第一話 不思議なチラシ




 ──酷い夢を見た。


 寝相のせいで乱れたベッドの上、少年、ジル・デラニアスは頬を流れ落ちていく汗すら拭うことなく、ただ呆然とシワの寄った真っ白なシーツを握っていた。寝起きのせいか、はたまた悪夢をみたせいか、脳は覚醒していない。そのためか、外から聞こえる己の名を呼ぶ声にすら反応できない。それほどまでに、あの夢は彼を苦しめている。


 ──ジル・デラニアス。


 この名を再び与えられたことは、一体どういう因果だというのか。


 ジルという少年はとある民家に産まれた子供である。父は獣族。母は人間の、最近では特に珍しくもない人間と獣のハーフだ。そのためジルの茶色い頭には、獣族の血が流れているということを十分にわからせてくれる獣の耳が、手には鋭い爪が生えている。


 獣族というのは本来、非常に身体能力が高く、戦闘において優れた才能を発揮する種である。だが、ジルにその才能はなかった。確かに人並外れた素早さは持っているが、彼の誇れる部分はそれだけだ。

 武器の扱いに秀でているかと問われれば、否。殴ったら相手が吹き飛ぶかと問われれば、これも否。空高く跳躍できるかと問われれば、それは微妙。前に試した時は庭に生えた木には登れたがそこまでだ。他の獣族と比べれば大したことは無い。


 汗の滲む顔を片手で覆い、ジルはため息を一つ。悪夢を振り払うように頭を振り、ベッドの中から床の上へとジャンプする。


 一先ず顔を洗おう。話はそれからだ。


 したっと見事な着地を決め、彼は一人、大きく頷いた。


 大して冴えた部分のないジルという少年。そんな彼には、他の者とは違う箇所がたった一つ存在していた。

 それは、一度死を迎えていること。そしてその時の記憶が、生まれ変わって尚、ジル・デラニアスの記憶として保持されていることだ。


 前世の自分。


 そう表現すればいいのか定かではないが、あの時の自分の最期は本当に酷いものだったと生まれ変わった彼は思う。

 到底素晴らしい最期とは言えぬ死。思い出すだけで身震いするそれは、できればもう二度と経験したくないものである。


「ジル! ジル! 早く起きてこんかこの大馬鹿者!!」


 木製の壁に囲まれた洗面所内。乾いたタオルで洗ったばかりの顔を拭きながら、ジルは視線を窓の方へと向けた。


 眩しい朝日が射し込む窓辺。そこに近づき覗き込むように下を見れば、眼科に広がるのは申し訳程度の小さな畑と畑よりは大きさがある果樹園。ジルの今いる場所から丁度三階分くらいは高さがあるだろうそこに、麦藁帽子を被った大柄な男が一人、片手にクワを持って立っている。


 なぜクワなのか。


 疑問を抱いたが、ジルはあえて何も言わずにそっと顔を引っ込めた。男はそれを知ってか知らずか、また怒鳴り声を上げている。


「こらジル! 今日は果物を収穫する手伝いをしろと前々から言っていたろう! はやく起きてこい! そして可憐に果物を集めるぞ!」


 音に敏感な獣耳が男の怒鳴り声に耐え切れずへにょりと曲がる。

 大体、収穫するのに可憐さなど必要ないだろう。アホか。

 胸中で文句を言いながら、ジルは自室へ。民族風の衣装に身を包んでから、喧しい男の元へと急ぐ。


「あらジル、おはよう」


 長いようで短い階段を二階分下り一階へ。

 鼻腔を擽る美味しそうな匂いが充満した食卓に足を付けば、そんな声がジルの鼓膜を揺らした。ジルは自然と笑みを浮かべ、柔らかそうな栗色の髪を鬱陶しそうに耳にかけている女性を見やる。


「おはよう、母さん。今日はスープ?」


「ええ。パンとサラダもあるわよ。しかもパンはジルの大好きなメープルロール」


「まじで!? やりぃ!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、ジルは喜びを表現。女性はそんな彼を前、微笑ましそうに瞳を細めている。


 メープルロール。名の通りはちみつを使用したロールパンのことだ。パンの中には細切れにされたはちみつレモンの皮が入っており、これがまた美味いのなんの。考えるだけで腹が減ってくる。

