第2話 小屋、崩壊する
ガサゴソッと庭で何かが蠢く音がして、私は目を覚ました。
広い居間の中央においてある革張りのソファから起き上がるとベランダを見た。
もしかして、泥棒?
という考えが一瞬、寝ぼけた頭の中を過ったがすぐに消える。
――――――違う、あれは……今夜も榎本が活動を開始したのだ。
榎本がうちの庭に住み始めて早一週間。私は大凡の彼の生活パターンを熟知し始めていた。
午後7時に帰宅。8時半になると何処かに出かけて早朝6時に再び帰宅。その後、学校に登校――――――以上。
熟知とはとても言い難い簡素な報告結果で申し訳ないのだが、実際そうであるのだから仕方がない。
一体、榎本はこんな時間から朝までどこに行っているのだろうか?そして今、うちの庭先でガサゴソと何をやっているのだろうか?
私はそっとベランダの窓の方に近寄ると、そっとカーテンの隙間から庭の様子を眺めた。
じっと眼を凝らすと段々と暗闇に目が慣れてゆき、ぼんやりと外の様子が把握できてきた。
(一体、榎本は何をして……―――っ!!!)
「――――――ちょっと!アンタ、上半身裸で何やってんのよっ!」
私の怒鳴り声を聞いた榎本は、こっちを振り向きニカッと笑うと「こんばんは」と軽やかな夜の挨拶をした。ヒクッと私の口元が一瞬引き攣った。
「律儀に挨拶してんじゃないわよっ!あんた、そこで一体なにやってんの!」
「何ってシャンプーだけど?」
はっとして彼の手元に目をやるとしっかりとホースと牛乳石鹸が握られていた。それは紛れも無く、庭の茂みの奥深くに隠れていたもう何年も使われていないうちの庭のホースである。
「うちの庭で裸でシャンプー何かしないでっ!!!この変態っ!変質者!水道代出せっ!」
私が激しい勢いでそう罵ると彼はヒィィと叫び、小屋の中に潜り込むと服を一着持って外に逃げ出そうとする。
「ちょっと待った!!!」
「いだだだだだだだ!」
風に靡くその伸びきった髪を私は思いっきり引っつかむと、先週と同じ様に庭のデッキに彼を投げつけた。
「ちゃんとホースの水止めて行きなさい!あと、うちの庭から出る時は裏口から出てくこと!それから…――――上半身裸でうちの庭から出て行かないでっ!」
ずぶ濡れになり髪が伸びきった上半身裸の変質者=榎本は「申し訳ありませんでした」と素直に誤った後、私に土下座するのだった。
*
「交通整理のバイト?」
「そう、深夜から明け方にかけてね。それから警備員のバイトも週2で入ってる」
榎本が一体夜中に何をやっているのかという謎は彼に尋ねた途端、あっさりと解けてしまった。
しかも何の面白みもない極々有り触れた回答だった為に私は不満そうな顔をする。
それを見て榎本は楽しそうに笑った。
「もしかして俺が何か怪しい仕事でもやってるって思ってたでしょ?」
「だって榎本の外見は見るからに怪しいでしょうが」
私がそう答えると榎本は気分を害するどころか「確かにそうだ」と腹を抱えて笑いだす。
私は大きな嘆息をした。まさか、私と榎本がこんな風に会話を交わしているなんて……クラス中の誰もが思ってもみないだろうに。
榎本は初日の約束通り、学校では一切私に話しかけてこなかった(というより全く関心がないようだ)
しかし、こうして榎本が帰宅しているこの時間、度々庭先で会話をする機会が増えていた。
「今の俺はさ、今日を生き抜くのに精一杯なんだ。外見なんて気にしている余裕はない」
そう言いきった榎本の口元がニカッとつり上がる。
「だからって、銭湯に行くぐらいの余裕はあるでしょ?」
「銭湯か、いいね!気持ちいいよなぁ~……そうだ!大河原さんも今度一緒に行こう。銭湯!」
