第百二十話 ダメな補佐官と弱き者

 



 ──暗い水の中をたゆたうように、ただひたすらに沈んでいた。止まることなく、ゆっくりと。

 疲れているのか、鉛のように重い体は言うことを聞かず、動かすことは不可能。故にもがく事もできなかった。


 このままでは何れ底につき、窒息してしまうのでは……?

 いや、それは流石にないか。マイナス思考にも程がある。


 少年は自嘲気味に笑い、自分が今いるココがどこなのか、それを確認すべく目を開けた。と共に、彼の獣の耳に届くのは、聞き覚えのある名前……。


「リレイヌ」


 響いた男の声にハッとした時、少年は、いつの間にやら両の足で立っていた。今まで沈んでいたことが嘘のように、しっかりと地につく足は、先程までの重さを感じさせない。


 どうなっているのだろう……。

 疑問を抱くと同時、覚えのない声が再び、音を発す。


「リレイヌ。いつまでココにいるつもりだ。こんな場所にいても意味などありはしないんだぞ」


 幼子に言い聞かせるように、優しく、しかし少しばかり厳しく、声は告げた。今すぐにでも、このような場所から立ち去ってしまいたい。そんな空気すら漂わせている。


「ほら、帰ろう。ココはお前のいるべき所じゃない。そうだろう?」


 徐々に闇が晴れていく視界の中、一人の男が写りこんだ。頭の高い位置で言われた栗色の髪に、若干垂れた紫の瞳が印象的だ。どちらの色も、なぜか異様に色素が薄い。

 まるで一種の病でも患っているようだと、ジルは失礼極まりない感想を抱いた。ついでとばかりに、変な人だなぁ、なんて、またまた失礼なことを、心の中だけで呟いておく。敢えて口にしないのは、聞かれることを恐れたからだろう。


 そんなジルに気づくことなく、促すように、男は片手を差し出した。「ほら」と紡がれる一言が、困り果てたと言いたげな空気を孕んでいる。

 一体誰に向けて言葉を吐き出しているのか。予想は簡単に出来るが、しかしやはり気になったジルは、ゆるりと顔を動かす。それにより動いた視界の中、彼は見知った姿を発見。ああ、やっぱりか、なんて思った。


 男の目の前。そこにいたのは、水色の着物を身に纏う少女であった。今となんら変わらぬ姿形をしている彼女は、地を見つめ、ただ沈黙している。

 長い黒髪、青い瞳、白い肌。全てひっくるめて、見慣れた彼女、そのもの。なのに纏う雰囲気が少しだけ、おかしい。


「……主様?」


 ジルは首を傾け、呟いた。自分の耳にはやけに大きく聞こえたそれは、しかしながら、前方にいる2人には届いていないらしい。両者共に、こちらを振り向く気配はない。


 ──夢か。はたまた、幻か……。


 どちらにせよ似たようなものかと、少年はなんとなしに目線を下げる。まるで、なにかに導かれるように……。


 再び動いた視界の中、写り込んだモノは、異常。一目見ただけでもおかしいことが分かる。それ程の異常だった。


 ある者は首を裂かれ、ある者は四肢を引きちぎられ、そうして地面に散らばるのは、大量の人、人、ひと、ヒト。何れの個体もすべからく絶命しており、見る限り、生きている者は誰1人として存在しない。


「……ひでぇ」


 本当にひどい。まるで死体パラダイスだ。

 思考し、気分が悪くなってしまったらしい。ジルは己の口元に片手を当てると、何かを堪えるように、眉間に深くシワを寄せた。それから、空いた片手で腹部を抑え、背を丸めて座り込む。

 ジワリと、嫌な汗が浮かぶ。


「こんなことをして、何の意味が……」


 リレイヌが口を開いた。そうして彼女が発すのは、泣きそうな、少しだけ、震える声。

 それは、いつも凛々しい彼女からは、想像もつかない程弱々しいもので……。


「ぬし、さま……?」


 戸惑い、紡いだ声。それはやはり、彼女たちに届くことは無かった……。



※※※※※※※※※



「──んぇあ?」


 奇妙な声が、彼の目覚めの第一声となった。


 もう数十回は目にしている天井を呆然と見やり、瞬きを一つ。幽体離脱でもするようにゆっくりと起き上がってから、ジルは静かに息を吐く。


 なんだか不思議な夢を見ていた気分だ。

 いや、実際に見ていただろう。何を言っているのだ。


 自分で自分にツッコミを入れ、嘆息。寝起き早々何やってんだろ、と頭をかき、大きな欠伸をこぼした。一応のデリカシーとして片手を口元に宛がってはいるが、それはほぼ意味をなしていない。

