君だけを想う【Side S】

「ねぇ、沙織ちゃん。また彼氏と別れちゃったんだって?」


心配そうに向かいに座る友達が呟いた。私が頷くと彼女は大きな溜息をつく。


「もぉー!どうして1ヶ月もしないうちに別れちゃうのかな」


困ったような顔を浮かべて呟く友達の言葉に苦笑いをすると、私は運ばれてきたハンバーグを口に入れた。

そういやよく、部活帰りにこのファミレスに来てはこればっかり食べてた。口中に広がる懐かしい味に、ふとそんなことを考えながら、私は少し目を伏せる。


”お前は いつもそればっかだよなぁ”


呆れたような笑みを浮かべてあの頃、私の向かいにいたのはいつも同じ人だった。

恋い焦がれてやまなかった、ただ一人のひと。きっともう会う事もないだろう、今では遠い記憶の中のひと。


「ねぇ、今度合コンあるんだけど沙織ちゃんも一緒に行かない?」

「え?」

「大丈夫!絶対次は気に入る人が見つかるから」


私の向かいで美味しそうに海老フライを頬張っている友達は、熱心に私を誘った。彼女なりにきっと恋愛経験に乏しい私に気を使ってくれているのだろうと思う。

別にそれを悲しいと感じたことは一度も無いのに。

どうしても駄目なのだ。

自分を好きだと言ってくれる人がいくら現われても、好きになろうと努力しても、どうしても気持ちが動かない。

手を繋がれる度にキスをされる度に、いつも同じ顔がちらついて胸がうずいて自分から離れてしまう。


これが先輩だったら、私はどんなに幸せだろうか、と。そう思ってしまう度、罪悪感を感じて別れを告げる。私の恋愛はこのパターンの繰り返し。

そもそもこれが恋愛経験かどうかも不明だけれども……。


「だってね、沙織!今度の相手は全員、松川商事の若手社員ばっかなんだよー!大企業のエリートさん。絶対行くべきだって!」


松川商事


その言葉に反応して私はフォークを持つ手を止めた。

先輩の就職先の会社だという事を私ははっきりと覚えていた。


―――――もしかしたら先輩に会えるかもしれない。


淡い期待が胸の中に膨らんだがすぐにその思いは弾けた。一体あんな大きな会社にどれだけの社員がいるだろうか?先輩がいくら合コンが好きだったからといって、偶然会える確率などほとんどないに等しい。

それでもこんな思いをいつまでも引きずるくらいなら。


先輩に会えなくても構わない、大学卒業まであと少し。

ここら辺で踏ん切りをつける為にも参加してみるのもいいかもしれない。そう考え、私は彼女の提案に承諾したのだった。


だから当日。

淡い期待を胸にお店に入った時、そこに先輩の姿が無くても、私はすんなりと納得していた。

そんなに上手いこと行くはずないよね。正直なところ、万が一会えたところで彼にとってはただの一後輩である私を覚えているかどうかも不安だったのだから。


彼の隣には、いつも煌びやかに飾り付けたような綺麗な女の子たちが絶えずいた事を思い出す。私には到底足りないような色気に満ちた彼女たちを見て、いつも自虐的な気分に陥っていたことも。


「沙織。あんまり中野先輩と一緒にいるとアンタいつか襲われるよ。あの人、女なら誰でもいいみたいだから」


誰かがそんな事を言っていたけど、先輩は私に襲いかかるどころか、めったに触れようともしなかった。

きっと彼にとっての私は、女として対象外だったのだろう。たまに私の頭をぐりぐりと撫でながら微笑む先輩はまるで、私を妹の様に本当に可愛がってくれていたのだ。


一方的な片思い……


はぁ、とため息をつくと私は下を向く。

元々こういう処が苦手な私は周りに乗りきれないまま、仕方なくちびちびとお酒を啜りぼんやりとしていた。


「…―――――――わが社のイケメン№1、中野晃一クンでーす!」


ビクッとその名前に自分の体が反応するのがわかった。ばっと顔を上げ声の方を見ると、懐かしい彼の姿が自分の目に飛び込んできて、私の心臓は一気に飛び跳ねた。


「ぇっ、先輩?」


思わず間の抜けた声を出す私を、彼は凝視していた。何も言葉を発しないその姿に、瞬き一つしない彼の様子に、一気に心が乱されるのがわかった。やっぱり、私の事なんて忘れてるんだ。


