第3話 男、腹を満たす

「うわぁー!めちゃくちゃ広い玄関じゃん!」


玄関の扉を開けてすぐ、家の中を覗き込んだ榎本の声がうちの玄関に響き渡った。

カラッと通る飄々とした間の抜ける声。

この静かで重苦しい家の中で、私以外の誰かの声が響いたのはかなり久し振りではないだろうか。


「今タオル取って来るから、そこ動かないでっ!玄関、ベタベタになるから」


私は一言そう叫ぶと足早に脱衣所に行き、タオルを2つ抱えた。ふと、鏡に自分の姿が映ったのを見て眉をしかめる。

朝早くに巻いた髪はぐちゃぐちゃに乱れ、制服はべたべたになっている。化粧も殆ど取れてしまい、目の周りは真黒。


「どれもこれも……みんな榎本のせいよっ!」


頬についた枯れ葉を摘み、ポイッと投げると私は自分の髪を思いっきりタオルで拭き靴下を脱いだ。

それから玄関の方に向かう。ボタボタと水を落としながら前髪を垂らし、まるで妖怪の様な姿になってしまった榎本に私は思いっきりタオルを投げつけた。それをしっかりとキャッチする榎本。


「それ使っていいから!ちゃんと拭いたらそっから上がって。お風呂案内する」


私が何気なくそういうと、頭を拭きだした榎本が少し躊躇いがちに手を止めた。


「いや、女の子一人の家に上がり込むのは流石にどうかと……」

「人の家の庭に住みついといて今更、何言ってんのよ!!!うだうだ言ってないでさっさと拭く!」


私が喝をいれると榎本は「へいへい」と小さく返事をして頭を拭き始めたのだった。

久しぶりに開けた冷蔵庫の中には調味料数種の他、全くと言っていいほど何も入っていなかった。

こんなにも大きくて良い冷蔵庫なのに、ちっとも役目を果たしきれていないなんて、と少し我が家の冷蔵庫に同情する。


最近、外食ばっかだったから……まともな食事を食べたのって一体どれくらい前だろう?


私は思いっきり溜息をつくと今度は冷凍庫の中を見た。瞬間「おっ」という声を漏らして、一人ニヤリと笑った。

冷凍保存されたご飯やお肉、刻んだ野菜がたくさん。ずっと昔に作った肉巻きなどがきちんとラップに包まれて保存されていた。

何でもかんでも冷凍するという習慣がどうやら役にたったみたいだ。ほっと安堵すると、とりあえず使えそうな材料を確認し解凍し始めた。


「大河原さん!凄いよっ!風呂の底から泡がいっぱい……うわっ!なんじゃこりゃ!」


その時、バンッと居間の扉が開いて榎本が居間に入ってきた。彼は頭を拭くのも忘れ、ただただ居間の中を見回している。その様子はまるで初めて遊園地に連れて来られた子供みたいだった。


「ねぇ、これもしかしてピカソの絵だろっ!そうだろっ!」


とその辺に置いてある壺や銅像を触りながら、額に入った絵を指さしキラキラ眼を輝かしている榎本。私はその様子を冷やかな眼で見ると「それは私が小学校の時に書いた絵よ」と答えた。