 はしゃぐジルを宥めるように、女性は微笑み口を開いた。


「さあジル。ご飯までまだちょっとあるから、今のうちにお父さんのお手伝いをしてあげて。あの人、一時間も前から外でスタンバイしてるんだから」


「はあ!? 一時間!? 相変わらずバカ親父だなアイツは!!」


 呆れを通り越して逆に感心する。

 ジルは壁際に置かれていた収穫用の籠を背にかるい、玄関の方へ。長々と息子の登場を待つ父の元へ急ごうと、扉のノブへ手を伸ばす。


「……あれ?」


 ふと足下へと視線を向けた彼は、突如としてその場にしゃがみ込んだ。かと思えば、床に落下していた一枚のチラシを手に取り、己の目の前へ。口を開き、その内容を朗読する。


「──悪への招待状?」


 それは耳にしたこともない、実に不思議なワードだった。




 ──この世には、正義と悪が存在する。


 ジルが四歳になった頃、父から教えられたことだ。それは十三歳になった今でも覚えている。それほどまでに、この教えは当時のジルには印象深かった。


 正義と悪。組織化こそしてはいないものの、確かにこの世界にはその二つが存在した。今では正義代表やら悪代表やらもいる始末で、おまけにその代表を決めるために三年に一度、トーナメント形式のバトルコンテストまで開催しているという話だ。

 正直意味がわからない。なぜ自分から傷つきにいくのか。痛みを極度に嫌うジルにとって彼らの思考は理解できないものだ。


 頭上に生えたブドウを得意の跳躍でもぎ取り、背に担いだ籠の中へ。軽やかに地に着地してから懐に片手を突っ込む。

 そこには先程のチラシがやや雑に押し込まれていた。既にしわくちゃになってしまっているそれを取り出し、父の気配がないことを十分に確認してからその内容をもう一度確認する。


「……悪を極めし者達の集まりにあなたもぜひご参加ください。あなたも強さを求めるならば悪に染まり力を手に入れるべきです」


 口にして、チラシを握る指先に力を入れる。


 前世のジルはごくごく平凡な学生だった。髪を染めたことも無ければタバコを吸ったこともない真面目な学生。勉強はできずともテストの平均点は毎回超えていたし、風邪以外で授業を欠席したことは一度もない。そんな彼には、もちろん喧嘩など無縁の産物であった。

 しかし、しかしだ。新たな命を手に入れた今になって、あの悪夢を見続ける度に、思うことが一つある。


 それはもし、自分が強ければという、ありえもしない幻想たる思い……。


 もし少しでも、ほんの少しでも自分に力があったのなら、もしかするとまだ軽い傷だったかもしれない。運が良ければ死すら回避できていたかもしれない。そう思うと、ひどく虚しくなってしまう。


「強さを求めるならば、悪に染まり、力を……」


 力。それを求め手に入れたならば、あの悪夢から解放されるのかもしれない。それに、例えそうでなかったとしても、この世界は前の世界とは違い、一歩村の外に出れば危険が付き纏う危うい世界。賊や野生動物がそこらにわらわらと存在している。力を持っていたとしても、無駄にはならないはず。絶対に。


「……よし!」


 一つ意気込み声を出し、顔を上げて天を仰ぐ。生憎と眩い太陽は緑の蔦や葉に隠され目にすることは出来ないが、まあそんな些細な問題は気にするべからず。

 ジルは己の腰に両手を当てた。そして、深く、深く息を吸いこみ、大声を張り上げる。


「俺はジル! ジル・デラニアス! 最弱の俺は、今から最強の悪を目指してやる! 世の悪党共! 首長くして待ってやがれ! いややっぱり待つな!」


 どっちだ、とついツッコミたくなる言葉を終わらせて、ジルはこうしちゃいられないと果樹園を抜け出した。そのまま彼は、相変わらず意味のなさないであろうクワを片手、カラスを目の前に謎の動きを繰り広げている実の父に体当たりする勢いで飛びつく。

 勢いがありすぎたのかゴキッと嫌な音が聞こえたが気のせいだろう。

 背中を抑え、地にうずくまり悶絶する父を見下ろしながら、明るく笑う少年は告げる。


「親父! 俺、今から旅に出る! 悪党になって強い力手に入れてくるから!」


「ぐっ、じ、ジル……」


「おう! なんだ!?」


「ぐ、グッドラック……」


 親指をたて輝かんばかりの笑みを浮かべ、父は力尽きたように乾いた地面に倒れ伏した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る