「なんでアンタと一緒に銭湯いかなきゃなんないのよ」
つくづく今、目の前にいる榎本は学校にいる時の彼のイメージとは程遠い。
陰気というよりも陽気。無気力というよりも活動的。
意外としっかりとした上半身から連想されるフレーズは、草食系男子というより肉食系男子である。すっかり体を乾かした榎本はあっという間に服を着ると(洗っているのだろうか?)タオルを首に下げ「つまんないの」とぼやいた。
そして、私に「行ってきます」と手を振って裏口から外に出て行く。思わず手を振り返してしまった自分にハッとしながら
(完全に榎本のペースに呑まれている)
と、私は溜息を吐いた。
それから暫くの間、デッキに腰掛けていた私はそのままグッと腕を伸ばしてゴロンと横になり空を見上げた。
今宵の夜空には星一つ見えない一面が雲に覆われていて、その間からうっすらと月の光が見えた様な気がした。明日は雨に違いない。
そう思いながら私は起き上がり部屋に入ると、ゆっくりと窓を閉めたのだった。
*
翌日の天気は私の予想通り雨だった。しかし私の予想した以上の大雨でもあった。
朝から降り続けている雨は一日中途絶えることなく降り続け、外からはゴォォォォと激しい音が常に聞こえてくる。
私の前の席に座っている榎本は今日は眠りにはつかず、じっと窓から外の様子ばかりを気にしていた。
表情は前髪で覆われて全く見えない。しかし、きっと物凄く不安そうな顔であるに違いないと思った。
――――――この大雨に果たしてあの段ボール小屋(榎本の家)が持ちこたえられるだろうか?
そして、もしもあの小屋が崩壊してしまったとしたら、これからの榎本の生活はどうなる!?
そう考え、何故か私まで不安気な顔をして窓の外を見ていたその時。
急に前に座っていた榎本が物凄い勢いで机の上に倒れ込んだ。そしてそのまま右に彼は大きく傾き、あっという間に床に転がり落ちたのだ。
ガッターン!!!
激しい音と共に2~3回床の上に綺麗にバウンドする榎本。
教壇の前に立っていた若い女教師は瞬間、さっと青覚めて「きゃぁっ!」と小さく叫び榎本に駆け寄った。
「え、え、え、え、え、榎本君!?どうしたの!?大丈夫?」
「す、すいません。急に眩暈がして……もう大丈夫ですから…うっ!頭がっ!」
「頭が、わ、割れるようだ」と科白を吐き、苦しそうに頭を押さえ蹲る榎本と青ざめる女教師。
「え、榎本くんっ!」
「すいません、先生…もう、僕、授業を受けられそうに…グアァ!」
「そうね。そうよね、その様子じゃ無理よね、保健室に行きましょうか?」
「いえ、出来れば、家に」
家じゃなくて小屋だろうが……と心の中で呟いた後、私はハッとして榎本を見た。
も、もしや、この男―――――!?
とその瞬間、榎本と一瞬だけ目があった。
そのぼさぼさの前髪で覆い隠された瞳が一瞬だけ笑った様に私には見えた。
コイツ、まさかあの小屋の様子を見に行く為に捨て身で仮病をっ!?
だとしたら何て大胆な……そして何という迫真の演技……っ!?
さっとカバンをとり榎本は瞠目する私の横を通ると、フラフラとしながら後ろのドアから出て行ってしまった。そんな榎本を心配そうに、そして異様なものを見たという顔をして先生とクラス一同が眼で追っていた。静寂に包まれた教室の中、私の溜息だけが教室中に響いたのだった。
*
帰りにファミレスに行こうという真理の誘いを断ると、私は傘をさしながら家に向かって走った。
足を前に踏み出す度に、ピチャっと嫌な音がして真白な靴下に泥が跳ね茶色の水玉模様が出来あがっていく。
何で私は走ってるんだろう?