「大体、アンタ風呂に入ってる時間どれだけ長いのよ」

「だって、ここの風呂凄い楽しくってさぁ!テレビとサウナ機能までついてんだよっ!」

「……知ってる、ちなみにアンタがさっき言ってたのはジャグジー機能」

「じゃぐじー?」


ポタポタと髪から水を垂らしている榎本に私は近寄ると背伸びをして、その頭を思いっきりタオルで擦った。私の両手に収まってしまうほど、榎本の頭は小さかった。

もしかして頭が小さいが故に、顔が髪の毛に覆われてしまうのでは……


「いだだだだだ!毛が抜ける!」と榎本が叫び、私は思わず笑ってしまった。


「アンタがちゃんと拭かないからでしょうが」

「わかった!わかりました!ちゃんと拭きますよっ!」


そう言って顔を上げた榎本と私の目があった。

髪をしっかりと上げきった本日2度目の榎本の顔。お風呂に入ったばかりのその顔は清潔感に満ちていた。

さっきは雨の中必死で気付かなかったけど、割と整っている顔をしていたのだなと今頃になって気づく。

ちゃんとした恰好さえしていれば、榎本はもっと素敵な高校ライフを過ごせるのに、と心底気の毒になった。


榎本は頭を拭きながらじっと私の顔を見ている。彼が瞬きをする度に、長いまつ毛から水滴が小さく零れていた。


「とりあえずバイトまではまだ時間あるんでしょ?何か適当に作るからそこら辺に座ってて」


その途端、キランと榎本の眼が輝いたのを私は見逃さなかった。

「えっ、いやぁ~~~そんな食事まで貰うなんて、そんな図々しいこと」

わざとらしくモジモジし始めた榎本。私はその様子をちらりと見た後、台所に戻りながら呟いた。


「別に要らないんだったら、さっさと出て行ってくれても構いませんけど」

「いえっ!せっかくなのでお言葉に甘えさせてもらいます!」

「素直でよろしい」


すっかり解凍された野菜とお肉を手にとって後ろを振り返ると、ガッツポーズをしている榎本が見えた。




「美味いっ!」


肉巻きを頬張った榎本が叫んだ。そして、小鉢に入った付け合わせを食べて「美味いっ!」と叫んだ。

そして、ご飯を口にかきいれてまた「美味いっ!」と叫んだ。


「もう!五月蠅いっ!もうちょっと静かに食べられないわけ?」

「だって、すっげぇ上手いんだもん!プロ!プロだよ、この味は!何だっけこの料理。チンスコロース?」

「馬鹿!!!チンジャオロースでしょ!」


呆れ顔の私に「そうだった」と榎本はヘラリと笑った。


「いや、でもこんなのすぐ作れるなんて凄いと思うよ!大河原さんが料理上手ってちょっと意外だった」


アンタほど意外性を持ち合わせた人間もそうそういないわよ、と心の中で思わず毒づく。

でも確かに、学校の中での私のイメージ=料理上手と思う人はいないだろうな、と苦笑もしてしまった。


「うちは昔から親が共働きだったから、家事全般は小さい頃から私がやってたの。

まぁ、ここ1~2年はほとんど誰も帰ってこないから放置状態なんだけど」

「え?じゃぁ、本当にこんな大きな家に一人で住んでんの?」


びっくりした顔で私を見て榎本は箸の動きを止めた。そんなに驚くことないのに。

私は平然として「そう。羨ましいでしょ?」と言って肩を竦めながら笑う。

しかし、榎本はひどく真剣な顔をして私を見て言った。


「そんなの……淋しすぎるだろ?」


その言葉に私は何も答えずに、わかめの味噌汁を啜り続けた。


――――父がまだ出世する前。母が小さな弁護士事務所で勤務していた頃。私たちは一般家庭平均並みのマンションに暮らしていた。

毎日二人の帰りは遅かったけど、私が料理を作って待ってると必ず二人とも帰って来てくれた。

「優美の作る料理は美味しいね」と喜ぶ両親の姿が嬉しくて、一生懸命料理を覚えた。


授業参観にも運動会にも、卒業式も入学式にも二人は来れなかった。

けれど、たまに休みが取れると父は張り切って色んな場所に私を連れて行ってくれた。

朝起きると、母が慣れない料理をしてお弁当を作ってくれた事があって、いびつな卵焼きが、涙が出るほど美味しかったことも。二人の努力が功を奏して父はどんどん出世し、母は大手の弁護士事務所に引き抜かれた。

それからしばらくしてこの家が建った。


築三年。現在、海外にいる父がこの家に足を踏み入れた事は数えるほどしかない。仕事で忙しい母は半年に一回、帰って来るか来ないかの状態である。


ちっぽけな私一人が住むのにはあまりにも大きくて、空っぽの、豪華すぎる家。

それでも私はこの生活にすっかり慣れてしまった。


淋しい?

随分前にそんな気持ちはもう、忘れてしまった。


「はいっ!これ持っていってもいいから!」


私は財布から5万円を抜きだすと榎本に差し出した。突然差し出された万札に彼の眼が点になるのがわかった。


「小屋もなくなっちゃったし、住むとこ無いんでしょ?うち、お金なら余るほどあるの」


私がそう言うと彼は数回瞬きした後「そんなの受け取れない」とはっきり答えた。


「どうして?私が持ってたってどうせフェミレスとカラオケと洋服代で使っちゃうだけだよ」

「俺は人から金を借りたり貰ったりしないって固く決めてるの。だから貰えない」


さっきまで図々しかった榎本とはまるで別人の様に彼は断固としてお札を受け取らない。しかし、頑固な私も引き下がらなかった。


「いいからっ!私が貰えって言ってんだから素直に貰えばいいのよ!」

「むちゃくちゃだよ!!!そんなの!」


激しく拒絶する榎本。片手に札を握り、頑なになる私。


「じゃぁ、今日からどうすんのよっ!住むところもないのに」

「とりあえず明日は休みだからもう一度、小屋を立て直すつもり」

「え、またあれ、庭に作るつもりなわけ?」

「うん」


そう言ってニヘッと榎本は笑う。どうしてこんなにもタフなのだろう。その生命力はまるで雑草並みだ。

私は大きな溜息をつくとさらに榎本に尋ねた。


「じゃぁ、食事は?どうせまともな物食べてなかったんでしょ?これを食費にしてくれてもいいから」

そう言った途端、彼の眼がパっと輝いた。「じゃぁさ、こういうのはどう?」


「大河原さんがそのお金を材料費に俺に夕飯作ってよ」

「は?」


予想だにしなかった提案に私は思わず箸を落とした。


「作ってって……私が榎本に夕飯……何で、そうなるのよ!?」

「だってお金は受け取れないけど、料理なら遠慮なく食べれるし。それにさ」



「大河原さんの料理すっげぇ美味しいから」

満面の笑みを浮かべて図々しくそう言った榎本に、私は何も言い返す事が出来「わかったわよ」と承諾してしまったのは、一体どうしてなのだろうか?


榎本に美味しいと料理を褒めれて図に乗ってしまったから?

賑やかに誰かと会話しながら夕飯をとったのがあまりにも久し振りだったから?


だとしたら私はやっぱり淋しかったの?


自分の気持ちが、その時私にはわからなかった。

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