第二話 旅立ちの許可




「いやあな、別に咎めるとかそういうことはしたくないんだよ。それによく言うじゃないか。カワイイ子には旅をさせろ。父さん、この言葉はすごく好きでなあ。いずれ産まれるであろう自分の子供には絶対に旅をさせてやろうと心に誓ってたんだよ。誓ったの確か六歳くらいの時だけどさ」


 ぴょこっと動いた獣耳。ボサボサの茶色い頭から生えたそれは、また二、三度同じ動きを繰り返したかと思うとへにょりと曲がる。


「ジルももう十三歳。父さんからしたら立派な大人だ。父さんからしたらな。だから旅に行かせるのに反対はねえんだよ。父さん子供縛ったりとかしたくないからさ。自由ってのが一番だからな。うん。ほら、それによく言うじゃないか。カワイイ子には旅をさせろ。父さん、この言葉はすごく好きでなあ」


 つい先程口にした言葉すら覚えていないのか、大柄な獣族の男は繰り返し同じ文を口にする。瞳を閉じ、感慨深げに頷く様はひどく落ち着いており穏やかだ。心の底から子の旅立ち発言を喜んでいるように感じる。

 ジルはそんな父の姿に涙を流した。口にそのまま詰め込まれた真っ赤なリンゴをモゴモゴと動かし、心の中でこう叫ぶ。


 ──やってることと言ってることが全く違うぜクソ親父!!


 家の、比較的頑丈そうな柱に現在進行形で縛り付けられながら、まだまだ成長途中である少年は己の父を心から呪った。


 グッドラックと親指を立てて地に沈んだ父を見たのがつい先程の話である。恐らく自分の体当たりが予期せぬ攻撃となり、父の背中、というか腰を傷つけたのだろう。

 慌てて家で食事の用意をしていた母に事の経緯を伝え父の元まで連れて行けば、「ぎっくり腰かしらね?」なんて笑顔で言われてしまった。怒られていないにせよその笑顔はひどく恐ろしいもので、ついつい口元を引き攣らせてしまったのは悲しい思い出だ。


 湿布を取ってくると、一旦家に戻った母。その背中を見送ったジルは、倒れたままの父をとりあえず家に帰還させようと試みた。しかし父は己よりもさらに巨大で無駄とも言える筋肉もある。当然、その大きく重い体を運ぶことは、力のないジルにとって不可能なことであった。


「おい、親父。もっと軽くなれよ頼むから」


 無理な話である。

 自分で言って自分でつっこむという少々寂しい技を、少年は悲しくも習得した。


 さて、こうなっては仕方が無い。ジルは最終手段として父を起こすことを決意した。きっと怒られること間違いなしだが、このまま外に寝かせておくよりはマシだろう。


 ごくりと一度唾を飲み込み、深呼吸。

 大丈夫、大丈夫だ、と自分を落ち着かせながら、倒れた父の、音に敏感な獣耳に口を寄せる。吸って、吐いて、そしてもう一度吸って──ジルは腹の底から、今世紀最大とも言える大声を吐き出した。


