第5話 男、夢を語る
ある水曜の朝だった。
ちゅんちゅんと可愛く鳴く小鳥の声で、私は目を覚ました。
(何だかひどく頭痛がして頭が重い……)
ゆっくりと上半身を起こすと私はバランスを崩し、ドンと床の上に転がり落ちた。どうやらまた居間のソファの上で寝てしまったらしい、とぼんやり思いながら周りを見た。
そして――――そこに広がっていた地獄絵図に私は息を飲んだのだった。
机の上に転がる無数の缶、転がるビール瓶、食べ散らかした皿やコップの山。
更にテーブルの向こう側に大の字になって寝ている榎本が見えた。
背中に悪寒が走り思わず腕をさすって天井を見上げると、クーラーまでつけっぱなしになっていた。
な、何でこんな事にっ―――!!!?……そうか!
徐々に昨日の記憶が蘇ってきた。
というのも昨日の晩、榎本は両手いっぱいにビニール袋を提げて庭に戻ってきた。
そして「はい、お土産!」と言って嬉しそうな顔をして私にその袋を渡した。
「何よコレ、全部お酒じゃないっ!」
「こないだ行った酒屋に、段ボールの御礼も兼ねてちょっと手伝いに行ったんだよ。それで貰ったの」
「それじゃ御礼になってないでしょ!大体、アンタは図々し過ぎるのよっ!」
私が怒鳴っていると榎本はいつの間にかコップを持って来て、ビールを注ぎ始めた。
「まぁまぁ、大河原さん。たまにはさ、嫌なこと忘れてパーと飲もう!」
「アンタ、中年のおっさんみたいよ!私は飲まない!!!」
「一杯飲むぐらい大丈夫だって。こんなにあるんだからさ、ほらほら。カンパーイッ!」
私の手に無理やりグラスを持たせると榎本はカチンと乾杯をした。
お酒なんて飲んだこと無いのに……。
なみなみと注がれた鮮やかな黄色の液体。普段あまり目にしないそれが何故だか妙に魅力的なものに一瞬見えてしまった私は”一杯ぐらいなら”とコップに口をつけてしまった。
そこから先の、記憶は、ない。
頭をフラフラさせながら私は蛇口をひねりコップに水を汲むと、それを一気に飲み干した。
ふぅ、と息を吐いてから壁にかかった時計に目をやる。
あと10分で、9時。つまりは8時50分って……ことは…っ!?
「遅刻じゃないっ!」
一気に目が覚めた私はその場で顔を洗うとダダダッと2階に走り、物凄い速さで制服に着替えた。
そして3分間で化粧を終えるともう一度居間に戻り、床に転がっている榎本の頭を今朝の朝刊で叩いた。
「榎本!起きて!遅刻だってばっ!」
「あ、大河原さん、おはよう、今日も相変わらずお元気で……」
「馬鹿!早く起きてよっ!アンタを家に残したまま学校行けないんだから」
「戸締りなら、ちゃんと出来るよ~」
私はもう一度榎本の頭を叩いた。
「アンタが家にいる事が不用心だって言ってんの!さっさと庭に出て行ってっ!」
そう言いながら私は榎本を足で転がすと窓の方まで連れていき、そのまま外に転がした。
「あうっ!」と変な声を出しながら、ドシンと榎本が庭に落ちる。
―――――――これでよし!
私は窓を閉めると、簡単に部屋の中を片付けて酒臭いのを隠すように念入りに歯を磨き、外に出たのだった。
*
「じゃぁ、ここの訳は特に重要だから、ちゃんと覚えておくことー!」
古典の先生がそう言うと、一斉に皆、カリカリと鉛筆を走らせる。テストまであと一週間を切った今日。いつにも増して皆、真剣に授業に取り組んでいるのがわかる。
ただ一人を除いては……――――――
私はふと前を見た。
昼休みの終わりに学校にやって来た榎本は、一度席に着いてから6限目の今までずっと同じ体勢で寝たままだ。心なしかその様子はいつもよりグッタリしていて、時折頭をおさえている。
どうやら私よりも二日酔いが酷いらしい。まぁ、寝てるのはいつものことなのだけど。
テスト前だっていうのに……勉学になど全く関心がないのだろうか?
