第4話 森の中


「カナ、おせえぞ。もうちょいペースをあげねぇと、夜までに森を抜けられない」

「うう、頑張ってはいるよ。それよりレグルス、おじいちゃんなのに元気すぎるよ」

「まあな。元気が取り柄だ……じゃなく、ジジイじゃねぇから!?」



 ピッチピチなんだがな!? と叫ぶ語彙におじいちゃんを感じてしまうのは、理不尽なことなのだろうか。





 ***




 互いの自己紹介で年齢を知って叫び合ったのはつい先程のことだ。おじいちゃん、と言ったものの、長寿であるエルフにしてみればレグルスの年齢は人間の年齢に換算すると私とだいたい同じくらいになるらしい。「人間の年って、そういやそうだったよな。わかり辛ぇんだった、忘れてた」と彼は片手で顔を抑えてため息をついていたのだけれども、衝撃だったのはこっちの側だ。



 86歳、と言う彼は私からしていればおじいちゃんなのに、エルフからしてみれば若者を通り越してまだまだ子供なわけだから、本人からすれば、そんな認識はないらしい。とは言え、ときおり妙に感じる落ち着きには納得したような、そんなことはないような、と考える暇もなく、私はレグルスの後ろをついた。



 森の民、という言葉をきいたことがあるけれど、レグルスはそのイメージ通りに歩を進ませて、ときどきちらりとこちらを振り返っては周囲を観察している。私はボロボロの鞄を抱きしめながら肩で息を繰り返した。運動は苦手な方ではないけれど、さすがに慣れない道を歩くには体力ばかり消えていく。



(でも、はやく、行かなきゃ) 



 レグルスは、私に何度かの問いかけを繰り返した。最初こそ、しっかりと返事をしていたものの、いつしか曖昧に頷いて返事を繰り返していると、少年はふと、遠くを見つめた。鼻の下をこすって、瞳を眇める。それから、「カナ」 額の汗をぬぐって、木の根に足をかける彼を見上げた。「まあ、ちょっと。休憩すっか」



 進まなきゃ、前に行かなきゃ。とにかくはやく。そんな気持ちがぐるぐるとから回っていた。なのにホッとしている自分もいて、すっかり座り込んでしまった。






「なあ、その荷物、さっさと捨てたらどうだ?」



 ぜえはあ息を繰り返しているときに、すっぱりと告げられた言葉に、「えっ?」 と素っ頓狂な声を出してしまった。



「捨てたら……って、どれを?」



 そんなの何にもないけどな、と瞬いて辺りを見回すと、「いやそれ、ずっと持ってるやつ。重いだろ。楽になるぞ?」 つんつん、とレグルスがこっちに指をさして、言葉から逃げ切れない。彼が言いたいことはわかる。鞄というには外側が破れて心もとないし、中に入っている教科書だってボロボロだ。重たくって、ぜえはあ口から息が苦しいのは、このせいだということもわかってる。



「む、むり」



 だってこれは、帰ったら使うものだ。もとの家に戻ったとき、教科書からなにからなくなっていたら、きっと困ってしまうに決まっている。私はただ旅をするわけじゃない。家に戻るための道を探しているのだ。「これは、私のだから。捨てるとか、無理! 責任は持つし」 遠野果菜、と荷物はたくさんの名前が書かれている。それをこんな森の中に放り出すなんてことは絶対できない。



「これは、最後まで持って帰るものだから」



 口から必死に言葉が溢れた。気づいたら、必死に教科書が入った鞄を抱きしめていた。「いや、別に絶対っつうわけじゃないけどさ……」 幹に持たれたまま、レグルスが耳の端っこを引っ掻いている。



「そんなら、俺が持ってやろうか? そっちの方が楽になるだろ」

「いいよ! おじいちゃんに持たせるなんておかしいし。私のだし」

「心がけは殊勝なんだが、ジジイじゃねぇっつってんだろ」





 ***




 おにいちゃん、おにいちゃん。




 まだまだあのときの私は小さくて、自分からどうにかしようなんて思えなくって、両手をじたばたさせてボロボロと涙をこぼしていた。ああ、うあん、ああん。私の大声もかき消されるくらいに、太鼓の音が鳴り響いた。ぴーひょろ、ひょろろろ、ひょろろろ……。人混みの中で大声ばかりをあげていて、暑くて、提灯に照らされた灯りがちかちかしていた。おにいちゃん。



 大声で泣いた。そうすると知らない大人が集まってきて、腰をかがめて私に声をかけてくれる。優しい言葉だったのに、そのときの私はただ泣くことしかできなくて、兄の名前を呼んでいた。おにいちゃん。



 ぱっと背中が明るくなった。振り返ると、まっすぐに花火が打ち上がって、弾けて消えた。ぱらぱらと火の粉が溢れる音が聞こえる。一瞬だけ、泣くのをやめた。そのときだ。「カナ!」 片手に綿あめを抱えた兄が、Tシャツ姿で慌ててこっちにやってきた。



