適当小説

朝川渉

第1話 普通になやむ

「ブリュンヒルデ…えーと、えと、あれ、なんだったっけか。木村くん。覚えてない?ブリュンヒルデの出てくる宮崎駿のアニメの…」


「は。ポニョですか?」


「ああ、そうそう。ポニョ。」


ーポニョに揚げ足を取られる。斎藤は原稿用紙にそう書き込み、ふうっと息をついた。


「先生、ありがとうございます。つきましては、次週発行の《全方位おじさん》の原稿もよろしくお願いいたします。」


「ああ、そうだったな。」斎藤はため息をつき、原稿用紙にペンを走らせる。


ーータナカはそうして、気づいたのである。おじさんというものは、全方位に向かって話しかける生き物なのだ。タカハシ課長は今日もまた、部署のなんてとこない場所で立ち止まり、声を上げる。「ホッチキス」


女子社員が、一人だけ顔を上げる。この部署は人数の減少に困窮を極めているので、一年前まで三十人ほどいた部署には、女子社員とタナカの二人しかいない。

「どこ?」おじさんは言った。

「課長…自分の机の上にあります。」

「ああ。」

課長はくるりとUターンし、机は戻っていく。(ちゃんと名指しで聞けよ。おれたちは、空気か…?)タナカはそう思った。






「ふうっ。できたよ」


「ありがとうございます。…斎藤先生。申し上げにくいんですが、その。昨日までの締め切りの「スーパーカミオカンデ六号」の原稿が、まだでして…」


「えっ?!まだあるの?!」


「は、はあ」


「はあっ」斎藤は頭を抱えて、机に突っ伏した。「もう無理!むりむりむりむり!なあーんにも、出てこないよ、正直。」


「は、はあ…ですが、担当の者からも再三お電話を差し上げたのですが、先生がずっとスーパー銭湯に行っているとのことで留守電からなかなか切り替わらず…」


「休みがないんだよ。なんでこんな連載、いったい誰がいれたんだよ」


「先生です」


「…はあ。…なーんてな。うそうそ。ちょっと、言ってみただけだよ。」



斎藤は、担当編集者の木村の顔を見た。まだ若く、ぴちぴちした肌をしている。斎藤はこの頃、若さについてよく考えるようになった。というのも、こんなふうに編集者の年齢が皆、自分よりも下であることが多くなってきたからだ。中には平成生まれ、もしくは20歳下というような奴もいる。20歳…?二十年、俺はいったい何をして生きてきたんだ…?そんなふうにアラウンドフォーティーシンドロームに陥ることも少なくない。けれど、とにかく自分は編集者いびりをするような人間じゃない。そういう気持ちで書き始めたのがこの《全方位おじさん》でもあった。しかし…


まあいいか。

「けど、無理なのは本当。もう何も出てこないよ。俺の頭の中のストック教えてあげようか?」


「はい」


ぽん!と斎藤が、ペットボトルを手にして、机を叩く



「は?」木村が不思議そうに顔を上げる。




「わかった?」



「は?いや、どういう…」



ポン!「ゼロ!ってことだよ。」ポン!



「ですが、締め切りが…」



「いつから無理って思っていたと思う?」



「…」



「半年前からだよ。半年前の一月七日、あの時点でネタが底をついた。はっきりいって、一度俺は筆を折ろうと決意したんだ。…知らないだろう。そこからちからを振り絞ってやってきた。はっきりいってよくやって来たと思うよ。ゼロなのにまだちからを振り絞ってやったことってある?風邪引いてるのにフルマラソン走らなければならないようなものだよ。できる?そんなこと。だから、もう正真正銘のもうすっからかんだよ。」



