第百二十三話 買い出しは美人と共に

 



 甲高い悲鳴が聞こえた気がした。それこそ何か、とんでもないものを目にした時のような、悲痛なる叫び声が……。


「えっ、なに!?」


 音に敏感な獣耳が捉えた、聞くに耐えない声を認知し、盗賊の衣装に身を包む少年は目を瞬いた。思わず、というかほぼ条件反射で振り返ってしまったが、目を向けた先に音の発生源は見あたらない。

 見えるのは穏やかな程に平和な街中といちゃつくリア充、それくらいである。


「こ、これはもしや幻聴……? ついに俺も疲労困憊により幻に近い声を聞くことになってしまった……? ラディル師匠。心身の不安定さが目立つため、ジルさんは長期休暇を提案します」


「特に働いてもいないただ飯食らいの分際でなにを偉そうなことを。ただでさえ我らが主に迷惑をかけているというのに、その自覚もないのですか? 今すぐ首を吊って詫びなさい」


「首を吊ったら詫びることすら不可能でーす」


 しれっと顔を背けて一言。無言で握られた拳を見て即座に謝罪をこぼしたジルは、そこで一度、深い息を吐き出した。


 ──師匠の言っていることは、あながち間違いではない。


 あの広い屋敷の中、特に仕事を与えられることもなく過ごす自分。己のためにと修行をつけてもらってはいるが、未だその成果が表れることはない。寧ろ、自分という存在がいかにこの世界で脆弱であるかを突きつけられているような気がしてならないくらいだ。


 このままではいけないことなど、とうに分かりきっている。しかし、ここから動くことは非常に困難。いや、ただたんに恐ろしい。

 下手に動けば取り返しのつかないことが起こるかもしれない。それこそ彼女のように、永遠にその存在が消えて、なくなってしまうかもしれない。そう考えてしまうと、動くに動けないのだ。


(アランちゃんたちがどうなってるのかとか、いろいろ気になることはあるのに、なんでかなぁ……)


 足踏みばかりして動かない自分自身に、そろそろ嫌気がさしてくる。せめてこう、なにか、どうしても動かないといけないことでも突発的に起きてくれるといいのだが……。


「そんなことあるわけないしなぁ。てか、そういう他人任せなところがまず嫌よねぇ。はぁー、ジルくんってばほんと──」


『臆病者』


 クスクスと笑う声が聞こえた。どこかで耳にしたことがあるような気がするそれに、ハッとして口をつぐめば、同じくして、ジルの少し前を歩いていたラディルが足を止める。


「……何用でしょうか?」


 淡々とした声が紡がれた。喜怒哀楽が感じられぬ、静かな声だ。

 声につられるように、僅かながらも視線をあげれば、美しい彼女の前に、見知らぬ輩が居ることに気付く。


 それは非常に、大柄な体格の獣だった。


 手入れの行き届いていない、ダマだらけの体毛。肩から足までを覆う、傷だらけの鎧。両手で握ればちょうど良さそうな大きさの、長く、大きな口。無数の牙が覗く様子が、なんとも言えず恐怖心を募らせてくれる。


 背後に数人の獣族と人間を従えていることから、彼が親玉的存在だということはなんとなしに理解できるが、それにしても身だしなみが悪い奴だ。もう少し、せめて服や毛並みだけでも整えてはどうだろうか。そんなことではかわいい女の子から嫌われるぞ。嫌悪されるぞ。寧ろ冷たい眼差しを向けられ、地上最低のゴミ虫でも見るような目で見下されるぞ。


 悠長に考え、すぐにいや、そうじゃないと、ジルは思考を中断。片手に血濡れた凶器を握りニヤニヤ笑っている獣と、非常に冷静なラディルとを、心配そうに見回した。


「よお、お綺麗なメイドさん。なかなか良い体格じゃねえの。なに? 客引きの最中?」


「どこをどう見たらその思考に行き着くのか、分かりかねます」


「そんな珍しいかっこしてたら誰でも思うだろうよ。ま、そんなことよりちょっくら付き合ってくれや。俺ら今、ものすっごい困っててよぉ」


「生憎と、手伝えることはありません。それに、私は今、買い出しの途中なのです。よって、これ以上我が仕事を邪魔することは止めていただきたい。私はそこまで気が長い方ではありません。今すぐにでも、大人しく引き下がるというのであれば、手荒な真似は致しませんのでさっさと道を開けていただきたい」


