魔女と魔法使い
篠岡遼佳
魔女と魔法使い
西向きの窓から、長い昼の終わりを告げる、橙の日が差し込んでいる。
彼はそれに気づき、ぽん、と読んでいた本を閉じた。
そろそろ来る頃だろう。
教えてもらった手順通り、慣れぬ道具をテーブルへ並べる。
まず煎った豆を量り、専用の道具でゆっくりと挽く。なかなか力がいる作業だ。
挽きおえたら、次は抽出をする。そのためのガラスの道具に、漏斗をつけて円錐状に広がる紙を置き、粉になった豆を丁寧に入れる。
火にかけていた薬缶から、金属製で細長い口をした別の入れ物に湯を移す。
ここからが肝要だ。
湯を細く粉にかけていく。だが、紙を濡らすのはいけない。
粉全体に湯が行き渡ったら、しばらく待つ。なんともかぐわしい、それでいてやや苦みのある香りが部屋いっぱいに広がった。この瞬間を、彼は特に気に入っている。
しかし、これはまだ初手である。豆だった粉には、"蒸らし"というものが必要らしい。手順を教えてくれた相手は、真剣に「ゆっくりやれば、ゆったりとしたいい味になる」と言っていた。
蒸らしが終わったかはよくわからないが、頃合いを見計らって、彼は残りの湯もゆっくりと回し入れる。時間をかけて、それは完成した。
これは、"コーヒー”というものだそうだ。豆からして、このあたりで採れるものではない。
温かいまま飲むのも良いが、今日は初夏らしくとても暑かった。
彼は左手をコーヒーの入ったガラスポットに当てる。
「"可逆の力よ、静まれ。ラーミューの冬よ、凍る吐息を我が手に"」
瞬間、さっとポットが曇る。液体の温度が下がった証拠だ。
これは魔法である。この世の理を書き換え、あらゆるものを喚び出す力。
彼は、魔法使いだ。
「こんばんはー、って、いいにおい。コーヒー淹れてくれたの?」
おざなりなノックが聞こえると、返事も待たずにドアが開いた。
なぜか片手に箒を持ち、黒のワンピースを着ているのは、年若い女性だった。
「こんばんは。3回目だからうまくいってると思うんだ」
彼は挨拶に微笑みながら、やはり魔法で作った氷をコーヒーの入ったコップに入れる。
「きみは筋がいいからね。ものをする手が器用なんだよ」
彼女が箒を壁に立てかけ、いつもの席に座りながらそんなことを言うと、彼はまんざらでもない顔をして、
「ほめてくれたから、例のチョコチップクッキーをお茶請けにしようか」
「やった!」
甘いものに目がない。おいしいものは何でも大好き。それが乙女というものである。彼も自分の席に座った。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
二人とも冷たいコーヒーを一口飲み、ふっと息をついた。
「今日は暑かったねぇ……」
「うん、私の"ホーム"も相当暑かった。体温くらいあった」
「今日というか、今回はどうするの?」
「準備ができてるなら、おふとんで眠りたいかなぁ」
「だいじょうぶ、おふとんちゃんと干して、熱くなる前に取り込んだから」
「わぁい!」
にこにことクッキーを頬張る彼女に、彼は付け加える。
「で、今回の時間はどのくらい?」
「うん、長いかも、一週間くらいかな」
「それはよかった」
「私も、きみと長くいられてうれしいよ」
とくべつなほほえみで彼女は答えた。
つい、頬が熱くなる彼である。
彼と彼女が出会ったのは、もう10年も前。
彼が洗濯物を取り込んでいたら、
「どいてーーー!!!」
と叫んで空からシーツに飛び込んできた。それが、彼女と箒だった。
こんな森の奥に、しかも箒で、空を飛んで?
彼が問うと、彼女は今日と同じ黒いワンピース姿で言った。
「私、魔女なんだよ――――あなたが魔法使いなのと、同じように」
この世界の理を書き換える魔法が使えるのは、この世の理に逆らったから。
それは反逆。それは驕り。
それは人の法では裁かれない、世界から罰を受けるもの。
彼は罪を犯した。
病にあえぐ自分の子が助かる方法を探した。
そして時空間を破り、世界から見放された我が子を、別の世界へ送った。
彼女も罪を犯した。
町を疫病から助けようと、別世界の知識を手に入れた。
どんな災害や病でさえ、世界の理は絶対であるのに。
何が起こってもいい。その独りよがりが世界を壊す可能性があっても。
それが罪。
そして二人は罰を受けた。
彼は、死ねない体になった。病も、怪我も、成長もしない体。
つまり、「すべてのものを見送り、悲しみ、涙し、傷つけ」という意味だ。
彼女は、ひとところに長くいられなくなった。期限が来ると別世界に飛ぶのだ。
つまり、「すべてのものと常に別れよ」という意味だ。
お互いの身の上を話し合った後、彼女は言った。
「私は、"ホーム"と呼んでいる場所を起点に、あっちこっちに飛ばされている。そして、どうやら時空間を飛び越しているうちに、成長しない体になりつつあるらしい」
「じゃあ、僕はきみのことなら、いつでも迎えてあげられるんだね」
ふたりはそうして、寄り添っていくことを選んだ。
男女の愛情や、親愛というものとは少し違う。
罪と罰、その根源が互いに同じであるとわかったからだ。
魔法使いは、彼女を見送ることになるとわかっている。
魔女は、彼を置いて自分が死ぬことを知っている。
誰かをおいていくのも、誰かにおいていかれることも、同じ『孤独』だ。
けれど、いまこの一瞬だけは、ふたりで生きることができる。
世界から見放された魔女と魔法使いは、箱の底に残った「希望」を、つよく抱きしめていた――――。
魔女と魔法使い 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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