるよ。飲酒運転とか気にしないでしょ?」

 一口目を僕にゆずる。自分で飲むために頼んだものではないのか。

 ガラスのカップの生クリームへ視線を落とす。

「……どうやって飲むの?」

 角砂糖を入れ、スプーンで混ぜる? 僕がスプーンを手に取ろうとすると、彼女は「そのまま飲むのさ」と言う。

「せっかくシェイクせずにステアで提供されてるんだ。シェイクしたらアイリッシュコーヒーに申し訳ないよ」

「そのまま?」

 スプーンに伸ばした手を、そのままカップの取っ手へと。クリームとコーヒーの層が崩れないように、そっと持ち上げる。ホットカクテルなりの温かさがあった。

「本当にこのまま?」

「いいから飲みなよ」

 ――そのまま。

 カップを口につける。コーヒーと……ウイスキー? アルコールの匂いが鼻をつく。クリーム。甘くはない。そして熱い黒い液体が口の中へ。

 それはコーヒーではなかった。コーヒーなど名ばかりだ。ウイスキーの主張が強すぎる。カフェインの風味もさることながら、それ以上にアルコールががつんと僕の口腔内を攻撃してくる。

 そっとカップを置く。そしてグラスの冷たい水で口の中を洗った。

「コーヒーじゃなくてウイスキーじゃないか」

「言ったよ、カクテルだって。ウイスキーは苦手だった?」

「少なくとも得意ではないよ」

「私だって得意ではないさ」

 彼女は僕の前からカップを自分の許へ引き寄せる。ゆっくりと持ち上げ、そして一口すすった。

「得意じゃないのに、なんで? しかもこの時期にホットカクテルって」

「実はね――」

 彼女はカップを置いて、急に深刻な表情になった。

「私にはアイルランド人の血が四分の一入っていて……」

「……台詞とテンションが一致しているようには見えないけど」

「何よ、君は私がクオーターだから、ハーフじゃないから所詮ブスだとでも言いたいわけ?」

「何一つとして僕が口にした要素が入っていない」

「あー、でも否定しないんだね。初対面の女の子にそんなこと言うなんて、乙女の心が傷ついたよ」

 彼女は大きな溜め息を吐いたが、顔は笑っていた。

 僕はあらためて顔を上げた彼女の顔を見た。

 人の顔の評価なんて人それぞれだ。客観評価などできない。少なくとも、僕の基準で言えば、目の前の彼女は――普通に美人の部類なのではないか。それこそ、ドラマだとか映画でメインを張っても何も問題ないような――

 もちろん、そんなことを今日出会ったばかりの女の子に言えるほど僕はキザな人間ではない。だからただ一言、「いや」とだけ小さな声で言った。そして窓のほうへ視線を移した。あいかわらず雨が降っている。

 僕の声が聞こえたのか、彼女はやれやれといった感じで首を振った。それからスプーンに載った角砂糖を、ぽっかり空いた生クリームの穴からアイリッシュコーヒーの中へ投入する。しかしスプーンをそこへは突っ込むことなく、再びカップの脇へ置いた。

 彼女は僕のほうへ再びカップを押し出してきた。アイリッシュコーヒーはまだほとんど減っていない。

「君の番」

「僕の番?」

「そうだよ、私は二人で飲むつもりで頼んだんだから」

 ――なぜ?

