After.2 意外な特技


アイスが食べたいと思った、唐突に。


床に転がっていた私はちらと顔を上げて、榎本を見た。夏休みの間中、バイトに明け暮れていた榎本の目前に今や積み重なっているのは大量の―――課題の山である。

はぁーとあからさまな溜息を吐いて、榎本は頭を掻きむしっていた。

私は何も見なかったことにして、ゴロンと寝がえりをうった。つまらない、と思った。


「大河原さーん……起きてる?」

「ぐぅ」

「あ、いびきかいてる」

「かいてません」

「ちょっと、教えてほしいとこあるんだけどさ……」

「give and take」

「はい?」

「アイス買ってきてくれたらいいよ」

「えー」


ぐたん、と榎本は机の上に横たわると「俺、さっきバイトから返ってきたばっかだよ」と唸り始めた。

確かにと思いつつ、それでも榎本に勉強を教える気にはなれず私は床に転がったままだった。私だって昨日やっと自分の課題を終えたばかりなのだ。残りの休みはもう、勉強なんてしないって決めた。

けど、このまま寝ててもつまんないなぁ……。


私はのっそりと起き上がって、居間を出た。

そして再び居間に帰って来た私が両手に持つものを見て、榎本が少々唖然とした顔になった。

分厚い埃を被ったその箱を指さして「何ソレ?」と榎本が問う。私はニヤリと不敵な笑みを浮かべ「チェス」と答えた。


「榎本クンは、チェスのルールをご存じかしら」

「まぁ、それなりに」

「だったら―――勝負を致しましょう」


私の言葉に「ほほぉーぅ」と榎本は笑みを浮かべると、いそいそと机から離れてこちらにやってきた。


「榎本が勝ったら私、教えてあげるよ、数学でも英語でも、何でも」

「なるほどね、じゃぁ大河原さんが勝ったら、俺はコンビニ行ってアイスを買ってくる」

「男に二言はなし、よ」

「勿論さ」


「大河原さんこそ、ね」と言ってヘラリと笑った榎本に、私は余裕の微笑を浮かべていた。

残念だったわね、榎本―――……私の勝利は決まっているも同然、と自分のチェスの腕に過信をしながら。


私は榎本の笑みの理由を、これっぽちも考えていなかった。


そして、それから2時間後の現在に至る。


「――――チェック」

「!」


ヘラリと余裕の笑みを浮かべた榎本に、私はうぅっと言葉を詰まらせていた。

この状態を打破する、ありとあらゆる手を考える、考える、考える、けど!

何時までも動かない私をじぃっと榎本は見ながら笑みを強めていた。

さっきから、この繰り返しが続いていた。

逃げる、追われる、逃げる、追われる。まさか、こんな事態になろうとは思いもしなかった。

私が暫くチェスをやっていないというのはあるけど、でもそれにしたって……。


榎本は――――強かったのだ、チェスが、とても。


「そろそろ、諦めて首をお渡しあれ、国王よ」

「くっ、我が国はそう簡単に滅びたりせぬ……とうっ」


慌てて駒を動かすと、ひょいっと榎本は駒を操り、わが国最後の頼みの綱であったビショップを奪い去った。

「あぁ!」と叫んだ私に榎本は「へへぇ」と笑う。

もう絶対負けだ、また私の……。

悔し過ぎて、私は思いっきり榎本を睨むと地団駄を踏んで叫んだ。


「榎本のばかぁ!」

「ははは、俺の勝ちだね」

「うう、もう寝る」

「男に二言はないんだよね?大河原クン」

「私、女だもん」

「いやぁ~さて、何手伝ってもらおうかなぁ、やっぱり数学かな」

「くぅ!」


私は「悔しい、悔しい、悔しいっ!」と一人唸りながら悶絶していた。そんな私に平然と榎本は言い放った。


「いや、実は前にやってた夜警のバイトにさ、いたんだよ」

「何が」

「アマチュアでチェスやってるおじさんが。で、教えてもらってそれからずっーと毎晩一緒にチェスやってたから、結構自信あったんだ」

「…」


ずるい、だったら先に言ってくれれば良かったのに。

勝負を持ちかけた時の榎本の不敵な笑みはそういうことだったのか。だったらヘラリとかじゃなくってもっと不敵に笑ってほしかった。

ニヤッとか、フフッとか……。


「榎本……」

「んー?」

「得意なモノ、今度から履歴書に書くのチェスにした方がいいよ。食べれる草、見分けるとかじゃなくって」

「そっか」


「じゃぁ、次からはそうしようかな」と能天気に笑う榎本の様子に、再び悔しさがこみ上げてきた。

隣に座ってため息交じりにベクトル云云言いながら、思う。

また明日、絶対にリベンジしてやるんだから……と。

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