そう思うと胸が苦しくて苦しくて、もうここから逃げ出したいとまで思った。しかし彼は真っ直ぐとこちらに歩いてきて迷うことなく私の向かいの席に座った。


「驚いたな」


そう言って私に向ってにっこりと笑いかけたのであった。



先輩は私の事を忘れてなどいなかった。それどころかまるで、先輩がまだ部活にいた頃の様に親しげに、笑いかけながら話してきてくれた。

”こういう処、苦手じゃなかった?”と言われた時は”もしかして先輩に会えるかと思って”と答える訳にもいかず少しうろたえた。

なんとか口にした言い訳に先輩は納得してくれたみたいだ。


色んな事を私は話し、時折それに耳を傾けながら先輩は、私をたくさん楽しませてくれる話をしてくれた。あまり口数の多くない私の話を聞き洩らさないように、熱心に耳を傾けてくれる先輩の姿は昔とちっとも変らない。

そんな先輩が私は誰よりも好きだったのだ。


「なになに~。二人とも随分仲良いじゃない?もしかして昔付き合ってたとか?」


向こう側に座っていた男の人がふいにこちらの話に入ってきた。あまりの唐突な言葉に私は一気に自分の顔が紅潮したのに気づく。私は慌てて誤解を解こうと必死になった。


「ち、違いますよ!中野先輩は本当に面倒見がよくて優しくって、私が勝手に兄の様に慕っていただけなんです!」


そう自分で言っときながら、同時に胸が痛む。彼の顔を見ると、眉間にしわを寄せて悩ましげな顔をしているのが見えた。

もしかして、私と関係があったなんて誤解されて不快に思っているのかもしれない。


そう、先輩が私を妹の様に大切にしてくれるのならば、それでもいい。傍にいられさえすれば。

そう、自分に言い聞かせてずっと彼を兄の様に思い続けようと、ずっと努めてきた。


それでもやはり、不意に見せる優しげな笑顔や、時たま私の頭を撫でるその大きな手が、どうしようもなく好きで好きで。

もしその広い胸に抱き寄せられたらどんなに幸せだろうかと有り得ない事を想像してはいつも悲しくなるばかりで。

彼が私のずっと憧れていた、どうにも手が届かない大好きな先輩だという事実は。


やはり、今でも変わらないのだと思うと、急に悲しくなってしまった。


ぼんやりとそんな事を考えていると何時の間にか隣に座っていた男性が、私の肩に腕をかけて何やら話かけてきている。うわの空で答えながら、私はどうにかその腕を下げてもらおうとしたがどうにも私の力じゃ無理な様だった。

いつものパターン。

どうにもぼんやりしている私は何故か知らないうちにこうしてよく絡まれてしまい、上手くかわす事が出来ない。

そういや、先輩はいつもそんな私を上手くカバーしてくれた。きっとあまりにも私が頼りないから、ほうっておけなかったのだろう。


そんなだから、女として見られないのだろうか―――――――


その時、がしっといきなり右手を掴まれた。驚いて顔を上げると目の前に座っていた先輩が何故かカバンを持って立ちあがっている。


「カバン持て―――――帰るぞ」


それだけ言うと先輩は強く私を引っ張る。突然の出来事に、私は驚いた顔のままどうにかカバンを手に取ると、あれよあれよと先輩に引っ張られるままに、お店の入口に連れて行かれたのだった。



しばらく夜道を歩いた後、先輩の手が私の腕から離れた。ずっと掴まれていたその腕は、驚くほど熱くなっていてそこからドクンドクンと激しく脈をうっているのがわかった。

先輩は「駅まで送るよ」と言った後、黙って私の隣を歩いてくれた。


また、助けられてしまった。


私がそのことを口にすると先輩は「見てられなかった」と言って少し苦笑する。その様子はまるで先輩として当然のことをしたまでと言っている様に見えた。きっと誰があの状況に陥っても、先輩はこうやって助けてあげるだろう。


