第7話 男、胴上げされる

洗いたての白いシャツを私は手に取ると台の上にのせて、ゆっくりとアイロンをかけ始めた。

ジュワッと気持ちの良い音と共にくたくたのシャツのとしわをアイロンはどんどんと伸ばしてゆく。私はその過程を見ながら、ニタニタと笑っていた。


「なんか髭が無いっていうのも物哀しいよなぁ」


アイロンのスイッチを切って、居間の入口に目を向けると榎本が自分の顎をすりすりと擦りながらこっちを見ていた。手には新品の剃刀とビニール袋を持っている。


「髭なんて中年になってから生やせばいいのよ!ほら、こっち来て」


私は榎本に向って手招きをした。そしてアイロンをかけたばかりのシャツと洗いたての制服を榎本に向って差し出した。

榎本は少し驚いた様子でそれらを見て、歓喜の叫びと共に両手を上げた。


「大河原さん、制服まで洗ってくれたの!?」

「ずっと気になってたのよ、アンタのくたくたの制服が。今日はこれ着て学校行くこと!」

「すっげぇ、うゎぁ~ふわふわ~」




榎本は嬉しそうに制服を受け取ると、顔に近づけて匂いを嗅ぎ始め「これ柔軟剤使ってるだろっ?」と楽しそうに言った。


「そのCM、ちょっと古くない?」

「俺が親戚の家を出てく時、最後に見たCMがこれだったんだ」


そっか、榎本がテレビなんて見ているはずがなかった……と自分の失言に気づいた私は少し下を向き「ごめん」と素直に謝った。

しかし榎本は私の頭をポンポンと叩いた後、いつもの様にヘラリと笑うだけだった。

そして、こう尋ねてきた。


「で、榎本改造計画は成功したの?」

「大成功よ」


私はそう答えてふふんと自慢げに笑った。


「ただ、少し下がり眉なのが気になるのよねー」

「これは生まれつきだからさぁ、妥協しといてよ」


左手の親指でぐいっと眉を引き上げる様な仕草をしながら、榎本は苦笑した。目の前に立っている榎本に、今や昨日までの彼の面影はない。


髭一つないつるつるの顎、本来の造りの整った顔立ちが活かされたヘアカット、頭の小ささを強調する事に成功した小ざっぱりと仕上げた頭髪に加えて、たっぷりと7時間睡眠をとった事により顔色もとても良い。

朝食もちゃっかりと食べ、全身から活力が漲っているのがわかる。


我ながら上出来!劇的ビフォーアフター!

心の中で叫びガッツポーズをしながら私は満面の笑みを浮かべた。


「こんな短髪になったの、本当に一年ぶり位だなぁ」

「きっとこれでバイトの面接も上手くいくと思うよ。それに、ちょっとは女の子にもモテるようになるんじゃない?」

「俺は別にモテたいとか思ったことないんだけどなぁ」

「榎本のくせに贅沢!」


そう言って抗議すると榎本はあははと笑いながら、私の頭にのせていた手を無造作に動かしながら私の髪の毛をぐっしゃぐしゃにかき回し始めた。


「わっ!馬鹿!せっかくセットしたばっかなのに」

「昨日のお返し」


榎本は平然とした顔をして手を止めようとはしてくれない。手グシで髪を整えようと必死で伸ばした右手に、榎本の手が触れた。

ほんの少し触れただけなのに榎本の手の温かさを、はっきりと私は感じていた。



今にして思えばこの時、私は一つ大きな間違いを犯していた。

あの時私はこう言った。


”榎本のくせに贅沢な”


