After.8 怪しい男


冷たい宵風を頬に感じながら、俺はふるりと身体を震わせ両手をポケットにねじ入れた。

今ではすっかり通い慣れてしまった夜道を、一人黙々と歩く。

時折車がびゅんと傍らを通り過ぎた。ヘッドライトの眩い光が辺りを照らす。光の中に浮かびあがった風景は、瞬きをしている一瞬に深い闇の中へ姿を消してしまう。


路傍で落ち葉が舞い上がって、アスファルトの上を転がりながらパリパリと微細な音を立てていた。


冬真っ盛りって感じだなぁとしみじみしながら、先ほどコンビニで購入したアイスクリームを見て思わず苦笑した。

こんなに寒いのに―――でも、大河原さん、昨日食べたいって言ってたんだよな、このアイス。多分、これだったと思うんだけど。


ぴゅぅっと風が鳴る。全身の熱が奪われていくのをひしと感じた。

あぁ寒い、寒い、急げ俺、とポケットの中の両手に力を込めて、首を竦める。足の速度を少し速める――――そのときだった。


「君!……―――――ちょっといいかな?」


ぽん、と肩を叩かれて振り向くとそこに一人の男が立っていた。

誰だろう?知らない、顔だ。

きっちりと固められた髪に、皺ひとつない真黒なコートを着て、きゅっと深く眉根を寄せていた。

「あ、はい、何ですか?」と答えると男は何も言わずにぐぅっとこちらに顔を近づけてきた。

何だか妙な威圧感と恐怖を感じて、思わず後ずさった。


「―――君に尋ねたいことがある」

「え?おれですか?」

「そうだ。実は今、私は道に迷っている」


「この住所の家を知らないか?」と男は1枚のメモ用紙を差し出してきた。ふむふむとそこに書かれている住所を覗き見る。


「うーん」

「どうか、知ってるかね」

「すいません。実は俺、ここら辺の住所あんまり詳しくなくて」

「うむ……そうだったのか」


「それは残念だな」と男は深く眉根を寄せて溜息を吐いた。落ち着いた低い声、ただ歳をとるだけでは決して醸し出せない威厳というものがひしひしと伝わってきた。

何か凄く仕事が出来る上司って雰囲気だ。

コートの下から覗いているスーツも、ネクタイもとても高級そうなものだった。

メモ用紙を受け取る右手首に、キラリと時計が光る。これが、ろれっくすってやつか……と新しい学びを得たような気持になった。


「困った、まさかこんなことになるとは」


はぁと男は深いため息を吐いた。

彼を取り巻いている威圧的な雰囲気がしゅるしゅると一気に収縮していく。すっかり困り果てた顔で小さなメモ用紙とにらめっこしているその男を見ていると、何だか妙な義務感を感じ始めた。


「地図とかありませんか?それなら俺、案内出来そうな気がするんですけど」

「いや、生憎地図はなくてね。これしか―――」

「あ!タクシー呼んだらどうですか?それだったら」

「――――駄目だ!!!」


急に男が叫んだので、ヒッと思わず後ずさりした。

しかし男は一人俯いて何やらぶつぶつと呟いている。


「タクシーは使わないと決めたんだ……今日は歩いて、私は……」

「あ、はい、そ、そうっすか」

「うむ、だが、しかし―――」


こんなことになろうとは、こんなことになろうとは、と独り言を男は繰り返している。

何かワケアリって感じだ、このおじさん。もしかして大切な用事があって此処まで来たのかも。

何かこっちまで不安な気持ちになってきた、と男をそのまま置いていくことが、躊躇われた。


(そうか!)


ふと、次の瞬間浮かんだ考えに俺は手を打っていた。何も悩む必要なんてない。

「君、何か思いついたのかね」と男がそれと同時に顔をあげた。


「はい!あの、俺、今からこの近所の家に行くことになってるんです。もうあとちょっとで着くんですよ」

「ふむ?」

「だからとりあえず、おっさんも俺と一緒にそこに行きましょう!」


そう―――彼女なら、きっとこの辺の住所について詳しく知っているに違いない。

ネットで探して地図を見ることもできる、一発だ。うん、我ながらのナイスアイディア!