「おら起きろ親父ぃいいいい!!!」


「ぐあぁあああっ!!」


 新たな攻撃を受けながら父は復活。そしてトントン拍子に事は進み、現在に至るわけである。


 縛り付けた息子の存在を無視して和やかな雰囲気で朝の食事を開始しだした夫婦。

 あたたかなスープの香りや好物のはちみつロールの千切られていく姿がジルの腹を鳴らすが、それでも二人は反応を示さず楽しげな会話を為している。


 ──なんて奴らだ。


 我が両親ながら末恐ろしい。

 ジルはホロリと涙を流した。


「それにしても、ジルが悪になるだなんてねえ……」


 片頬に手を添え、空いたもう一方の手には木製のスプーンを握り、母である女性は言う。


 ちゃっかり話は聞いていたか。さすがだ。


 彼女は野菜を大量に使用したスープを手にしたスプーンの先でつつきながら、はぁ、と困ったようなため息を一つこぼした。


「ジルには難しいんじゃないかしら?」


「もごもががもごっ!」


 そんなことはない!、と叫ぶつもりが叫べなかった。不覚。

 項垂れるジルを他所、今度ははちみつロールにかぶりつく父が口を開く。


「んぐんぐっ……ごくっ……確かに、まだご近所のお手伝いを軽やかに請け負っているような優しい子には無理難題だな。せめて正義とかそこら辺を目指したらどうだ?」


「あら、無理よあなた。ジルはか弱いもの。強い悪党に会った瞬間に瞬殺されてしまうわ」


「おお! それもそうだな! ガッハッハッ!」


 たとえ思っていても言わないでほしい言葉たちが、見えぬ矢となり次々とジルの心に突き刺さる。


 なんだ瞬殺って。ふざけるな。


 そう思いつつも否定できないのが悔しい。

 ズーン、と傍から見ても分かるほどに沈むジル。父はそんなジルの姿を横目に、手にしていたパンを皿の上へと静かに置いた。


「……まあどうであれなあ、俺は旅に出ることは良いと思うんだよ。うん。ジルにとっても良い勉強になるだろうしな」


「そうね。そうかもしれない。でも、私はちょっと心配だわ。この子、村の外にすら出たことがないのにいきなり旅だなんて……」


「大丈夫大丈夫! なんたってジルは俺の子だからな!」


 獣族の男はそう言って席を立ち、自分の手で柱に括りつけたばかりの息子の傍へ。片膝を折り、己よりも小柄なジルと視線を合わせるように腰を折る。

 ジルは俯いていた顔を上げた。それにより視界に写る父の顔に、軽く眉を寄せる。


「ジル。旅に出るのは構わない。だがな、これだけは約束しろ。どんなに時間がかかろうとも必ず生きて帰ってくること。お前は俺たちより先に死んじゃいけねえ」


「まあ、あなた。私は人間よ? 獣族より寿命が短いわ」


「俺より先に死んじゃいけねえ」


 スポッと息子の口からリンゴを抜き取り、背後に放る。恐らくゴミ箱目指して投げたであろうそれは、虚しくもゴミ箱に到達する前に落下。だんっ、だんっ、と決して軽くはない音を立てて床の上を数回跳ねている。


「それができるなら、俺はお前の旅立ちを許可しよう。さあ、どうする?」


 真剣な二つの双眼。自分と同じ翡翠のそれを見上げながら、ジルはもちろんだと頷く。


「絶対帰ってきてやらあ! んでもって、強くなった俺を見せ付けてやるからな!」


「おう! どんとこいだ!」


「ところで親父!」


「なんだ!?」


「……腰は大丈夫か?」


 息子の心配する声と共に苦しみの声を上げ床に沈んだ夫を、その妻はあらあら、とどうしようもない物を見るような目で見下していた。


 とにもかくにも、ジルの悪になるという到底叶うはずもない旅立ち。それが今、この時より決定した。




 長年着ているからか、若干薄汚れている民族風の衣装。きっちりとハンガーにかけられ棚の中に収納されたそれらとは別に、今日は特別な日にしか身につけない、首から足元まであるやや大きめの服に身を包んだジル。

 白を基調としたそれは他の服とデザインはなんら変わらないものの、しかしどこか神聖なもののように思えた。


 この特別な衣装は、ジルがまだ幼い頃、誕生日プレゼントにと、母が繕ってくれたものである。父が言うには「神子(かみこ)の衣装だな!」らしいがそもそも先ず神子とはなんなのか、そこからわからない。母に訊いてみても「いつかわかるわ」の一点張り。なので知る術すら持ち合わせていなかった。

 この旅の中で、何かわかれば良いのだが……。


 鏡の前で変な箇所がないかを十分に確認しだしてから小一時間。そろそろ頃合いかと、時計を確認したジルは長年使用している古ぼけたリュックに手を伸ばした。

 深緑色の、少し大きめのリュックだ。


 時間の経過と共に色あせ、今では緑とは言い難いそのリュックの中には、昨日、父と母が手を取り詰め込んだ旅用の道具が収納されている。

 地図にコンパス、非常食に万能薬。忘れてはならないお金。そこまでは確認できたが後は何を入れられたのかわからない。旅に出てのお楽しみと称して隠されたのだ。

 全くもって酷い話である。しかしまあ、悪い気はしない。思い出し、自然と口角が上がる。


 三階にある自室から一階に駆け下り、そのまま勢いを殺すことなく外へと飛び出る。両親の姿はない。当然だ。二人の眠っている時間をあえて選んだのだから。


 ジルは、前世の記憶をプラスした場合、精神年齢は成人男性くらいにはなるだろう。だが、それでも彼が未だ子供なことに変わりはない。心は大人、体は子供、というものだ。

 今この時、あの優しい両親の顔を見たら、きっと自分は旅立てない。別れを惜しみ、彼らと共に幸せな時間を一生過ごす道を選んでしまう可能性がある。


 ──それはきっと、悪くない人生だ。


 傷つかず平穏に。平和を望む者からすれば最大の幸福とも言える人生。だが、その人生を選んでしまえば最後、あの忌まわしい悪夢から彼が解放されることはなくなるだろう。

 大人になって尚、悪夢は彼自身に付き纏い、彼自身を傷つける。それは、それだけは、ジルにとって最も避けたい事なのだ。


「──行ってきます」


 村から一歩出て、振り返る。必ず帰ってくるからと大きく手を振り、そのまま振り切るように駆け出したジル。

 そんなジルを、まだ暗い空に浮かぶ月だけが、ひっそりと見下ろしていた。

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