別に榎本がどうなったって私には関係ないのに、何必死になってんのよ。と心の中で呟きながら。
なのに私は走っていた。
前へ前へと、息を切らしながら全速力で。
やっと辿り着いた我が家の門をくぐり長い小道を走り抜ける。バッと裏庭に出てみると、そこにはやはり思っていた通りの光景が広がっていた。吹き飛ぶ段ボール、それにしがみつく榎本の図。
「ウオオオォォォォォ!」
榎本はゴリラの様な雄たけびを上げながら必死で屋根(一番大きな段ボール部分)と柱(段ボールをガムテで固定した部分)を掴み、どうにか小屋の崩壊を阻止しようとしている。
しかし、雨の勢いはどんどんと強くなるばかりでその上物凄い風が吹いている。
これでは最終的に榎本まで吹き飛ばされてしまうに違いない。
迷っている時間なんてなかった。
私は差していた傘を地面に投げつけた。そして榎本のいる所まで物凄い速さで走ってゆき、その半分崩れかかっている段ボール小屋の中に入り込んだ。
屋根が半分無くなったその小屋の中は、既にびしょびしょでもうとても人が住める状態ではない。
私はその中をざっと見まわす。思っていたよりも榎本の荷物は少なかった。端っこの方に綺麗に畳まれた服と下着が2~3着、それから小さなボストンバックと蒲団が1枚あるだけだ。
私はそれらを抱えて、小屋を出ると玄関に回り込み榎本の荷物を家の中に投げ入れる。そしてもう一度裏庭に戻ると、今度は段ボールにしがみついている榎本の腕を思いっきり引っ張った。
「榎本!もう諦めなよっ!アンタまで飛ばされちゃうよっ!」
雨の音に負けないように必死で私は叫んだのだが、榎本の耳には完全に届いていない様である。
強風に煽られた榎本の髪が、ばっと思いっきり上げられて、彼の顔を隠すものが何一つなくなった。
私が、榎本の顔をまともに見たのはその時が初めてだったと思う。
彼は怖いほど真剣な顔をして段ボールにしがみついていた。
どれだけ激しい雨粒が彼の顔に降り注いでも、どれだけの強風が自分を襲おうとも、彼は瞬き一つしていなかった。
そんな榎本の表情を見て一瞬、私は躊躇したがそれでも諦めずに彼を引っ張った。
「榎本っ!!!!こんなとこにずっといたら風邪ひくよっ!止めなってば!」
ふいに学校にいる時、いつも寝ている榎本の様子が頭を過った。
彼がいつも授業中寝ているのは、きっと早朝までずっと働きっぱなしだからだ。
お昼休みにいつも寝ているのは、きっと食べるものがないからだ。
学校であまり喋らないのは、きっと疲れきっていてそれどころじゃないからだ。
そんな人生のどん底を、私は味わった事がない。榎本がすごく苦労しているのもわかる。
だけど、私にはどうしても納得いかなくて。
――――――自分を犠牲にして、それなのに今日を精一杯生きてる?
榎本、そんなのって変だよ。
雨に打たれながら、私は必死で目をつぶり榎本の腕にしがみついてもう一度、叫んだ。
「榎本っ!自分とこの段ボールのどっちが大事なのよっ!何で!?何でもっと自分を大事にできないのっ!!」
その時、少しだけ雨が弱まった気がした。私がそれに合わせ目を開くと、榎本がこちらを見ていた。
初めてしっかりと榎本と目を合わせることが出来た。しっかりと一点だけを見据える、力強い光を宿した瞳。
「あっ!」
榎本が声を上げたと同時に、ビュッと鋭い音が聞こえ榎本の持っていた段ボールを高く高くに舞い上げた。
それを合図にするかの様に、次々と榎本の小屋はぼろぼろと崩れ落ち、あっという間に風に運ばれていってしまった。
次第に雨が弱まってくるのを肌で感じた。
風が弱まるのにつれて榎本の髪がゆっくりと落ち、いつもの様に彼の顔を蔽い隠した。
徐々に雲間から差し込み始めた光が、裏庭に立ち尽くす私と榎本、そして数枚残された段ボールの破片を照らしたのだった。
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