「君と一緒に……?」

「そうです、とりあえず、俺についてきて下さい!」

「うむ」

「ここら辺に住んでる人に、聞くのが一番いいですよ。こんな時間だし、多分ここで待っててもあんまり人通らないし」

「いやしかし」

「あ、大丈夫です!俺、全然怪しい奴とかじゃないですから」

「そういうわけではなく、いいのかね?私が一緒に行っても。君にも用事があるのだろう?」

「うーん。でも、それはおっさんも同じじゃないですか、何か大事な用があって、此処まで来たんじゃないですか?」

「あぁ、その通りなんだ」


冷たい風が背中を押した。う、お、寒い!と顔を顰めつつ、男に向き直って笑いかけた。「だったら、ほら、急ぎましょう!もう、すぐそこなんですよ」と言いながら。



一つ目の角を曲ったとき、それまで黙っていたおっさんが「しかし、君から見れば」と不意に口を開いた。そ


「―――私は、”おっさん”なのか」

「え?」


いきなりそんなこと言われると思わなかった「いや、その」と思わず逡巡していると「いや、すまない。そんな呼ばれ方を今までしたことがなかった」と至極真面目な顔でおっさんは答えた。


「私は、今年で46だ」

「へ、へぇ」

「…」

「いや!あの、46にはあんまり見えないです!背も高くて、肩幅もあって、スーツが似あって、格好良い男って感じがしますっ!」

「別にそういう答えを期待して言ったわけじゃない」

「いやでも、本当っすよ」


高級スーツを身にまとう彼の姿は、実際かなり様になっていた。

何かよくわからないけど、”偉い人”って感じがする。

自分がスーツを着てもこんな感じにはならないだろうな、とふと思った。俺には多分、作業着とかジャージの方が似合うんだろうなぁ、と。


「君、名前は?」

「名前?あ、榎本です、榎本淳平っていいます」

「学生かい」

「高2です。あ、でも今年でも、受験生です」

「ほぅ、じゃぁ―――私の娘と同い年だ」


そう呟いた一瞬、おっさんを取り巻く空気が和らいだ。その笑みに急に親近感を持ち始めて「そうですか」と笑顔で答えていた。

「あの子も、もう高校生か」と呟いた。そのときふと、おっさんは首を傾げこちらを見た。


「ときに榎本くん。君は、この辺に住んでいない、とさっき言っていたね」

「はい」

「こんな夜遅くに君は友達の家に行くのかね?」

「カノジョとの約束あるんです。一緒に夕飯食べようって、だから最近ここら辺には、毎日来てるんですけど、住所はちょっと……」

「毎日、約束して君は通ってるのか」

「そうです」


ついうっかり「俺が会いたくて、ただ、行ってるって感じなんですけど一緒に夕飯食べてるだけで幸せで……」と妙な惚気まで加えてしまった。

すると急に、男の肩がわなわなと震え始めた。


え!もしかして怒られる!?高校生がこんな夜中に……とか―――?

ちらり、と横目で様子を窺って、驚いた。男が笑ってたから。


これまでの厳格な雰囲気からは想像できなかったほどの、伸びやかな笑い方だった。


「そうか、そんな子がいるのか、君には」

「は、はい!」

「そうか。それが一番いい。会いたいときには会いにいって一緒に食事をする」

「?」

「君の彼女は幸せ者だな、きっと」

「おっさん……」


これが大人の男の風格、というやつなのだろうか。なんだか一人前の男として認められたような心地になり、思わず背筋が伸びた。


「おっさんの娘さんにも、いるかもしれないですよね」

「ん?」

「そういう男が、です」

「知らんな、私は何も」

「あ、そ、そうですか」

「いやしかし、そうかもしれない。そういう男がいるのかもしれない。むしろ――……そうであってほしいと願う、私は」

「?」

「会いたいとあの子が望むなら毎日でも会いに行くような、そんな男があの子の傍にいたらいい」

潔いその言葉に驚いて思わず「寛大だ」と呟いてしまった。やっぱり何かこのおっさんは、カッコいい。男として何か憧れる要素が詰まってる、そんな感じがする。


「そしたら私は―――……彼に頭を下げて、礼でも言うかな」

「ぉぉっ……」

「しかし」


おっさんは小さく首を振った。とても悲しそうな顔で「これは、私の単なるエゴだ」そう付け加えて、何故だか目を伏せたのだった。



クリーム色の長い外壁を辿るように、真っ直ぐ歩いて行き左折した。植木で覆われた開放的なエントランス、見えた表札を指さして「あ、着きましたよ」と後ろを振り返って呼びかけた。