 現に──。


「でかい口ですね」


 こんな感想が一つ……。


「いっ、やぁあああっ!!?」


 飛び上がる勢いで悲鳴を上げ、ジルはベットから転げ落ちた。ゴンッ、と鈍い音が鳴ったことから、彼が体のどこかを強打したことは容易に推測できる。

 恐らく頭か、それとも、腰か……。


「い、いいい、いーずさ……っ!!?」


 驚きのせいか、凄まじい吃りを披露しつつ、床へと落下したばかりのジルは、ベッドの向こう側からひょっこりと顔を出した。額が赤くなっているので、恐らくそこをぶつけたのだろう。相変わらず顔面ダイブが大好きな奴だ。


 勝手に部屋に入ってきていたイーズは、呆れたと言わんばかりに鼻を鳴らした。馬鹿を見るような鋭い視線が、無情にも少年の肌を突き刺している。


「な、なしてこんなところに!? いや、ってか、勝手に何して!!?」


 勝手もなにも、彼はこの屋敷の主の補佐官。主がいない時は屋敷を任されたりすることも多いはずだ。そんな人が、この広い屋内のどこに居ようとも、自由な気はするが……。


 悶々と考え始めたジルがベッドの縁に手をつくと同時、イーズはため息を吐いた。そのまま、特に何を言うでもなく無表情を向けてくる彼に、ジルはタジタジ。


 自分はまさか、この方になにか粗相でも……?

 言葉がないせいか、妙な不安が募り、そんなことを考え始めてしまう。


「──トラウマを抱いているのは、ご自分の方でしょうに……」


 静寂に包まれた部屋の中、長らくの沈黙の後にようやっと口を開いたかと思えば、よくわからぬ呟きを一つ。堪らず、「へ?」と間の抜けた声を上げるジルをスルーし、管理者は歩き出す。

 ジルの疑問に一切の関心も示さないところが、非常に彼らしいというかなんというか……。


「あなたに、お聞きしたいことがあったので、ココへと来ました」


 語りながら、床に座り込む少年の元まで移動し、イーズは徐ろに、その襟首をひっ掴んだ。かと思えば、まるで小動物のように持ち上げた幼子を、そのまま、何事もなかったようにその場に立たせるではないか。

 床に座られていては話もできない。そう判断したのだろうか?


「……新造の箱庭では、随分とやらかしたそうですね」


 きちんと立つことかなったジルを一瞥し、イーズは言った。クルリと踵を返した彼は、そのまま窓の方へ。締め切ったカーテンを開け放つと、空気の入れ替えを行わんと窓を開ける。


「やらかした……?」


 優しい風に頬を撫でられながら、少年は首を傾けた。


 自分が? 何を?


 そんな疑問を抱いた直後、彼は脳裏を駆け巡った光景に、音にならぬ悲鳴を張り上げかける。

 真っ赤で、惨たらしく、禍々しい……。


 緑溢れる自然の中、宙より降ってきたあの赤く、思い出すのも嫌になるほどの生々しい雨。忘れたくとも忘れられないそれを思い返し、少年は恐怖に唇を震わせる。


「お、おる……そ、そうだっ、おるらっ、オルラッド……っ!!」


 怯えるように、発された声。すかさず、「彼なら無事ですよ」と答えた青年は、棚の上の花瓶に触れ、嫌悪に塗れた言葉を紡いだ。


「かなりの大怪我でしたので、組織の医療班を動かしました。とりあえず命に別状はありません。暫くすれば動けるまでには回復するでしょう」


「あ、あれが──あれが、大怪我!?」


 大怪我などで済む話でもないだろう。もはや一種のバラバラ殺人。死んでいるのが当たり前の状態だった。

 なのにそれを、そんな言葉だけで終わらせると……?