違う、”榎本だから”言えたのだ……―――――――



榎本が教室に入った時、誰も何の反応も示さなかった。ほとんどの生徒が思い通りに友達と喋くりながら、今日の課題の写し合いをしている。


だが、しかし。


榎本が榎本の席に着いた途端、周囲の席の子たちが一斉に彼を凝視した。それを中心にさざ波が起きたかの如く、次第にクラス中が榎本を凝視し始めた。

皆の注目を一身に浴びている榎本自身はというと、活力が漲っているらしくフンフンとご機嫌で少し鼻歌を歌いながら机に教科書を詰めている。


訪れた暫しの静寂――――。


榎本から目を離すと皆、一斉に口々にコソコソと何かを激しく喋り合い始めた。


正直、ここまでの反響が起こるとは予想をしていなかった私は当の本人よりも、額に変な汗をかき始め、何故だか心臓までバクバクし始めていた。


何で私がこんなに動揺してるんだろう。別に悪いことしたわけでもないのに。

というか、大体みんな驚きすぎじゃない?で、やっぱり榎本はいつでもマイペースというか何というか図太いというか鈍感というか……。



「ちょっと、優美……ねぇ、アレどういうこと?どう思う?」


完全に興奮しきった真理が顔を紅潮させて前に座っている榎本を指さしながら、私に囁いた。


「あ!おはよう~真理!今日もいい天気~」

「天気なんてどうでもいいのよっ!それより前に座ってるの、アレ誰?」

「榎本の席に座ってるんだから、榎本じゃないのかな?」

「うっそ!有り得ない。何で、どうして、私には別人としか思えないっ!!!」

「ほら~髭剃って、髪でも切ったんじゃない?もう、夏だし」


私が引きつった笑みを浮かべながらそう答えると、真理は「そっか、夏だから」と少し納得した顔をしてふんふんと頷き始めた。

しかし、すぐに首を傾げると「いやいやいやいやいや別人だって」とブツブツ呟いている。

その時、噂の張本人である榎本がくるりと後ろを振り向き、私を見た。

そして、1時間前に家で見たのと全く同じ笑みを浮かべて私に右手を差し出しながら小さな声で言った。


「大河原さん、昨日言ってたやつ借りてもいい?」


一瞬、何のことを言ってるのか分からなかったがすぐに思い当った私は、いつもの様に呟いた。


「ほんと、図々しい奴」


私は鞄の中から小さなハンドタオルを出して、榎本の顔面に投げつけてやった。



「ねぇ、ねぇ、榎本クン…だよね?びっくりしちゃった別人みたい!どうして今まで髪切らなかったの?」

「俺、一人暮らししてるから、お金も無いしバイトで忙しくって」

「一人暮らししてるの?すごぉーい!」

「榎本クンって、どんなバイトしてるの?」


榎本は右手で指折りをしながら質問に答えた。


「色々やったよ~居酒屋、交通整理、新聞配り、ビルの窓ふき、警備員それから」

「すっごぉーい!そんなにいっぱいやってるんだぁ」

「だから、いっつも学校で寝てたんだねー。えぇ~意外!働き者!」

「榎本クンって実は喋り易い人っぽい~!もっと早く話かけとけば良かったぁ」

「もっと色々話聞かせて!」


昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。

キャッキャと騒ぎながら榎本の周りを囲んでいた女子達は、にこやかに榎本に手を振ると自分の席に戻っていった。

ふぅと、小さく榎本は息をついた。今日でもう、4回目である。


「良かったわねぇ。女子からチヤホヤされて」


私はシャープペンをくるくると回しながらボソリと呟いた。榎本はこちらを振り返ると、朝とはうって変わり疲れきった顔をして私に言った。


「もの珍しいんだよ、きっと」

「それだけじゃないと思うけど」


人は見かけがなんぼとかどうとかいう本が以前、ヒットしていたのを私は思い出していた。

あれは何割といっていたっけ?7割、8割、9割か?

ここまで外見によって周りが態度を変えてしまうのだな、という事を私は今日、榎本を通して痛感した。人間って恐ろしい。女子生徒だけじゃない。授業に訪れる教師たちもまた榎本の代わり様に驚愕していた。


中には面白がって榎本を弄る教師もいたのだが、実は元々その手のノリが上手な榎本はそれをさらりと交わし、クラスが盛り上がるという場面すら見られた。


きっと外見だけじゃなくて、榎本の人柄もあるってことも十分わかってるんだけど。


「俺、女子に一気に囲まれるのは苦手なんだよ」

「そう?その割には結構楽しそうに見えたけど?」

「えぇ~!?」


嗚呼、また可愛げのないことを言ってしまったと少し後悔しながら私は生物の教科書を開く。

榎本がこっちを見てるのはわかってたけど、私は面白くもなんともないミトコンドリアの写真をじっと見つめて黙りこんだ。



それから訪れた放課後。夏の日差しがさんさんと降り注ぐ学校のグランド前。


現在、私は此処で隣のクラスの山田と向かい合っている。

言っておくが、このシュチュエーションは別に私が望んだ訳ではない。今日の放課後は久々に真理と買い物に行く予定だったし、日焼け止めも十分に塗っていなかった私は出来るだけ早くここを去りたかった。


しかし目の前の山田はとても真剣な顔をしており、私は彼の誠意に答えなければならなかった。


「――――ごめんなさい」

「どうしても?」

「うん」

「でも、大河原、付き合っている人いないんだよね?」


返事をしても山田は意外と粘る。暑い、早くここから立ち去りたい。


「うん」

「じゃぁ、好きな人はいるの?」

「いないけど」

「じゃぁ、試しに俺と付き合ってみるのはどう?」


おいおい山田、どんだけ粘れば気が済むんだ……のどが渇いた、誰か水を……。

あまりの暑さに体が干上がってしまう、と本気で思った私はどうにかこの状況を打破しようと知恵をしぼった。

(こうなったら・・・・・!!!)