すると―――何故かおっさんは、唖然とした表情で氷のようにその場に固まってしまった。

どうしたんだ……と考えて、すぐに閃いた。そうか、おっさんもこの家の大きさに驚いてるんだ……。




「いやぁ~俺も、びっくりしたんですよ、最初!何かの公共施設かと思っちゃったんです」

「…公共施設」

「だからうっかり庭に侵入しちゃって…あーなんか懐かしいなぁ」

「っ……!?し、侵入だと、君!?」

「そんな俺を彼女は拾ってくれたというか、生きる喜びを与えてくれたというか、こうして俺も今では脱ホームレスです」

「だ、脱ホームレスって君、は……というか此処は」

「俺が毎日会いに来てるカノジョの家ですよ、あ!ちょっと、待ってて下さい!今呼んでくるんで――――…」

「い、いや、ちょっと、待て!!!君っ」


ガシッと俺の右手の裾を掴んで、口をパクパクさせた。先ほどの落ち着きぶりが嘘みたいな様子に、俺が驚いてると後ろから声がした。


「あー!榎本!」


ぱっと前に向き直ると、反対側の曲がり角からひょっこりと彼女が顔を出して近づいてくる。

自分に向かって走ってくる姿が可愛いな、なんて惚けつつ「あれ、大河原さん、外出てたんだ」と尋ねると「うん、アイス買いに向こうのコンビニ行ってたんだ」と無邪気に笑い返された。


「うわぁー!俺、買ってきちゃったよ、アイス2こ」

「え?やった~いいよ、私二つ食べるから」

「大河原さんお腹壊すんじゃない?冬だよ、今」

「温かい部屋でぬくぬくアイス食べるが好きなの、私。それこそが至福の極みなのでありまする」

「ふぅん、さようでありますか」

「うむ、いかにも。ねぇ、やっぱり、榎本の携帯買おう?行き違いになるの最近多いじゃん、不便だよ、ね?」

「でも俺、こないだ自転車買っちゃったから……」

「そんなの別に、私がお金―――」

「否!」

「あぁーぁ!もう散々携帯にしなよって言ったのに!結局、使ってないじゃん!あの妙にハイテクな自転車」

「あれはさ、いざって時に使うつもりなんだって」

「いざって、何それ、何時のこと」

「いざは、いざ、例えばほら―――」

「ねぇ、榎本」

「ん?」


「あそこに誰かいる……え、誰?知り合い?」

「あ」


はっとして、俺は後ろを振り返った。

そうだ、忘れてた!とうっかり調子で「おっさん」と呼びかける。

返事が、ない?


自分たちとは遠く距離をとって、おっさんは暗闇に立ち尽くしていた。何故だかこちらに背を向けている。

何故だか猫背で、ビクビクと震えていて怖い。先ほどの少し威圧的で洗練されたカッコいい男の雰囲気はすっかり影を顰めていた。

後ろ姿が小さく見えるのは気のせい?


不安そうな顔でこちらを見ている大河原さんに気付き、慌ててフォローした。


「さっきここに来る途中で会ったんだ。何か道に迷ってるみたいで」

「知り合い?」

「うん、さっき出会ってさ」

「それって知り合いじゃないと思うけど…えーと、それで?」

「探してる住所、大河原さんに聞けばわかると思ったんだよ、だから一緒に此処まで来たんだ」

「うわ、さすが榎本って感じ……」

「いや、それほどでも」


いつまでも背を向けたままのおっさんを見ながら、大河原さんは不安そうにそっと屈みこんで耳打ちしてきた。


「何か、ちょっと怪しい感じだよ?大丈夫なの?」

「そんなことないって、おっさん、良い人だから」

「またすぐそうやって、もう!大体榎本は―――――」


「―――……優美」


その時、強い風が吹いた。がさがさがさ、と枯れ草が擦れ合う音が辺りに響いた。おっさんの声はあまり大きくなかったけど、でもしっかりとこっちまで届いてきた。


ん・・・・?ゆうみ?


思考が一瞬止まってる間に、白い月を背にしておっさんはこちらに向き直っていた。

ガサッと後ろからビニール袋が落ちる音がする。

振り返ると、暗闇の中で硬直している大河原さんの姿がそこにはあった。目がいつもの2倍ぐらいの大きさに見開かれていて、首の角度が不自然なまま固まっていた。

そして、大河原さんが衝撃の一言を放った。


「――…お、父さん?」


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