「ですが、締め切りは守っていただかないと」



「…はあ」


「なあ」



「はい?」



「ここに、マヨネーズのチューブがあるとするだろ。」



「はあ」



「それを毎日、毎日…こう、連載やらコラム執筆で絞り出していくとするだろう。それを同じペースでやっていって、一体どうなると思う?」



「ですが先生、お言葉ですが同期の村木正治先生は、いまホテルにカン詰めしながら長期連載、ほかの連載三本を同時並行に執筆中ですよ」



「ふ、ふうん…」



村木正治。その名前を聞くのは久しぶりだった。けれど、斎藤は意識的にそれを避けてきたといってもいい。小説家、とひとくちにいっても、いろいろな種類の人間がいる。どうしても小説家になりたくて、努力でのし上がった者。運で入ってきて、そのあと苦労している者、それから、あろうかとか、天性の小説家、みたいなやつもいる。村木正治もその一人で、さまざまなジャンルの小説をデビューして数年で書き上げ、その上そのどれもこれもが文壇からの評価も高い。…斎藤はというと、おそらく運で入ってきたタイプだった。けれど、自分は小説家にしか向いていないのだと言い切ることが出来る。そういった人間は、死に物狂いの努力を強いられる。斎藤も、そうしていくつか文壇から認められる作品を書いてきた。それは、自分にしか書けないものだったと自負している。固定のファンもいる。しかし、才能がほとばしるような新人が毎年デビューしてくる中、伸び悩んでいるのも事実だった…



「おれは…」



「は」



「天才じゃない…」



シーン!となった。

あろうことか、木村もフォローせずに斎藤の顔をじっと見ている。それを次の言葉を継ぐのを待つとも感じ取った斎藤が、焦って話し始める。



「だから…俺は、村木さんみたいに…あの人は…スケールも、着眼点も…見たことがない、ものを…ああああ…いや、…違う、俺は…そうだ…そうやってやるタイプじゃないんだ…」



「じゃあどうやってきたのですか。」



「は?今まで?」



こくり、と木村がうなづく。「こういうことですか?」



ポン!と木村が、いつのまにか手にしていたペットボトルを机に叩きつける。



ポン!「こういうことですか?」ポン!



「は?」



「だから」ポン!「こうやって瓢箪から駒が出てきたって事ですか?」ポン!



斎藤は、口を歪めて力なく笑った。









「なあ」



「はい。まだですか?」



「ああ。ちょっと気分を変えてみようと思ったんだ。あのさあ、君、…書いてみたら?」



「は?!」



「だから、さあ。筆を折るとなるともう大打撃なわけでしょ。僕も君も、会社も。どうせ今回俺はゼロなんだから、適当なことを書こうと思っている。…それよりか、君が…書いてみるっていうのはどうかな。」



「先生、またまたご冗談を」



「冗談じゃないよ。とにかく、俺はもう今日は書かない。書けないんだ。」



「そんなこと、出来ません。」



「いいだろ。」



「読者が、悲しみます。」



(読者?もうこんなもん見てるやつ、いるのか…?)



「まあ、そ、そうだな。読者は、大事だな…」



斎藤はそう言いながら、このあいだ2ちゃんねるで「猿にも書ける!」と自署が紹介されていたことを思い出す。読者なんてのは…

そう。空気、みたいなものだ。ある時はあるし、ない時にはない。そんなものを、もう既に気にしてなんて書いていない。しかしそれをここでいうのは、いかにも薄情に見えた。それに、このあいだの講演会でも「エーッ読者のミナサマのおかげさまでーッッ」と喋くりまくった記憶が蘇って来た。



「じゃあとにかく。仮定でいいよ。ほら。一ページだけでいいから、一回書いてみて。そこから何か出てくるかもしれないから。試しに。試すだけでいいから。」



「…」木村は、その「試しに」につられて、ペンを取る。何しろ締め切りまであと三時間しかないのだ。それを見た斎藤がニヤリと笑うと、「やっぱりできません!!」木村は叫ぶ。「………」「こんなこと!仮にも編集者ならば!先生の文字をお届けするのが仕事ですので!私にはできません!信仰に反しております!!」



