四日目:人知れず咲く

 これまでに書いてきたことは、全て、数年前の出来事であるが、これはつい昨年のことだ。

 私は、昨年、九州の山岳地帯にあるペットと泊まれる宿に宿泊した。宿のそばには愛らしい細いせせらぎの川、宿を覆いつくすような木々と、吸い込めば緑と土の香り。虫は苦手だが、やはり、こういった場所のほうが心が穏やかになる。

 早朝、待ちわびて私は散歩に出た。

 宿から細く伸びた土と砂利が混じった道は、木々の根が方々から差し伸べられており、足元は不確かだ。近くに川があるせいか、雨が降っていないのに、どことなくじんわりとぬかるんでいた。

 淡く白い霧の中を進んでいくのだが、その歩みは遅い。自然に踏み込んでいくとき、私は恐ろしさを感じる。放り出されたような気分になるのだ。寄る辺もなく、試されているような気になる。

 季節は梅雨。春が終わり、夏が近づいている。花は一通り咲き終わって、青々とした葉が生い茂っていて、それが何なのか私には分からない。遠くから犬のはあはあという荒い息と、初老の男性がこちらに向かってきた。彼らは先客だったようで、部屋へと引き返すところだった。

「それはね、シャクヤクだよ」

 へぇ、と私は返す。田舎の人は植物に詳しい。なぜ私が植物に興味がある人間だとわかったのか、あれこれと説明をしてくれた。初老の男性が連れているゴールデンレトリーバーは暑さに弱い犬種で、既にこの時期でも垂れた口元に泡立ったよだれが見えた。

 しばらく会話した後、彼らと別れ、私は先へと進む。

 この道は散歩道だと書かれたが、結構な距離がある。それなりに進んだだろうというところで、ついに藪が目の前に広がった。そこに、見たこともないような花が群生しているではないか。これはついに、見たことがない花に出会ったと喜んで私はスマホで写真を撮った。

 まるで糸のような花弁が水筒類を洗うブラシのように生えていて、背丈は50センチぐらいある。それが、わたしたちはここに咲いてます、と知らせるように群生していた。

 ヒトリシズカ、という花かと思ったが、どうにも特徴が異なる。ヒトリシズカも都会にいれば目にすることはない。朝ごはんの時間が近くなり、私はしかと記憶にとどめ、その場を後にした。何となく、荒らしてはいけないのだろうと思いながら、決してその植物に触れることなく、踏み入れることもしなかった。そこは彼らの聖域なのだから。

 その植物はシライトソウ。県によってはレッドリストに指定されているようで、珍しい部類に入るのか。彼らの聖域で荒らしてはいけない、と感じた私の直観は間違いではなかったのだろう。

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