「お、おかしい、だろ……」


 口元を引くつかせ、ジルは言った。


「あんな、死んでて当然の状況を、大怪我だけで済ませるとか、そんなのありなわけ? つか、試練ってなに? オルラッドは一体、あの中で何させられてるんだよ……あんな、ボロボロに、なってまで……」


「……」


「……主様は俺に、何させたいの?」


 問うように吐き捨てた言葉は、いやに大きく、室内に響いた。


 1拍、2拍。短いようで長い間を置いて、管理者たる青年は動く。

 赤茶の髪を小さく揺らして振り返った彼は、猫のような黄色い瞳を僅かに細め、その範囲を狭めた。射抜くようなそれに、ジルは自然と喉を鳴らし、生唾を飲み込む。


 奇妙な空気の重さに、吐き気すら覚えてしまいそうだ……。

 なんとも言えない気分を抱きながら、彼は必死に、向けられる視線を受け止める。


「……主様は──」


 真撃とも言える少年の姿を眺めつつ、褒美でも与えるように、彼はポツリと告げた。


「邪魔を、したいのかと……」


「ぱ、っ…………ぱーどぅーん?」


 相手を小馬鹿にするような(本人にそのつもりは一切ないが)顔芸と共に、ジルは己の片耳に手を宛がった。ちょっとよくわからなかったと、もう一度訊ねようとする彼に、降ってくるのは「殺しますよ」という冷たい一言。

 慌てて態度を改めた少年は、「じょ、冗談ですよっ!!」なんて言いながら両手を振る。この人、ほんと冗談通じないなと、彼はそのまま苦笑を浮かべた。


 今ならアーサー・ベルの気持ちが理解できそうだ。いや、わりとそれ以前から理解できることはよくあったが……。


 ズレてきた思考を戻すべく、咳払いを一つ。少年はすぐに顔を上げると、「なんで邪魔を?」と首を傾げた。


「管理者ってのは、主様にとっては良い存在じゃないの? イーズさん毛嫌ってるようには見えないし。寧ろかなり、頼りにされてるような気もするし……」


「そうですか。それはどうも」


「冷たい!」


 でもこれこそイーズさんだと、少年は涙を呑んで拳を握った。変に反応されるよりよっぽど彼らしいと、妙な納得を抱いてしまう。


「いや、どうもでなくて、どうかお答えを……」


 求めるようにそう言えば、イーズは少しの間をあけ、仕方が無いとばかりに言った。


「主様は、臆病ですので」


「いや、よくわかんないんすけど……」


「そのままの意味です。これ以上は何も言えませんよ」


「なるほど。つまり今日から俺は主様が気になって眠れないってことね。OKOK」


 いや、全くOKじゃない……!!

 少年は心の中で叫んだ。


「……主様のことはいいとして、あなた、これからどうするおつもりで?」


 頭を抱えて奇妙な変顔を繰り返す少年を、汚物に向ける時のような視線と共に見据え、管理者は問うた。突然のそれに、問われた本人は「ほえ?」と間の抜けた声を発する。


「どうするって……?」


「制御の話です」


 はて、制御とはなんのことだろう。

 新たな疑問が浮上し、たまらず頭上にクエスチョンマークを浮かべる。そうして考えるように首を傾け、腕を組んだ彼に、イーズは深いため息を一つ。バカに付き合うのは疲れたと言いたげに、こめかみに片手を宛てがった。


「あなたの力は非常に厄介。暗雲の件にしろ今回の件にしろ、願えば叶う、というのは迷惑極まりない能力だ。これをいつまでも放置していれば、いずれあなたの周りにいる者は皆、調停者のような末路を辿ることでしょう」


 調停者。その単語に大きく反応を見せたジルを尻目、イーズは視線を窓の外へ。まだ明るい空を見上げながら、彼は話を続ける。


「ただ暴走し、死を与え、利用される立場でいたいならば、弱いままでも良いでしょう。しかし、それを嫌だと思うのならば、あなたは強くなるべきだ。多くを学び、ジル・デラニアスという存在を心身共に鍛えることで、自分を制御することも可能になってくる……言いたいことは、わかりますか?」


 振り返ったイーズは、相変わらずの無表情。だが、その瞳の奥には、覚悟が宿っているような、そんな気がする。

 ジルを強くする。それは彼にとって、一つの賭けのようなものなのだろう。


「それは、まあ……でも、イーズさん。なんで……?」


 わからないとボヤく幼子に、管理者たる彼は一度瞳を伏せてから、脳裏に彼女の姿を思い浮かべた。

 長き間、想い続けている。ただ1人の存在、それだけを……。


「僕は、あの方を傷つけることでしか、救えない──ダメな補佐官ですから……」


 静かな声色で、ポツリとこぼされた一言。嫌に耳に残るそれは、小さくも、ひどく辛そうに微笑んでみせる彼の表情と共に、ジルの記憶──その奥深くに、投げ込まれることとなった。

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