だったら、榎本は何のために学校に来ているんだろう……とふと思い、私は本気で首を傾げた。
今度のテスト、大丈夫なのだろうか?夜は働きづめ、昼は夢の中の榎本が勉強なんてしている訳がない。
大体いくら疲れてるからって……ちょっとぐらいは起きようと努力してみるべきじゃないの?
私は悶々とした顔で榎本の背中を見ていた。それからふいに思い立って、机の下から足を伸ばし、思いっきり榎本の座っている椅子の下を蹴り上げた。ガクンと榎本の首が縦に揺れ「ほゎっ!」と小さな叫び声が聞こえた。
一瞬、顔を上げて前を見たのだが再びモソモソと机に横たわる。
その様子が何だか妙に面白く、私はもう一度榎本の椅子を蹴り上げた。今度はビクッと体を揺らした後、榎本はゆっくりと体を起こしてちらりとこちらを見た。
”ちゃんと起きなさいよ”と私が口をパクパクさせ黒板を指さしたのだが、榎本は何も反応せず前に向きなおってしまった。
少しぐらい反応してくれてもいいのに……。
明らかなシカトをされた私は、少しだけ眉根を寄せると視線を下に向けたのだった。
*
「美味い!」
ポテトサラダを口の中に入れると榎本は嬉しそうに目を閉じた。
「ほんとに大河原さん、料理上手いよ!何作っても美味しいもん」
「ふーん。そう」
「こんな上手いもんばっか食べてさぁ~最近、俺ってすごい幸せだなぁって思う」
「へぇー。そう」
「大河原さん」
「ふぅぃー。何ですかぁ」
「……何か、怒ってる?」
榎本が眉を顰めて私をじっと見た。私はぷいっと顔を逸らすと「別に、いつも通りですけれども?」と答えた。
「いや、絶対怒ってるでしょ?」
「怒ってないもん」
「お酒の事はさぁ、本当に悪かったと思ってるよ。大河原さん、嫌がってたのに俺が飲ませちゃったんだし」
「そんな事もう怒ってないわよ!そうじゃなくて―――――」
「そうじゃなくて、何?」
スプーンを手に持ったまま榎本はこちらに回り込んでくると、私の隣に座ってそう尋ねた。逃げ場をなくした私は顔を逸らしたままビーフシチューを口に入れた後、ぼそっと呟いた
「…………何で、無視したの」
「え?」
榎本はびっくりした顔で瞬きを繰り返した。どうやらさっぱり心当たりがないらしい。その様子が何だか無性に腹ただしかった。
「……今日の6限目で!!!私が―――――っ」
「あ!起こしてくれた時のこと?」
榎本はポンと手を打つとヘラリと笑った。
「あれからさぁ、目が覚めて授業聞いてたんだよね。久しぶりだったなぁ、あんだけ授業聞いたの」
「あっそ!」
「え、もしかしてあの時、返事しなかった事怒ってるの?」
「…」
私が何も答えず食事をとり続けてると、榎本は「そ~うなんだ」と言ってニヤッと一笑した。
そしてしばらく後に声をあげて笑いだした。何て腹立たしい奴だ。
「な、何がそんなに面白いのよ」
「――――だって大河原さん、自分で最初に何度も言ってたのに」
「何を?」
「何って、”学校ではあまり話しかけるな”ってさ」
「!」
私はぐっと言葉に詰まった。確かに榎本が庭に住み着いたばかりの頃に、何度かそんな事を言った覚えがあった。
そっか、それで何も反応しなかったんだ。榎本はしっかりとこの約束を守ってくれていたらしい。私はすっかり忘れていたけど。
「――――いいのっ!私が話しかけたんだから、アンタは答えればそれでいいのっ!」
「そんな、無茶苦茶な」
「五月蠅いっ!」
バシバシと何度も榎本の肩を叩きながら私が喚いていると、榎本は「いたい、いたい」と笑いながら左手で私の手を軽く掴んだ。その手は大きくて日に焼けてゴツゴツしていて少し汗ばんでいた。
軽く掴まれただけで、私の手はピタリと動きを止めてしまう。
やっぱり男と女の力の差があるのだなぁと、しみじみ感じながら榎本を見るとピタリと目があった。
家にいる時、榎本はいつも髪を上げている。
だからたまに榎本と目が合ってしまうことがよくあるのだが、私は何故だかいつもすぐに目を逸らしてしまう。
今日もそうだった。
私は思いっきり目を逸らし、それと同時に榎本が私の手を放した。それから、いそいそとテーブルの向こう側に戻っていく。