 そのセリフをあんたが言うのか。


 ラディルの言葉に驚きつつ、まあこの人ならそう言うかと納得。まさかの返答を受け、目を点にしている輩たちを今一度見回し、ジルは心の中で合掌した。

 彼らは喧嘩を売る相手を、大いに間違えすぎている。


「……ぶっ! だっはっはっはっ!!!」


 一人の人間が吹き出したことにより、その場に一気に笑いの渦が広がった。確認するまでもなく、今現在道を塞いでいる敵さんが、腹を抱えて笑い飛ばしているのである。

 大口を開けているため、空中に多くの唾が飛散する。その、ある意味目に優しくない光景にあからさまなまでに顔を歪めたジルは、ラディルの挙動を見守るべく凛々しく佇む彼女の背中へと目を向けた。


「ひいっ、なかなかおもしれえ女だな! 俺らに対して『手荒な真似は致しませんので』、だとよ!」


「あー、こりゃ甘えとかねえといけねえ忠告だわなあ! こええ、こええ!」


「ひっひっひっ! たまんねえなあ!」


 未だ肩を震わせる獣の一匹が、赤い舌で口回りを舐めあげながら一歩前へ。この間、一切表情を動かしていないラディルをくまなく観察すると、その目元を軽く緩ませ手を伸ばす。


「俺ぁ、あんたみたいにセンスある美人は大好きだぜぇ。喜んで、最っ高のエスコートができそうだわ」


 いやに自信ありげなセリフが紡ぎ出されたと同時、ヒュッと風を切る音が一つ。

 次の瞬間、凄まじい衝撃と共に、ラディルの腕に触れた獣が天高く蹴りあげられてしまった。大柄な獣族を意図も容易く蹴り上げた犯人は、言わずもがな、無表情のメイド長、その人である。


 ラディルは上げたばかりの片足を静かに下ろすと、ポカンとしている一同を無言で見回し、腹の前で組み合わせていた手をそっと離した。そのまま、片足を大きく開き、軽く腰を落として拳を構える姿は、まさに格闘家のそれだ。


「な、な、な、なにしやがんだこのアマぁあああああっ!!!」


 焦り、武器である刃物を振り上げたリザードン。まさかの出来事に動揺が隠せないのか、目を白黒させながら標的(ターゲット)に近づく彼は、当然の如くその顔面に、女性とは思えぬ程の強く巧ましい拳を叩きつけられてしまう。


 なんて早業。


 容赦なく殴り飛ばされる敵の姿を視界、ジルはスン、と息を吸った。


「ぎゃあっ?! リザードマンがやられた?!」


「切り込み隊長呆気ねえな!」


「いや、それよりこのアマ何者だよ?! なんか滅茶苦茶構えとか本格的なんだけど!!」


 構えが本格的とはこれいかに。

 武器を手にしているにも関わらず腰が引けている者々は、顔面を青く染め上げながら数歩後退。拳を鳴らし、じりじりと近づいてくるメイドから逃走せんと、一斉に踵を返して走り出す。

 だが──……。


「ああっと! ごめん! どいてどいてー!」


 どこからともなく響いてきた声と同時、暴走車よろしく突っ込んできた一匹の赤いウツボが、なんの戸惑いもなしに獣たちを突き飛ばした。明らかに狙っただろ、と言いたくなるほどに、タイミングの良い攻撃だ。

 悲鳴を上げながら宙を舞う獣たちが、「すいやせんでしたぁー!」と声を揃えて謝っている。


 謝るくらいなら最初からナンパ(らしき行為)なんてするなよ……。


 青ざめるジルを背後、自然と構えをといたラディルが、いつものお淑やかな佇まいになりながら一息。くるりと、ウツボにしては大きなその生き物を振り返る。


「あっちゃあっ! やっちゃった!」


 ガコッ、なんて音を響かせ、『開け放たれた』ウツボの頭部。見た目よろしくないその中から姿を現したとある人物を見て、ジルは「ああっ?!」と驚愕に満ちた声を張り上げた。


「ど、ドーアさん?!!!」


「ん?」


 くるりと振り返った女性が、自分に向けられる翡翠の双眼を見て、一度沈黙。数度目を瞬いたかと思うと、「おお!」と元気で明るい声を一つ。


「誰だっけ?」


 間の抜けた言葉を吐き捨てた。

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