「―――――先輩は優しすぎます」


そうポツリと呟いた後少しだけ、自分の瞳が潤んだのを感じた。


駅に着いた直後、先輩は私がベンチに座ったのを確認すると、小走りで自販機に向かった。帰って来た彼が持っていたのは、彼の大好きなコーヒーと私の為のココアだった。

私がコーヒーを飲めない事を覚えててくれたことがとても嬉しくて。

思わず頬にその缶をあてるとそれはあまりにも温かくて、冷たかった頬に沁みるようだった。それなのに、何故かその温かさと反比例する様に私の涙腺が緩んでくるのに気づく。


先輩は優しくて


優しくて優しくて でも それは


必要以上に甘えてはいけないはずの、優しさで


ずっとこうだった。

優しくされる度に、小さな期待を抱いてはいつも、悲しみに暮れていた。


もう、ここで別れたら先輩と会う事はないのだろうか?

また私はこんなにも鮮明に塗り替えられてしまった彼の姿を記憶に留め、想い続けるのだろうか?もう、そんなのは嫌だと瞬間答えていた。


じゃぁ、どうしたらいい?


ふと眼を彼の方にやった途端、私は自分の胸の鼓動が一気に速まるのを感じた。


「――――その時計使ってくれてたんですね」


動揺を悟られないように私は先輩に話しかけた。


「え?あぁ、これな」


呟いて彼は、私の大好きなあの笑顔を浮かべた。


「気に入ってるんだ。いつも付けてる」

「嬉しいです。先輩には少し可愛すぎたんじゃないかなって」

「お前が選んだんだ。大事にするに決まってんだろ」


思いもよらなかった言葉にまた、一段と胸の鼓動が早まった。


違う、また期待した。


先輩が言いたいのはこういう事の筈だ。

 ”部活の皆からのプレゼントなんだから当たり前だ”

私は行き場の無くした想いに、とうとう悲しくなってしまった。


「やっぱり、先輩は誰にでも優しすぎます」


その優しさに期待してしまうんです。繰り返し、繰り返し、何度も、何度も。ずっとずっとわかっている事なのに。それが特別なことでも何でもないんだって事ぐらい。

先輩が私に抱いている感情は、絶対に私とは違うものだってことぐらい。


絶対に、絶対に私とは


「――――――誰にでも優しくなんかない」


そんな事、無い。

先輩は優しい、とてもとても残酷なほどに、昔も


そして 今、だって―――――


「俺が優しいのはお前にだけだ」


その言葉にはたと自分の思考が停止した。言葉の意味を測りかね、私は思わず先輩の顔を見た。その顔は今まで見たどの先輩の顔よりもひどく真剣である様に見えた。


「好きなんだ――――お前だけが、昔も今もずっと」


彼の口から毀れたその言葉が全く頭に入ってこない。それが何を意味しているのかさえわからない程、私の頭は激しく混乱していた。


好き?

今、も?  昔、も


「えっと、それは……後輩として……」

「違う」


きっぱりと彼は言い切るとじっと私の眼を見た。その瞳は私が見たことのない種の色を帯びた鋭いもので、私は目が離せなくなってしまった。


「お前を妹みたいに思った事なんて一度もない。出会った時から、女としてしか見れなかった」

「だって、先輩はいつだって女の人と一緒で、私には全然」

「傷つけたくなかったんだ。お前は俺を兄貴みたいに慕ってくれてた。信じてもらえないかもしれないけど、彼女たちを好きになった事は一度も無い。ずっと、お前だけが好きだった」


そこで彼は少し自嘲気味な顔を浮かべながら付け加えた。


「――――あの時はずっと、彼女たちをお前だと思って抱いてたくらいだ」

「……」

「最低、だよな」


いつの間にか電車がホームまで来ていて、その扉を開けて私を待っていた。でも、私は動けなかった。もう完全に頭の中は真っ白になっていた。自分のおかれた状況が、次に発するべき言葉が、何なのかわからないほど。


それなのに彼の表情は、ひどく穏やかであるように見えた。全てがもう、完結してしまったかのように。まるで私の答えなど、最初からわかっているのだと言わんばかりに。


どうして?

