第8話 空っぽの家

午後8時。

私は両手いっぱいに、たくさん洋服が入ったショップ袋を持って帰宅した。

塞がった右手を捻ってどうにかポケットから鍵を取り出すと、ドアを開け暗い玄関の中に入る。


"明かりが点いていない玄関って嫌だよね"


誰かが前にそう言ってたけど、私にとって玄関は昔から明かりの点いていない空間でしかなかった。


一面が闇に覆われた家の中は外の暑さが嘘の様に、真夏日にも関わらずひんやりとして涼しかった。コチコチと規則正しく時間を刻む時計の音を聞きながら、私は荷物を床に置くとソファに腰を下ろす。

そしてそのまま”考える人”のポーズをとりながら、私はハァとため息をついたのだった。


夕飯、何も準備してない。


そして裏庭のある窓の方をちらりと見た後、もう一度ため息をつく。午後から久しぶりに真理と遊びに行った私は、今日一日のストレスを解消するかのように服を買いあさった。

その後、二人でラーメンを大盛り食べた後、デザートに苺パフェまで食べてきてしまった。


榎本は、何も食べてないよね……きっと。


悶々と考え込んでいた私は、バッと立ち上がると冷蔵庫の中を見た。昨日の残り野菜がまだ少しあるしご飯も幾つか冷凍されてる。

うん、これなら大丈夫。

何か簡単に丼ぶりでも作ってやろうかな、それから色々話したい事もある。榎本と山田の関係性も気になるし、せっかく元気になっても数学の時間は寝てばっかの事も文句を言ってやりたいし。


そんな事を思いながら私は一人うんうんと頷くと、裏庭の窓をガラリと引いた。


すると、ヒラリっと一枚の広告が風に靡き、部屋に入って来た。

どうやら窓枠に挟まっていたらしい。

”これで貴方もフサフサに・・・発毛促進!”という広告を裏返すと、汚い字で何やらメッセージが書いてあった。



今日はみんながパーティーをしてくれる事になりました。夕飯、大丈夫です。 

えの本 



「……あ、そう」


私はしばらくその紙を見つめた後、グシャグシャに丸めてゴミ箱の方に軽く投げた。

しかしそれはゴミ箱の淵に当たると空しく跳ね返り床に落ちる。家に帰宅して早3度目の溜息をつくと、私はごろんとソファに寝転がり目を瞑った。


―――――――馬鹿みたい。心配なんて最初からしなければ良かった。


考えてみれば、私が榎本に夕飯を作る事に何の義務がある訳でもないのだ。ただ榎本がうちの庭に住んでいる。ただそれだけの御縁。

榎本だってお金が貯まりさえすれば、ちゃんとアパートを借りてうちの庭から……


「うちの庭から、いなくなる」


思わずそう呟いた私の声が、居間の中に小さく響いた。完全に窓を閉め切ったこの部屋は驚くほど静かで、昨日までは気にならなかった冷蔵庫とクーラーの小さな電気音がやけに耳につく。

それに共鳴するように耳の奥から微かな耳鳴りが聞こえ始め、私は耳を塞いだ。


最近ずっと止まってたのに、いつまでも収まらない耳鳴りが五月蠅い。

なのに、すごく、静か。


「榎本が、いなくなる」


誰もいなくなる。この家に私以外、だれも。



午後10時。

月明かりで照らされた裏庭に私は一人立っていた。私と向かい合っているのは他でもない。段ボールで出来た榎本渾身のマイハウスである。そして今、私はまさに榎本の小屋に侵入を試みようとしている。


「べ、別に、いいわよね。何か盗むわけでもないんだし」


それに榎本は何度も私の家に入っているのだから、私にもこの小屋に入る権利があるはずだ。そんなむちゃくちゃな言い訳を考えながら懐中電灯で中を照らし、私は入口に頭を突っ込んだのだった。

狭い、暑い、何か汗臭い!!!でも、我慢!


何故、私がこんな事をしているのか?何とも言いずらいのだが、ここはあえて率直に言おう。


――――…榎本の預金金額が気になったからである。


別に疾しい気持ちはこれっぱちも無い。ただ、気になるのだ。


榎本がうちの庭に住みついて1か月。もし或る程度のお金がすでに貯まっていたら、きっと榎本は来月にでもアパートを借りていなくなるだろう。出来れば、そうなる前に私は……。


私は一体どうする気なんだろう?


胸に有り余るほどの矛盾を抱いてるのに気づきながら、私はそれを拭い去る様に頭をぶんぶんと振る。

そして「ごめんなさい!勝手に入ってごめんなさい!」と呟きながら私は小屋に唯一あるボストンバックを開けた。中には歯ブラシ1つ、英単語帳1冊、こないだあげた髭剃りが1つ、ガムテープが1つ、以上。


周りにあるのは数着の服と下着1枚の布団だけ。


(そんな馬鹿なっ!?預金通帳どころか、本当に何もない!)


