第16話 「死」or「無」

私の「死」への個人的考えで、きちんと「死」を考えている方


には嫌な思いをさせてしまうかもしれないので、読まないで


頂いて大丈夫です。_(._.)_


母の周りは、年齢が高いせいか、健康への意識が高い。


自分の体を大事にするのはとてもいいと思うが、


「死」への不安とか恐れで、健康になると思う物をいろいろ


買い続ける人、ひどくなると、これがあれば安心と、


何十万もする布団や、何百万もする健康器具を買っている。


「死」がそれほど身近で、恐ろしく感じるからだろう。


買っても、又、不安になるから買い続ける。


欲しいのは、商品じゃなくて「安心」だから。


年齢がもっとあがらなければ分からないのかもしれないが、


そもそも、「死」とは本当に恐ろしいものなのだろうか?


確かに、死ぬ瞬間は、出産のように、一瞬の苦しさはあるのかも


しれないが、死んだ後の事は誰にも分からない。


確かめる時は、死んでるし。


なのに、なぜ恐ろしいことになっているのだろうか?


誰がそう決めたのか?


それとも、「死」が怖いのではなく、「無」が怖いのかな?


自分というアイデンティティーが「無」になる事が恐ろしいの


かな?


歳を重ねていくうちに、若い頃から積み上げてきた


アイデンティティーがどんどん喪失していく事でさえ恐ろしい


のに、「無」であるなら、なおの事耐えられないだろう。


「今までの自分の人生はなんだったんだろう?」ってなるに


違いない


「アイデンティティーの喪失」という恐怖なら、条件づけして


いた自分しか愛せていなかったという事に気づくことだから、


最終的には、生まれた時の自分のように、何の


アイデンティティーもない自分すら愛せれば、克服できるが、


「無」となると、死んだ後、自分がどうなっていると


考えているかが大切だ。


そして、死後の事が確認できないということは、確認できない


方が、私達が成長できるからだと思う。


ならば、自分のこの生きている人生が、安心して幸せだと


感じるような


死後の設定を、自分でしておけばいいと思う。


大切なのは、自分にとって幸せだと思える設定を、


自分でするという事だ。


宗教や、いろいろな考え方の人がいると思うが、どんなに


偉い人がいっても、自分自身が幸せだと感じなければ意味が


ないから。


例えば、死後は、私達が、生まれる前の記憶がないように、


認識できず、全く記憶がない状態だから、心配してもしょうが


ない。


あったら、その時、死んでから考えようと思うとか。


もしくは、逆に、死後もあり、どういう世界かわからないなら、


すごく楽しい世界と思ってもいいのではないか?


もし、死んだ後の世界が天国みたいだったら、


私は、きっと「死」を恐ろしい物と定義して、恐れの中から


いろいろな事を考え、選択してしまった自分の人生を後悔する


だろう。


「あーこんなに楽しい世界なら、心配して損した」くらい思う


だろう(笑)


ちなみに、私は、人は、死後「水」のようだと思っている。


固体が気体に変化しているだけ。


「水」はどんな形でも、目に見えてなくても「水」だから、


私も、見えてなくても、「私」であったらいいと思いたいから。


死んで気体になったら、生きてる時に行けなかった場所にいって


みたいし、会いたかった人にも会いたい。


そして、死後の世界があるなら、探検してみたい。


だって、生きている時には、誰も知らなかった事を知るチャンス


だから。


私が余命宣告された時は、子供達に


「もし、あの世があったなら、困ってそうな時とか寂しそうな


時は傍に来るけど、お母さん、向こうで好きな事したいから、


忙しいと思う」


「あなた達も、こちらの世界を楽しんで、数十年後に、


又会おう!」


と言いたい。


きっと、いつものように、うちの子達は苦笑いするだろう。

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