 カップを見下ろす。

「二人で飲みたかったから、じゃ駄目かい?」

「このアイリッシュコーヒーを?」

「そう、このアイリッシュコーヒーを。シェイクしてないから飲むたびに味が変わるんだよ。飲んだことないなら、君は何も考えずに、私に促されるままに飲めばいいのさ。あ、ちなみに私のおごりだからね、もちろん」

飲めばいいのか。僕は素直に差し出されたアイリッシュコーヒーをもう一口飲んだ。やはりウイスキーの主張が強い。しかし角砂糖を投入したせいか、少し甘みを感じた。混ぜたらもっと砂糖の味がするのだろうか。

「もう一口くらいいいよ」

「……君の飲む分が――」

「いいから」

 どうしても飲ませたいらしい。理由はわからないが、もらえるものはもらっておこうの精神で、僕はもう一度軽く口をつけた。

「座右の銘は『フットルース』なんだ」

 僕がカップを彼女の前へ突き返すと、彼女はこともなげに言った。

「……ケヴィン・ベーコンの?」

『フットルース』。一九八四年のアメリカ映画。主演ケヴィン・ベーコン。ダンスもロックも禁止された寂れた田舎町に引っ越してきた主人公が、大人と町に反発し、ダンスパーティーを開催するべく奮闘する青春映画である。

「私、新しいほうは観てないよ」

「僕も古いほうしか観てない」

「よかった、君が観てて。話が通じて。私もね、あんな生き方をしたいんだ。誰からも縛られず、好きな場所で、好きなことをやる」

そう言った彼女は、ケニー・ロギンスの『フットルース』を口ずさみ始めた。

「……たとえば今やってることとか?」

「今やってること? ふふっ、それより、若いケヴィン・ベーコンはかっこいいと思わない? 老けたケヴィン・ベーコンも好きだけど」

彼女は口ずさむのをやめ、わざとらしい笑みを浮かべながら、アイリッシュコーヒーをすすった。一口、二口。

 好きな場所で、好きなことをやる。ここが好きな場所。それはわかる。僕も気に入っているからだ。好きなことをやる。僕と一緒に異国のカクテルを飲むことがやりたい好きなこと? 今日初めて顔を合わせた僕と? そういう趣味なのだとしたら、かなり変わっている。一期一会で出会った人と、こうやってホットカクテルを嗜む。世の中には色々な人がいるものだ。

 結局僕はあと二口飲んだ。彼女は最後にスプーンを突っ込んで、何もかも、残ったクリームもコーヒーもウイスキーもシュガーもすべてをかき混ぜた。底のほうが甘かった。初めてコーヒーだと感じた。だが、やはりウイスキーのほうが強かったらしく、時間差で身体が火照ってきた。やはり冬の飲み物だ。この時期に飲むものではない。雨が降っていてひんやりしているので、真夏ほどではないにしろ。

 最近観た映画の話になった。最近POV方式の映画が増えてきたので、彼女はそれを気にして、それらの走りとなった二〇年近く前の映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を初めて観たらしい。僕がつい先日劇場で『ケープタウン』を観たというと、「まだ観てないから何も言うな」と釘を刺された。彼女は釘を刺したあと、「おっさんオーランド・ブルームどうだった?」と感想を求めてきたので、ただ一言「かっこよかった」とだけ答えた。

 やがてガラス製のカップは空になる。これで一期一会も終わりだと思っていた。だが、そう思っていたのはどうやら僕だけらしい。

「来週」

 彼女は僕の顔を見てそう口にする。

「来週さ、同じ時間にこの場所に来てくれる?」

「僕が……ここに?」

「他に誰がいるって言うのさ」

「どうして?」

「理由がなきゃ君はここに来ない?」

 僕は黙った。そもそもここに来ている理由は――

「じゃあ理由を作ってあげるよ。私が会いたいから。君に。それじゃ駄目?」

「駄目って言うか」

「待ってるからさ」

「……君は何者なの?」

「君の誕生日を祝いに来たコール・ガールだよ。君の勤めるコミック屋のボスに雇われた、ね」

「じゃあ――君の名前はアラバマ?」

「違うよ、アイリーンだよ。ふふっ、名前なんて記号でしかないさ。それに、どうせ聞いても二、三日したら忘れるでしょ?」

 彼女は席を立ち、マスターに僕の分まで勘定を払って店を出ていった。

 それが彼女との出会いだった。

 彼女が去ったあと、僕はグラスに残った水を飲み干した。

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