どうしようもなくなった私は、がっくりと頭を下げた。一体自分はこんな処で何をしてるんだろうと大きなため息をつく。

ふとカバンのそばに履歴書が落ちているのが目に入った。何となく拾い上げそれを読みあげる。


「榎本淳平、12月25日生まれ、え?クリスマス?」

含み笑いをしながら私は更にその裏を見た。


「性格は誠実で忍耐強い…それから特技は……―――」

「不審人物発見!!!」

「!?」


真後ろから聞こえたその声に、私はギャッと奇声をあげて飛び上り頭を打った。そして恐る恐る振り返り、懐中電灯で狭苦しい小屋の入口を照らすと、闇の中にニタリと笑い顔が浮かんでいた。


「お、お帰り、榎本」

「ただいま」


私は冷や汗をダラダラ流しながら榎本に向ってわざとらしい笑みを浮かべた。

どうしよう、絶対怪しまれる。

ぐるぐる考えてる私の心臓の心拍数は一気に上昇し始める。

しかし榎本は笑みを浮かべたまま何も言わず、スィっと私に向かって手を差し出してきた。


「?」

「その中暑いでしょ。出てくれば?」


微かに頷いた私を確認すると榎本は私の手を優しく掴み、そのまま小屋から引っ張りだしてくれた。

外に出た途端、汗で濡れた全身に夜風の涼しさを感じ、私はハァーと大きく深呼吸をした。


「食べられる草か食べられない草かが、見ただけで分かること」


急にそんな事を呟いた榎本に私が「え?」と驚いた声を出すと「さっき言いかけてたでしょ、俺の特技」と言って笑う。

屈託ないその笑顔に、ほっとした私はさっきの履歴書を思い出して言った。


「それから誕生日クリスマスなの?なんかいいね、そういうの」

「全然良くないよ!誕生日もクリスマスも一括だからさ、ケーキも一つになっちゃうしさ」

「え~でも私、誕生日ケーキなんて一度も食べたこともないよ」


少し驚いた顔で榎本が私を見た。

あ、変なこと言っちゃった……と思わず舌打ちした私は話を逸らすように笑いながら言った。


「そういや榎本、帰ってくるの早いね。せっかくなんだからもっと楽しんでくれば良かったのに」

「気になっちゃって」

「何が?」

「大河原さん、今日なんか変だったから気になって」

「え?」

「うん」


「だから、帰って来た」

そう言った榎本の顔は全然笑ってなかった。じっと私の様子を窺う顔つきから本当に心配してくれていたのだと私は思った。

全然周りの事なんて見ていないと思ってたのに、妙に勘が良かったりするのだなと苦笑したまま、何故か何も言葉を返す事が出来なかった。

そんな私を見ていた榎本は不意に顔を緩めてこう尋ねてきた。


「大河原さん、誕生日いつ?」

「何よ、急に」


いきなり話題を変えてきた榎本を、訝しげに私は見た。


「俺のプロフィールは見られたのに、何か不公平だと思って」

「8月5日。特に何の日でもないわよ」

「じゃぁ、特技は?」

「家事全般」

「じゃぁ、性格は?」

「どうなんだろう、しっかりしてるのかな?あとは少し短気かも。それから」

「優しくて家庭的」


私は酷く戸惑った顔で、榎本を見た。

しかし榎本は優しい笑顔を浮かべたまま続けた。


「だって、急に怪しい奴に庭に小屋建てられても許しちゃって。雨の日にはタオルとお風呂まで貸しちゃって、夕飯まで作っちゃうほどお人よしで。それから人にお金あげるとか言うし、結構めちゃくちゃ。あと、いつも本読みながらソファでそのまま寝ちゃって、しっかりしてそうで、そうでもなかったりする」

「まぁ…そうかも…」

「あと、強がりばっかり言うけど本当は淋しがり屋でしょ~?」

「別に寂しいなんて、私、思ってませんけど」

「ほら、そうやって」

「悪かったわね。強がりで」

「でも俺、大河原さんのそういうとこ好きなんだ」


そう言ってヘラリといつもの様に笑った榎本の顔から、私は思いっきり目を逸らした。

熱い、体が熱い。ずっと小屋に入ってたから?

違う、そうじゃない。さっきから私の右手を掴んだままの、榎本の手が、熱いのだ。


私は、思いっきりその手を振りほどいた。呆気なく離れた榎本の左手は、一瞬宙を彷徨ってだらりと垂れさがる。私は下を向いたまま榎本に尋ねた。


「どうしたの?ねぇ、今日の榎本、変だよ。私なんかよりもずっと―――――」

「今日来てた友達はさ、中学の同級生だったんだ」

「え?」

「その中の一人の家がアパート持ってて、今丁度一部屋空いてるんだって。俺が住むとこないって話したら、特別に安く借してやるって親に交渉してくれたんだ。来月から使っていいって言ってくれて」


「だから来週までには、ちゃんとこの庭から出ていけると思うよ」

私の左手が握ったままの懐中電灯が、空しく榎本の足元を照らし続けている。

履き古されたくたくたのスニーカーをぼんやりと眺めたまま、私はただ立ち尽くすことしか出来なかった。

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