そして急に訪れる暫しの沈黙……何か気まずい。
「え…榎本はさ、どうして高校に通おうと思ったの?」
「え?」
何とか沈黙を破ろうと私は今日の授業中思った事を、本人に尋ねてみる事にした。
「だってさ、高校受験直前にお父さんが借金背負っちゃったんだよね?高校行かずに就職しようとは思わなかったのかなって。今の生活もほとんどバイトばっかりみたいだし」
「あぁ、それ確かに考えたよ。俺、実は勉強あんまり好きでもないからねー」
確かに授業中のあの様子じゃ榎本が勉強好きだと思う人間はあの学校に一人たりともいるまい、と心の中で呟く。
「でもさ俺、夢があるから」
榎本の口から”夢”なんて言葉が飛び出したのに私は少し驚いて、スプーンを銜えたまま、まじまじと彼の顔を見た。
「夢?」
「うん。俺、学校の先生になりたいんだよね」
「先生!?」
「そう、まぁー俺の家が色々大変だった時に、一人の担任の先生がすごい親身になって助けてくれて。それで、”俺もこういう教師になれりたい”って思って」
照れ隠しの様に榎本はポリポリと頭をかくと、いつもの様にヘラリと笑いながら「た、単純かな?」と言った。
「うん。すごく単純」
「やっぱり?」
「うん。でも、すごく羨ましい」
素直にそう答えると、私は食べ終わった皿を洗面所に持って行きながら呟いた。
「私は、そういう夢とか何も持ってないから」
今まで父と母に心から感謝していると言える事が、3つだけあった。
そこそこの容姿と、好きなだけ与えられたお金と、彼らの遺伝子から受け継いだ学習能力。
けれども榎本と一緒に居ると、そういたものが何の価値を持たないモノに思えてしまう。
私には夢など無い。勉強は人より出来ても、何故しているのかわからない。
夢が叶うなんて思えない。
男子に好かれても嬉しくない。両親を見てきた私は、人を好きになれない。
愛情なんてそんなの信じない。
お金があってもつまらない。本当にほしいものは手に入らないから。
この家にはずっと誰もいない。
どうして私はこんなにも捻くれてしまったのだろう?
きっと、ずっと独りぼっちだったからだ。
そうやって全てを親のせいにしてきた。だから私にとって、榎本は眩しすぎた。
私よりもずっと辛い生活をしているはずなのに、榎本はいつも笑っていて希望に満ちている。一緒にいると時々変に悲しくなる。自分の弱さを突きつけられた様な気分になる。
――――――もっと私も頑張らないと、寂しいなんて、本当にこれっぽっちも思わなくなるほどに。
「じゃぁさ、大河原さんは将来シェフになればいいじゃん。料理上手いから!」
振り向くと空のお皿を持った榎本が立っていて、笑いながらそう言った。
「何でアンタはそんなに単純なのよ!」
「でもさっき羨ましいって言ってたじゃん。あ、もしかして料理作るの嫌い?」
「そんな事ないけど、そこまで私、料理上手じゃないし」
ボソリとそう呟くと榎本は私の頭に軽くチョップをする。そして指を立てながら言った。
「夢というのはね、まずは思い描いてみないと一生叶わないんだよ。宝クジも買わなければ当たらない。君はどうやら深く考えすぎている様だ……先生の言ってる事わかるかね?」
そう言ってニヤリと笑った榎本は、私の頭をポンポンと叩く。
「………わかりました。榎本先生」
「素直でよろしい!」
「でもまずはご自身の夢を叶える為に、来週のテストに励むべきだと思います」
さっきまで偉そうに夢を語っていた榎本は180度に器用に体を回転させると「さぁ、バイト行こうかなぁ」と呟いて庭の方へ逃げていった。私はその様子を見ながらクスクス笑うと、榎本に向って叫んだ。
「また授業中起こしてあげよっか?今日みたいに」
榎本は嬉しそうに頷きながら、ニカッと笑った。
榎本が思いっきり開けた窓の向こうから部屋の中へ生暖かい風が吹いてきて、私の髪を撫でた。
どこからか流れてくる夏の香りを、私は確かに感じた。
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