私は小さく妙な気合いを入れると斜め45度に俯いて寂しげな表情を造り、出来るだけ切なげに言った。


「あんまりこんな事言いたくないんだけど。実はうちの両親って小さいころからずっと仲が悪くって。そういうの見て育ってきたから私…人のこと、好きになれないんだ」

「え」

「――――だから、誰かと付き合ったりする気が、ないの」

「そうなんだ…」

「ごめんね?」


よし!!!いった!なかなかいいんじゃない?別に嘘はついてない。

これで山田もわかってくれるはず――――。

しかし、ぱっと前を向いて山田の表情を見ると、予想とは全く違い瞳をうるうるさせながらこっちをじっと見つめていた。


「大河原、実はそんな寂しい思い、してたんだな…グスッ……でも、俺は絶対に大河原を悲しませたりしないからっ!」


えぇぇぇ!?まさかの逆効果っ!?違う!!!私が言いたいのはそういうことじゃなくって!!!


思惑が外れた私は手に冷や汗をかき始め、ヒクヒクと顔が引きつり始めた。しかし山田はにじりにじりとこちらに近寄って来る。私はそろりと後ずさり始めた。


「俺のこと、好きになれなかったらそれはそれでいいんだ!その時は諦める」

「ごめん!私、本当に」

「俺、マジで好きなんだ!大河原のこと、だからっ」


そこで山田の動きが止まった。

そして私の後ろを見ながら目を大きく見開くとぱかっと大きく口を開け、ふるふる震え始めた。


一体何事かと私は後ろを振り向くと、校門から何人かの生徒が下校しているのが見えた。

その中の一人、機嫌良く独りでニタニタ笑っている男子生徒に、視線が定まる。

あ、榎本がいる……と私がそう思った、瞬間。


「―――――――淳平っ!!!!」


突然、山田が物凄い勢いで走り出した。

そして私の横を風の様に過ぎ去り、一目散に榎本の元に駆け寄りガシッと抱きついたのだ。


私は呆気にとられたまま立ち尽くしていたが、はっと我に帰ると二人の元に走り寄った。

見ると、山田はおいおい涙を流して榎本にしがみついている。


「淳平っ!!!お前生きてたんだなっ!俺はてっきりお前が、お前が死んだとばかりっ!」


衝撃のセリフである。

つまり山田の中で榎本は死んでたって事?そ、そ、そんな馬鹿なっ!


「あはは。生きてる生きてるよー。俺はそんなに簡単に死なないからさ!」


あっさりと衝撃のセリフを受け流す榎本に私は更なる衝撃を受けながら二人を見ていると、校舎から出てきた何人かの男子が山田の様に大きく目を見開き、こちらに走り寄って来た。

そして皆、榎本をじっくりと見た後目に涙を浮かべ、おいおいと榎本にしがみ付く。


「じ、じじ、じゅ、じゅ、淳平っ!!!?」

「い、生きてた……淳ちゃん!」

「何処に行ってたんだよ、お前!」

「まさか榎本なのかっ!お前、去年の夏に崖から落ちて死んだんじゃっ!」

「嘘だろ!奇跡だっ、淳平は、確かコンビニ強盗に刺されたって」

「振られた女が腹いせにストーカーになって包丁で刺し殺されたって聞いてたぞ」


彼らの口から発せられる衝撃のセリフに私は小さな眩暈を覚え、額を押さえた。

可笑しすぎる、この人たち。

1年間、榎本が学校にいる事に気づいてなかったってこと?うそでしょ……


「馬鹿だな、お前ら淳平は生きてたに決まってんだろ?」


私はその言葉にほっとした。良かった、まともなヒトがちゃんといてくれた。


「植物人間になっててアメリカで治療を受けてたんだよな!やっと目覚めたんだろ!淳平っ!」

「――――……んなわけないでしょうがっ!!!」


渾身のツッコミを放つように私は持っていたカバンを地面に投げつけていたが、誰も気づくはずがない。

彼らは口々に「そうだったのか」「なるほど、俺勘違いしてたー」と呟くと一斉に笑い始めた。


「よし!榎本の生還を祝して、今日は祭りだっ!」

「「「おぉー!!!」」」


彼らは一斉に拳を上げると、あれよあれよという間に榎本を担ぎ「ばんざーい」と胴上げまで始めた。

事情を知らない生徒達はは彼らを少し遠巻きに眺めていたり、驚いた顔で通り過ぎてゆく。

そして私は一人立ち尽くしていた。

こいつら、新手のコント集団か何かじゃないの……と心の中でツッコミながら鞄を拾い砂を払うと、彼らを無視して先に駅で待っている真理のもとへ歩き出した。


そう、榎本改造計画は大成功。

――――――それなのに何でだろう?


今日一日学校にいる間、私はずっと不機嫌だった。もしかして、後悔してるの?

私……。

少し苦笑いを浮かべようと顔を緩めたのだが、上手く頬に力が入らない。


昨日まで、榎本と喋ってたのは私だけだったのに。


ふと、そんな事を思いながら私は道に落ちていた小石を思いっきり蹴った。

胸に突っかかったモヤモヤを取り払うかの様に。

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