After.1 海に行こう


「大河原さん、明日一日、予定ある?」

「明日?明日は別に……」

「じゃぁ、海に行こう」

「はい?」




私は冷やし中華の具の一つである細切り胡瓜を箸で摘まんだまま、思いっきり怪訝な顔で榎本を見た。そんな私にヘラリといつもの笑みを浮かべて榎本はもう一度、言葉を繰り返した。


「海に行こうよ、海」

「えーと……海って……いきなり、何でまた」

「だって、行きたいんでしょ?大河原さん」

「行きたいって何処に」

「海に」


ちょっと待って、何で榎本の中で私は海に行きたいことになってるんだろう…と心底疑問に感じながら試しに「私、海よりも山が好きなの」と言ってみた。

すると途端に、榎本は箸を置くと神妙な表情を浮かべながらこう言った。


「大河原さん―――全ての生き物は海から誕生したと言われているんだよ。知っていたかい?」

「えぇ、まぁ、存じておりますけれども」

「初めて宇宙から地球を見た宇宙飛行士は、こう言っている……地球は青かった―――そう、彼が見たのは地球を覆う海の青さだったんだ、君は知ってるか!地球の70%を占めているのは海なんだ!」

「はぁ」

「海は偉大だ、果てしなく広い、どこまでも続く地平線、波の音」

「?」


そして榎本はオホンと咳払いをしてじっとこちらを見つめながら

「大河原さん」と私を呼んで言った。



「そんな場所で一日、汗水流して働いてみるのも悪くないと思わない?」



暑い……


ぎらぎらと真っ白に輝く太陽、焼けるような熱を放つ砂浜、其処彼処から聞こえる子供たちの黄色い声、空と海の境目がきらきらと光を反射して輝いている。

私が今いるのはそんな場所。あまりの暑さに全身から汗を噴き出しながら。

そう此処は、夏休み真っ盛りの海水浴場。その浜辺中央に位置する海の家の焼きそばコーナーの巨大鉄板の前―――――……。


「はい!焼そば2人前ね!優美ちゃーん、ソース補充してー!」

「は、はいっ」


ソース、ソース、えーと、これ?と、棚の中を漁っている間に、また後ろから呼び声が聞こえてくる。


「優美ちゃん、かき氷、回して二つ作っておいて、イチゴ味と、レモン味二つ」「は、はい」

「おいおい、ソース、ソース麺焦げてるぞぉー」

「はーい」

「あのーすいません、イカ焼き二つ下さい」

「あ、はいはい、えーと……」


とにかく人、人、人、人だらけだ。確かに今日は、絶好の海水浴日和―――しかも休日。

作っても作っても、働いても働いても、お客の数が減る気配がなかった。がやがやとした喧騒の中で、微かに波の音が聞こえた。

ざざん……

何だか妙な腹正しさがふつふつと沸き起こる。


「騙された」と思わず呟くとTシャツ姿で頭にタオルを巻いた榎本が「えぇ!?誰に?」と心底心配そうな顔をして私の隣にやってきた。

ギロリとそんな榎本を睨みつけて、私は叫んだ。


「アンタによっ!ばかぁ!」

「え―――俺?」

「そうよ!何が母なる海よ!波の音よ!そんなの見てる暇もないじゃない!」

「うーん、去年はここまで忙しくなかったんだけどなぁ……」

「もうやだ、私帰る」

「あはは、大丈夫大丈夫、今がピークだから、そのうち楽になるよ」

「…」

「暇になったら海入れるよ、あ、あとで花火もやるって」


楽しみだなぁ、あはは、と笑う榎本は額から汗を流しながらも余裕の表情を浮かべていた。

そりゃ今までありとあらゆるバイトを連日連夜こなしてきた榎本にとって、こんな仕事は屁でもないに違いないでしょうよ、と私はぐすんと鼻を啜る。

労るようにポンポンと頭を叩かれたので、私は顔を上げて榎本を見た。


が、店に訪れた客に榎本は「いらっしゃいませ!」と営業スマイルを浮かべて背を向けてしまう。

大学生らしき女の人が二人、榎本にニッコリしながら言った。


「あのぉ~すみません…えぇーと」

「はい、何にしますか?」

「焼きそばと、トウモロコシを二つ、お願いしまーす」

「はい、わかりましたっ!」


爽やかに叫んだ榎本を見て、ちらりと二人が目配せするのが見えた。

それから何やらこそこそ相談し合うように顔を寄せたあと、もう一度上目づかいに榎本を見つめ「あのぉ~ちょっと、聞いてもいいですかぁ?」と声をかけてきた。


「はい、何っすか」

「えっと、あのぉ……お兄さんって、大学生ですか?」

「え?俺、ですか?」

「そうでぇーす」

「えっと、まだ高校通ってますけど……」


少し狼狽しながら榎本が答えると、黒ビキニの女が「ほらぁ~やっぱそうだったじゃん」と叫びだした。

その隣で花柄ビキニの女が「えぇー見えない見えないぃー全然アリアリ」と手で顔を覆う。

そしてまた何やらヒソヒソと相談し合うと、こちらに向き直って言った。


「あの、実は私たちこの先のホテルに泊まってるんですけどぉ」

「はぁ」

「もし今日の夜とかヒマだったら私たちと一緒にご飯、しませんかぁ?」

「え」

「あ、良かったら名前、聞きたいなぁー?ちなみに私たち……」


「――――はい、焼そばっ!お待たせしました!!!」


私は、パックにパンパンに詰め込んだ焼きそばを、ぐいっと榎本の横からその女に差し出した。彼女の視線が一気にこちらに向き、一気に冷やかなものへと変わっていくのがわかる。

しかし私は平然とした顔でトウモロコシを二本、榎本の手から奪うと、無理やりそれを差し出した。

「ありがとうございました」と努めて爽やかに私が笑うと、女は渋々と財布からお金を出しながら、小さく舌打ちをした。

二人が去っていくのを見届けて私は、ほぉと思わず息を吐く。


我に返ってふと横を見ると、榎本が私の顔を見ながらニタニタと笑っていた。

あまりに腹立たしかったので、その足を思いっきり踏みつけると榎本がぎゃぁと奇声を上げた。


「いだ、だ、何、何でいきなり足踏むんだよっ」

「別にぃ?なんか浮かれてるみたいだから、踏んだだけよ」

「浮かれてる?」

「顔にやけてるわよ、良かったねぇ逆ナンされて」

「いや、だから前にも言ったけど、俺、ああいうの苦手なんだって」


ふぅんと呟きながら私はふいっと下を向くと「その割には嬉しそうじゃない」と言ってお札を数え始めた。

「うーん~なんか、可愛いかったからさ」と何やら照れるように答えた榎本。

結局男は水着の女に弱い生き物らしいと私は実感した。

嗚呼、暑い、やっぱり帰ろうかな、と思って空を仰ぐと、榎本がボソリと小さく補足を付け加えた。


「―――――…大河原さんが」

「え?」

「いや、だから…―――あ、いらっしゃいませ!焼きそば3つに……――――」

「…」


客の対応に追われながら榎本は、私の傍から離れていった。真っ青な空に浮かぶ巨大な入道雲。暑い、なぁ、やっぱり暑い、目が眩むほど。

きゅうっと目を細めて視線を下ろす、空、海、砂浜、人込み、鉄板、焼きそば。

息を吸い込む、香るのは、潮風と、汗と、イカの匂い。

私は前を向いたまま、ひたすら手を動かした、時折榎本がこちらを見て笑っていることに全然気付いてなど、いない、ように。

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