「ふっ」



斎藤は笑う。



「そういうと思ったよ…」









斎藤は、じり、じりと進む時間の音を聞きながら、木村の視線に耐えながら、「スーパーカミオカンデ六号」の《去来》のシーンを書き出そうとしていた。スーパーカミオカンデを急に書きたくなくなったのに色々と訳があった。ひとつに、このあいだの芥川賞で「エクセレントな素数」というどことなく似ている小説が出ていて、高評価を受けていたこと。そしてその発想が、斎藤の思いもつかない部分をかなり深掘りした、しかも文章力も25歳とは思えないほど老成したものだったらである。その後コンビニで読んだ本でも「もう宇宙は古い!」などという特集を読んだものだから、練っていたストーリーを捨ててしまうことにした。こうして、せっかくかきあげ伏線が消えてしまったあげく、一から、今一番ホットな芥川賞を何故か敵視しながら自分は書き上げなければならないのだ。



…どうして、こんなことに。



編集者はこの辛さをきっとわかっていないに違いない。そうは言っても、斎藤はこう見えて色々なアルバイトを経験して来た。中華料理屋、ラーメン店、マクドナルド、とほぼ飲食店だけであったが、いろいろな厨房を任されてきた。厨房には、達成感がある。皿を100枚仕上げた後で飲むビールはうまかった。ミスしても、仲間と会話すれば帰り道の足取りは軽かった。けれど、今は、書き上げても、書き上げても追い込まれているような感覚がある。それに、誰かが賞を受けたというだけで、自分の全存在がーーアイデンティティを侵されるようなーーそれは生まれてきた理由を根底から否定するような、感情に支配される。


・・・・・・・・。





斎藤は、おもむろに靴下を脱ぎ始めた。

さっきまで他の原稿のチェックをしていたらしい木村は、顔を上げて斎藤を見ている。

靴下の二つともを床に放ると、斎藤は足を机の上に上げてだらりと体をなげだした。自分なりの「どうでもいい」のジェスチャーだった。それに、自分よりも年下の、経験の浅い編集者の困った顔が見てみたいという気持ちもあった。

そうなのである。斎藤はまさに、テスト前に精神が鬱屈してきてどおしょうもない高校三年生と同じになっていたのである。

高校生のときは、一人で机の上に鼻くそを並べていたのだが、もうアラウンドフォーティーを越した自分は、他人を困らせてもいい」ような気がなぜか、した。


・・・・・・・・・・・・。


木村は斎藤を見ている。「なんて、言うのかな」斎藤は、ワクワクして待っていた。しかし木村は、特に何も言わずにまた原稿用紙に目線を落とした。


(しまった。)



足を下ろす口実をなくした。

てっきり、神妙な顔をして「先生、真面目にやってください」と言うと思ったのに。

とりあえずそのままのポーズで、斎藤は考えを練ることにした。しかし集中出来ない。自分がこんな不真面目なポーズをしていることが気にかかるからだ。



(早く、元の体勢にもどしたい…)



一秒…五十秒…



斎藤は、木村に恐れ入った。こいつは、天下の早稲田大学を出ているだけある。度胸が据わっている。作家と編集者という虚構の身分差は絶対的だと思っていたが、所詮俺はもう四十の、枯れかかったおやじなのだ。「ハーっ!もう、あきまへんなー!出てきまへんがな!なにもひょっこりと!出てきまへんがな!」



「…」



「出てくると思うとったんやけどなー!まるっきり、いいもん出てきまへんがな!」



「先生」



「はい?」



「先生…って、北海道出身の方ですよね?」



「ああ」



「まじめにやってください。」



「わかった。木村くんのために…やろう。」



「早くしてください。あと三時間しかありませんよ。この間、丸山先生なんて、エッセイを五分で書き上げたといううわさで…」



「わかった!わかったわかった!わかったからちょっと、静かにしててくれる?比べてみて、やる気が出る…って思っちゃってる?それ、一番やったらだめだから!」



「先生…」



「はい?」



「めちゃくちゃ喋れるじゃないですか…それを早く、ココに書いてってくださいよ」



「あ、ああ。」



なんだかんだで、斎藤はコントロールされている。こいつ、結構うまいことやるな、と思っていた。











「木村くん」



「またですか」



「さっき言っていただろ。《瓢箪から駒》みたいな話…あれってさあ、あながち嘘ではないよな。俺たちも、無から有を作り出すわけだからさ。…自分でいうのもなんだけど、偉いことやってるよな。」