「お前、勝手にどっか行くなよ。びっくりしただろ! 兄ちゃんの尻にくっついとけ、このばかやろー!!」





 ***





 お尻にくっつけとか、何を言いたいのかわからなかったけれど、あのときはとにかく私は必死に頷いた。ペチペチお兄ちゃんのお尻を叩いて、鼻水をずるずるにさせて、下駄の音を響かせながら歩いていった。どこにも行かない。でも、どこかに行ったって、きっとお兄ちゃんが見つけてくれる。そう思っていた。でも気づいたら、こんなわけのわからない場所に来てしまった。



「ひ、うわ、うわ、ひ、ひ、ひぃいーーーーー!!!!」

「走れ、走れ、走れーーーー!!!」



 ぴょんぴょん必死で跳ねながら背後の狼達から逃げていく。彼らは一様に息を荒くさせて口元からはあぶくをとばしている。休憩が終わって、レグルスと歩き始めてすぐのことだ。彼はふと、長い耳をぴくりと震わせた。それからすぐに私のもとまで飛び出して、思いっきり背中を押した。わっとびっくりしたのも一瞬で、とにかく走れと言われたから鞄を抱きしめ、必死で足を伸ばした。一歩、二歩、それから三歩。



 獣の匂いが立ち込めたのは、それからすぐだ。


 レグルスが夜の森から拾ってきた私の鞄がボロボロにされてしまっていたから、少しくらいの想像はできていたけれど、それでもまさか、本当にこんなことになるなんてやっぱり思っていなかった。



 鞄が重くて、うまく走り切ることができない。後ろを振り返ることが怖かった。なのに振り返ってしまった。その瞬間に、彼らは一様に飛びかかった。「ひ、や、わあ!」 勝手にどっかに行くなよ。なぜだか小さなころ、ふてくされた兄に言われた言葉が頭の中に響いている。私にできることと言えば、抱きしめていた鞄を正面に突き出したくらいだ。何もできない。



「うおらあ!」



 ひゃんっ、と子犬のような叫びと共に、飛び出したレグルスの飛び膝蹴りが、狼の腹にヒットした。私に飛びかかろうとしていた狼、と言うにはよくよく見ると少し小さな犬の一匹は見事に幹に叩きつけられ、体を折り曲げ悲鳴をあげた。それから一匹、二匹。持ち出した小さなナイフで腹をさばく。こぼれた血のあとを見て、改めてここは私が生きていた場所ではないのだと理解した。そしたらまた涙が出た。




 レグルスは、魔法があまり得意ではないらしい。ナイフの切れ味をよくしたり、重たいものを簡単に持ったり。できることはたくさんあっても、繰り返せばすぐに魔力は底をついてしまう。だから魔物を見るとできるだけ逃げるのだ。真っ暗な空の下で、木々にもたれながら幾度か指を叩いて、彼は小さな種火を作った。


 エルフの村からもらった薄い毛布を肩にかけて、「燃やすものがなけりゃ、こんな火しか出せねえんだよな」とため息をつくレグルスと二人、土の上に座り込んだ。



 もともと、木々が高くて光が当たり辛いからか、地面がしっとりしている。燃やすものにも苦労した。



「ねえレグルス」

「んん?」

「これ、燃やして」



 とりあえず出したのは、数学の教科書だ。数字は嫌いじゃなかったから、見てみるとなんだかまた悲しくなってくるような気がする。「あ? いやこれ」 ちょっとばかり、レグルスが困惑した。「いいよ、燃やそう」 表紙はてかてかしていて燃やしにくいような気がしたから、中のページを破いてみた。それからノートやら、プリントやら、種火にかざすと少しずつ炎が大きくなる。



 きっと、これからもっと怖いことがあるに違いない。その度に重たい荷物を背負って、家に帰るためだと叫ぶことなんてできやしない。(お兄ちゃんが、見つけてくれるって思ってた) でも私は、自分で帰らないといけない。覚悟を決めなきゃいけない。



「こりゃあったかいな」



 使える荷物は少しだけ。ばきばきにされて、外側の塗装がすっかり剥がれてしまった水筒を抱きしめた。役に立つものなんて、本当に僅かだった。「よく燃えるな。こりゃ楽だ。魔法は肩がこるんだよな」 レグルスが笑った。それから私を見た。ちょっとだけ瞬いて、そしてすぐに苦笑した。「カナ、お前また泣いてんのか」 ぐしぐしと、私は鼻をすすって焚き火を見つめた。できる返事はそれくらいだ。



「ほら、それ。貸してみろよ」



 私が抱きしめていた水筒に少年は片手を出した。腕で涙を拭いながらそれを渡すと、彼は短い呪文とともにもとはピンクの水筒の中になみなみと水を注ぎ込んだ。「うわあ、ず、ずごいぃ……」「めちゃくちゃ涙声な」 まあ飲んどけ、と渡された水を飲んだ。



「おいじい……」

「だから涙声な」



 おじいちゃんはこっちを見て笑っていた。それから、いつもの通りに私の背中を叩いた。ゆっくりと、空に向かって白い煙が伸びていく。ぱちぱちと、火花が弾ける音が聞こえる。

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