私はまだ何も、応えて、伝えてもいないのに。


先輩は線路の方を見ると「時間だ」と言ってあの腕時計に目をやった。黒い革ベルトの小さな、腕時計だ。

私があの日、先輩にあげたあの腕時計だ。


あの日、あの時、先輩と最後に向かい合った時

私は言うつもりだったのだ。


先輩にずっと言えなかった、たった一言の言葉を。


それなのに体育館からたくさんの女子に囲まれて出てきた先輩の姿を見て私は動揺してしまった。そうだった。

ずっと色んなことを話して、笑って、相談したり、助けてもらったり、そうやっていつも傍にいたはずなのに。

本当に言いたいことは 言えなかった。


会えなくなって気付いたことは

私がずっと、状況に甘んじてたということ。


傍にいたいなら

変わらずずっと貴方の隣にだけいたいなら


伝えなければならないことがあったということ


―――――それは今からでも間に合うの?



「ずっと言えなかったんだ。お前が俺から離れていくのが怖かったし、何より自分が傷つくのが怖かった。でも今日お前に会ってやっぱり好きだって思わずにはいられなかった。伝えたかった、最後に」

「……」

「お前が俺をどう思ってるかはわかってる、忘れてくれて俺は――――」

「わかってません」


私は思いっきり顔をあげた。先輩に負けないぐらい強い瞳で彼を見つめながら。彼が少し驚いた顔をした。その眼が微かに揺れたのを私は見逃さなかった。


「私、先輩に嘘をついてるんです」

「嘘?」

「はい――――その時計、部活の皆からのプレゼントじゃないんです」


どうしても贈りたかった。

何か彼が身につけてくれそうなものを。


「私が一人で買ったんです、先輩の為に」


私を少しでもいいから思い出してくれそうなものを。

必死で、必死で選んだのだ。


「それから皆会いたがってるから、たまには遊びに来てもらいたいって言ったのも嘘です」


ずっとずっと 


「私が、私が会いたかった、先輩にどうしても」


その一言を口にしてしまった途端、自然と目から涙が零れた。それが物凄い速さで下へ流れ、駅のホームの床に落ちた。先輩はそれを見て私の頬に手を伸ばし、そっと優しく触れると親指でその涙を拭った。何度も何度も。その手があまりにも温かくて、私の涙が彼の手を濡らしていった。


「兄の様に慕っていたというのも全部、嘘、嘘なんです。私は怖くて、でも私は――――」


次の言葉を言わないうちに、彼の唇が私の唇を塞いだ。そっと優しく、軽く触れたその感触に息が止まってしまうかもしれないと思った。激しい眩暈がして世界が大きく揺れたように感じた。

すぐに離れた彼の顔を間近で見つめながら、震える声でずっと言いたかった言葉を呟いた。


「……先輩が好きです」

「うん」


薄明かりに照らされた彼の顔がほんのりと紅潮していた。先輩でもそんな顔をするんだ、と思いながら少しだけ笑うと彼は頬の触れていた手を私の後頭部にずらし、もう一度今度はさっきよりもずっと深い口づけをした。

すっと私を包み込む唇は、私を強く拘束しながらも驚くほどに優しくて。


私の嫌いなコーヒーの香りが彼から香るというだけで、全然嫌じゃなくなっていた。

少しでも長くこの香りに包まれていたい。ずっとこうしていれたらいい。

何も考えられない状況の中、ただ心からそれだけを願っていた。


そんな願いも空しく彼はゆっくりと唇を放してしまった。寂しげに私が頭を下げたのだが、すぐに彼は私の肩を引き寄せると強くその腕で抱きしめた。

その胸の中で小さく笑いながら私は呟いた。


「さすが、ですね」

「何が?」

「……キスが上手だなぁと思って」


ぼそっと感想を伝えると、彼は少し意地悪そうな顔を浮かべて私に言った。


「こんなので満足されちゃ困るんだけど」


言葉の意味を測りかね、私が首を傾げると彼は私の大好きな笑顔を浮かべながらそっと耳元で囁いた。


「――――――……逃げんなよ」


いつの間にかホームから電車の姿は消え去っていた。辺りには全くと言っていいほど人の気配が見当たらない――――――私たちを除いては。

私を抱き寄せた時つい、彼が落としてしまったコーヒーの缶からまだ湯気がたっているのが彼の肩越しに見えた。

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