「ハア。」



「そうだろ。」



「ええ。」



「あーっ!分かってない!例えばだけど、商品を作って、流通に乗っけるまでをシュッパン全体のの仕事とするだろ…そうすると、作る人と、乗っける人、どっちが偉いと思う?」



「それは、もちろん作家の大先生様です。ですから今、こうやって先生のお力を借りるべくわたしは、待っているのですよ。」



「ま、まあそうだけど、さあ。だからな。ゼロから一を作るのと、それを運ぶのってだいたいが、性質の違う仕事だと思わないか…」



「そう思います。おっしゃる通りです。先生。先生の原稿をファンが、編集者が、編集部全体が待っております…」



「待つなよ。」



「は。」



「それが、プレッシャーなんだよ。」



「分かりました。じゃあ、どうでもいいんでやってください。」



「ちがうだろ。」



「じゃあ、どうしろと。」



「……」



「どうしろと。」



「ロボットなのか、きみは…」



「編集者です。先生、早く書いてください。私たちはその「有」を誰よりも待ち望んでる使徒です。」



「………………」



「早く。」



「…はあ。わかったよ…

で、なんだけど、さっきの話な。瓢箪から駒、みたいな感じもあるよなあ。俺だって、世界のことわりなんて知ってるわけじゃないからな。誰かがやってくれるもんならやって欲しいよな。それに…今まで書いたもの、なんで書けたのかなんてよくわかってないことも多いんだよな…」



「はあ」



御託はわかったからさっさと書けよ、という顔をして、木村が斎藤を見ている。



「例えば、デビュー作。あれは、思い入れが高いな…まあ、皆そうだろうけどさ。今見たら、稚拙すぎて笑っちまうんだけど、あれが俺だったよなあ、って思って」



「であれも瓢箪から駒なわけですか。」



「ラッキーだったよな…」



「いいから、早く書きなさい」



「いや、違う。瓢箪から駒じゃない。あれは、五年前くらいから構想を練っいて、プロットもきちんと作った。浅いと言われているところもあるが、俺らしい作品だった。」



「ハア」



「でも細かいところは、勢いで書いたようなもんだ。そう考えると◯も◯も◯も、実はそうだ」



「え?あの名実ともに名高い◯もですか?!」



「ああ」



「まじですか?!」



「うん」



「ひえー!」



「だから、さあ。俺にショックを与えてみて欲しいんだ。《瓢箪から駒》理論を採用してみることにした。木村くん、手伝ってくれ」



「どうやってですか?」



「うん。とりあえずな、俺の頭を思い切り叩いてみてくれ。」



「え?わたしがですか?」



「ああ。」



木村はためらわずに思い切り振りかぶる。



「おい、おいおい。ちょっと待て。」



「は。」



「手だと痛いだろ。もっと考えろ。そこにある、ペットボトル。見ろ。」



「ああ。」木村は、それを手に取る。



「ちゃうわ。ペットボトルの蓋。外してみてくれる」



「え?…こうですか?」



「ああ。で、五メートルくらい、下がって。」



「はい。」



「そこから」



「は?」



「そこから、投げてみてくれる?」



「どこにですか」



「俺」



「俺のどこにですか」



「頭」



「は?こんな、軽いものをですか?」



「そうだ。」



斎藤はくるりと机の方をむき、木村からは後頭部が見えるかたちになった。木村は、(なに、言ってんだこいつ…)と仮にも作家である斎藤に対して思いつつ、思い切り振りかぶって、力任せに斎藤に向かって投げつけた。

カツ!と音がして、ペットボトルの蓋は壁に思い切りぶつかり、床へと落ちた。



(はずれた。)


木村がそう思うと同時に斎藤はこちらを振り向き、



「ブブーッ!はずれでした〜!!」



と小学生のような笑顔で応えた。



木村は(こいつ、年上だけど…いつか殴ってやる)と思った。

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